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第三十四話  薬毒の秘伝書

「実はこの仙丹房は、ホンマは親父が使ってた薬房なんや。そんでここにあった薬研やすり鉢なんかも普通の器具に見えたんやけど、実は同じ薬材を使ってもどえらい薬ができる不思議な器具やったんやで」


「それは本当なのか?」


 俺の問いに春花はこくりと頷く。


「実際に親父は普通の薬で治るお客はんと、その器具で作る薬やないと治らんお客はんの薬は分けて作ってたわ。うちは全部その不思議な器具で薬を作ればいいんちゃうかって訊いたんやけど、何やこの器具は1日の間でずっと使えへんから無理やって言うとったな」


 俺は春花の話を聞きながら、床に破片が散らばっている器具を見下ろした。


 そんな俺に構わず、春花は話を続ける。


「せやけどうちは親父が死んだあとは、普通の薬では治らん病気や怪我をしたお客はんに渡す薬はその不思議な器具で作ってたんや。でないと店が潰れそうやったからな。ホンマは親父が生きている間にも使いたかったんやけど、親父は絶対に触れるなと使わせてくれなんだ」


 俺は散らばっている器具に近づくと、その欠片の1つを手に取って言った。


「それは君を思う親心だったと思うぞ」


「え?」


 俺は春花に不思議な文字が刻まれていた器具の欠片を見せる。


「この器具に刻まれている文字は仙字と言って、精気を込めれば特殊な力を起こす文字なんだ。おそらくこれらの器具には、薬材の効果を飛躍的に向上させる力を持つ仙字が刻まれていたんだろうな」


「じゃあ、その器具を使えば素人でも簡単に薬が作れるの?」


 訊いてきたのはアリシアだ。


「いや、それは無理だろう。仙字が刻まれていようが道具は道具だ。ちゃんとした薬の知識や調合の仕方はもちろんのこと、患者に副作用を起こさせない量に調整する技術は必要不可欠。ましてや、仙字が刻まれている器具を使えばなおさらだ。下手をすれば効き目が強すぎる薬ができて患者が大変なことになる」


 そして、と俺は付け加えた。


「何よりこの仙字が刻まれている器具の特徴としては、使用者の精気を勝手に吸収する類型があるということだ。おそらく、この器具もそうだったんだろうな」


「待ってえな。その精気とやらが勝手に吸収されるとどうなるんや?」


「量にもよるけど最悪な場合は死ぬな。傷口から出ている大量の血を、ずっと放置した状態を想像すればいい。だから春花の親父さんは、春花のことを心配して無闇に触るなと言っていたんだ」


 と、そこまで口にしたところで俺は気づいた。


「なあ、春花。君は親父さんが亡くなったあと、この仙字が刻まれていた器具を使っていたと言ったな。そのとき身体は何ともなかったのか?」


「そう言えば……その器具で薬を作るときはむっちゃ身体がしんどくなるから、それこそ早く薬を作ろうと躍起になったわ。お陰で以前よりも何倍もの速度で薬を作れるようになったで」


 俺は驚きを通り越して呆れてしまった。


 同時にやはり春花は、いつか名薬士になれるほどの天才だと確信する。


 普通の人間ならば気味悪がって薬作りをやめるところを、完全に疲れ果てる前に薬を作ろうと考えるなど常人の考え方ではない。


「まあ、親父のような薬士に憧れとったこともあるからな。ホンマに……殺されるまでにもっと色々と教えて貰いたかったで」


 このとき、俺は春花がふと漏らした言葉を聞き逃さなかった。


「君の親父さんは病気や事故じゃなくて、誰かに殺されたのか?」


 春花はハッとした表情を浮かべた。


 俺とアリシアが無言でいると、ほどしばらくして春花は「そうや」と頷く。


「1年前の夜のことや。うちはそのとき仲良くさせて貰っとったお客はんのところに行ってて助かったけど、ふらりとそいつはこの店に現れたらしいねん」


 その後、春花は1年前に起こった事件について語ってくれた。


 ある日、ちょうど春花がいないときに全身黒ずくめの男が百草神農堂に現れたこと。


 その全身黒ずくめの男は居残っていた数人の薬士を殺し、そして春花の父親も殺してあるモノを盗んでいったこと。


「誰だったんだ? その親父さんを殺した全身黒ずくめの男っていうのは?」


「さあ、さっぱり分からん。たまたま生き残った通いの薬士も顔までは見えんかった言うとったわ。せやけど金品や貴重な薬草なんて見向きもせずに、あんなモンを盗んでいくなんてまともなヤツやない」


「あんなモン?」


「親父が独自に纏めとった薬毒の秘伝書や……病気や怪我を治す調薬法が書かれた表の秘伝書と、毒に関する知識が書かれた裏の秘伝書を盗んでいったわ」


 俺は難しい顔で両腕を組んだ。


 病気や怪我を治す調薬法が書かれた表の秘伝書も価値は高いが、それよりも価値が高いのは毒の知識が書かれていたという裏の秘伝書のほうだろう。


 その裏の秘伝書には、毒手功のことも書かれていたかもしれない。


 毒手功どくしゅこう


 それは特殊な治療薬と毒物を使用し、主に手を毒化させる鍛錬法のことだ。


 では、そんな毒化させた手――毒手で攻撃されるとどうなるか?


