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第三十二話  暗殺中止

「な、何だと!」


 孫笑山ことわしは、手紙の内容を確認するなり驚愕した。


 同時に部屋の外へと大きく漏れるほどの声を上げたため、すぐに何事かと家令である在喜が慌てて部屋の中へと入ってくる。


「笑山さま、どうされました!」


「どうもこうもないわ!」


 わしは手紙を卓子の上に叩きつけた。


「仙道省の長官であられる陳烈善さまから、すぐに龍信を王都の仙道省に向かわせろとのお達しだ。どうも皇帝陛下が龍信との面会を望んでおられるとのことらしい」


「こ、皇帝陛下が!」


 これには在喜も目玉が飛び出るほど驚いた。


 当然と言えば当然だ。


 手紙の送り主こそ陳烈善さまだったが、内容によるとこの華秦国の象徴であり頂点に立っておられる皇帝陛下からの勅命としか思えない。


 そして天上人である皇帝陛下が『面会を望んでおられる』ということは、それはすなわち『五体満足の状態で必ず目の前に現れろ』ということと同義である。


 だとすると恐ろしくマズい。


 すでに龍信には、あの得体の知らない殺し屋を差し向けているのだ。


「一体、それはどういうことですか? なぜ、龍信のような食客だった者に皇帝陛下がお会いになりたいのです? いや、そもそもどうして皇帝陛下は龍信のことをお知りになったのでしょう?」


「……仙道省の長官であられる陳烈善さまだ。信じられないことに陳烈善さまと糞兄貴には密かな繋がりがあったらしい。それで龍信のことを陳烈善さまは以前から知っていたと書かれている」


 わしは卓子の上に叩きつけた手紙をグシャリと握り潰す。


「あの糞兄貴め、生前はどこまで交友関係を広めていたのだ。仕事の関係で西方の国の王侯貴族と繋がりがあったのは知っていたが、まさか中央政府の中枢を担う四省の1つ――それも皇帝陛下の信頼が厚いという仙道省の長官とも交流を深めていたとは……」


 突如、激しい頭痛に見舞われたわしは、その痛みの原因である手紙を何度も殴りつける。


「ど、どういたしましょう? すでに龍信や他の懐刀の連中にはあの殺し屋を差し向けておりますが……」


「他の連中のことはどうでもいい! こうなった以上、すぐに龍信だけは絶対に殺すのを止めさせろ! もしも龍信が皇帝陛下と会う前に不審な死を遂げたとなると、必ず士大夫の不審死を調べる以上の取り調べが入るぞ!」


 わしは唾が飛ぶほどの勢いで在喜に叫んだ。


 そうなると凄まじく厄介だった。


 下手をするとその調べは、わしが糞兄貴と息子を死に追いやったことにまで飛び火するかもしれない。


 それは在喜にも分かったのだろう。


 わしと一蓮托生である在喜は、「分かりました」と大きく頷いた。


「しかし、どうやって今さら無明の殺しを止めさせますか?」


 ふむ、とわしは顎に手を置いて考えた。


「あの無明とかいう殺し屋とは、手紙で路銀や龍信の情報などについてやりとりをしていたな? だったら、その手紙の受け渡し場所に向かう配達人を買収して「龍信を殺すな」と伝言させろ……表向きにはな」


「表向き……ですか?」


「そうだ。あの無明という殺し屋の、龍信に対する執着は異常だっただろう。2人の間に何があったのかはよく分からんが、今さら殺しを止めろと伝えて素直に応じるとはとても思えん。しかし、こうなった以上は絶対に龍信を殺させるわけにはいかん」


 そこで、とわしは言葉を続ける。


「殺し屋には死んでもらうのだ。密かに金で雇った別の殺し屋どもに配達人の後をつけさせ、口封じとして2人とも殺してしまえ。そして、それ以上に今度は情報にたけた人間を多く雇ってすぐに龍信を見つけさせろ。そうしたら、王都にあるわしの別宅に連れて来い」


 わしは孫家の屋敷には及ばないが、王都の一角に専用の家を持っている。


 あの妓女に定期的に会うために建てた家だった。


 そこに龍信を呼んで皇帝陛下に謁見する。


 屋敷から追放された龍信はわしに対して怒るだろうが、そんなものは何かと理由をつけてなだめればいいのだ。


 それこそ「気が変わったので屋敷の家守にしてやる」などでもいいし、または「王都の花街で好きなだけ女遊びをさせてやる」でも構わなかった。


 とりあえず皇帝陛下の謁見が終わるまでは、何としても五体満足の状態で龍信を生きていてもらわなければならない。


「分かったらお前はすぐに動け。私は一足先に王都へと向かう」


 かしこまりました、と在喜は頭を下げて部屋から出ていく。


「どいつもこいつも……一体どこまでわしの手を煩わせるつもりだ」


 わしは激しい怒りとともに、口内にためた唾を手紙に吐き捨てた。


 しかし、これはある意味において好機かもしれない。


 ようやく親類縁者を黙らせて孫家の当主となったのである。


 ならば、これを機会にわしの夢だったことを叶えてしまおう。


 わしがずっと惚れ込んでいた王都・東安1の妓女――翡翠館の紅玉こうぎょくを身請けするのだ。


 くくくっ……孫家の莫大な資産を使ってな。

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