 決まっている。


 毒手で打たれた相手は、数日のうちに必ず死に至る。


 なぜなら毒手に馴染んだ毒の治療薬を持っているのは、それこそ毒手を作り上げた本人しか持っていないからだ。


 そして華秦国全土に多く存在している武術の流派の中には、この毒手功による殺人のみを目的として技を磨いている流派もあった。


 もちろん、そんな流派に属する人間を好む武人や道士などいない。


 ゆえに武人や道士の間では毒手を使う流派を陰流(陰険で残忍な流派)と呼んで忌み嫌っていて、この毒手のことを梅毒に侵されて死ぬようなことに見立てて〝梅花掌〟と呼んで恐れおののいていた。


 もしかすると、春花の親父さんを殺したのは陰流(陰険で残忍な流派)に属する流派の人間かもしれない。


 そいつらは独自の情報網を持っていて、毒草にも詳しい優れた薬士のことを絶えず探している噂があった。


 春花の薬士の師匠だったほどの親父さんだ。


 どこからか腕前を聞きつけた陰流(陰険で残忍な流派)の人間が、自分たちの知らない毒草や調合法を知っているかもと接近してきたのかもしれない。


 いや、最初から裏の秘伝書があると当たりをつけて奪いに来た可能性もあった。


 まあ、今となっては俺の勝手な想像だが……。


 俺は器具の欠片をそっと床に置くと、春花に「君はこれからどうするんだ?」と訊いた。


 仙丹房に居座っていた仙獣はいなくなったものの、それ以上に春花は大口の客のために必要な特別な器具を多く失ってしまった。


 このまま店の経営をやっていけるのだろうか?


「どうするもこうするも、こうなったら薬屋を廃業するしかないな。肝心の仙丹房と器具がこの有様なら、大口のお客はんたちに卸せる薬はもう作れへん。それに普通の薬にしたって薬家行の買い取り値も下がってきているしな」


 直後、アリシアは薬家行と聞いて憤慨する。


「あんな最低な薬家行は今まで無かったわ」と。


 同時にアリシアは「ねえ、何でわざわざ薬家行に薬を卸すの? この店で売ったらいいじゃない?」とも尋ねた。


「親父が生きとるまではそうしとったんやけど、あんな事件が起きたあとは店まで薬を買いに来るお客はんなんていなくなったわ。せやから特別な薬以外の薬は薬家行に卸してたんや。ただ、どちらにせよこうなるともうこの辺が潮時かもしれへん。さすがにうちもこの店を維持しながら1人で薬を作って売るのは無理や」


 確かに、と俺は思った。


 この広さの建物や庭の手入れを考えると、毎月の維持費だけでも相当な額になるだろう。


 どれだけ春花が薬士としての才能と技術に恵まれていても、たった1人で自分の生活費と建物の維持費を稼ぐのは無理だ。


 しかも大口の客の薬が作れないとなるとなおさらだろう。


 そんなことを考えていると、春花は「せめて水連はんの薬だけは作っときたかったな」と言った。


 このとき、俺の片眉がぴくりと動いた。


「水連? 広場でこの街の名所案内なんかをしている水連さんのことか?」


「な、何で水連はんのことを知っているんや?」


 俺は水連さんとの出会いや、今も腰の施術をしていることを伝えた。


「じゃあ、水連はんの腰痛は完全に治るんか?」


 ああ、と俺は首を力強く頷いた。


「明日の施術で完全に治せるはずだ……というか、もしかして俺たちが知りたい情報を持っているのは水連さんなのか?」


 もはや隠す意味などないと思ったのだろう。


 春花は「そうや」と答えた。


 だとしたら、願ったり叶ったりだ。


 水連さんなら順調に話が進むに違いない。


「アリシア、明日の朝1番に水連さんに会いに行こう。そこで有力な情報が得られたのなら、そのまま街を出て東安に向かえるかもしれない」


「そうね」


 と、俺たちの中で話が纏まったときだ。


「なあ、兄さんら」


 何か考え事をしていた春花が口を開いた。


「うちも一緒に行ってもええか?」


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