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第四十二話  潜入

 男にとっての楽園である彩花が、本当の顔を見せ始めるのは夕方からだという。


 理由は男たちの相手をする妓女と呼ばれる絶世の美女たちが、本格的に客の前に現れるのが夕方からだからと景炎さんから聞いていた。


 確かに、と孫龍信こと俺は周囲を見渡しながら心中で呟く。


 現在は夕方――。


 徐々に夕闇が迫ってきており、あちこちの妓楼からは大量の行燈の明かりが灯り始めている。


 応じて彩花全体も熱く華やかに活気づいていた。


 道行く男たちの顔はほころび、大通りの左右に軒を連ねる各妓楼からは歌や二胡の音が聞こえてくる。


 どの妓楼も男たちを迎える準備を整えているに違いない。


 そして歩いている者が大半の大通りには、牛車や車輪が朱塗りしてある馬車で移動している者もいる。


 間違いなく高給取りの役人か金のある商人の類であり、目当ての妓女の好感を上げるために大見得を切っているのだろう。


 そんな大通りを連れと2人で歩きながら、俺は今が絶好の時期だと思った。


 昼間に目的地の把握を兼ねて軽く散策していたのだが、やはり大通りを行き交っている人間の数がまるで違う。


 男たちは文字通り肌で知っているのだ。


 この時刻から本格的に妓女たちが妓楼で動き出すことに。


 となると、この時刻を選んだことは間違いではなかっただろう。


 今ならば俺たちの目当ての人物は必ず妓楼にいるはずである。


 やがて俺たちは目的の場所――翡翠館へと辿り着いた。


「ちょっと待ちな」


 さり気なく出入り口の正門を潜ろうとしたとき、正門の左右に控えていた門番たちに俺たちは止められた。


「ご大層に剣なんか差してやがるが、ここはお前らのような小僧どもが来る場所じゃねえ。とっとと帰んな」


 小僧ども。


 門番たちは疑いもせずに、はっきりとそう言った。


 つまり、俺の連れを傍から見ても男だと認識しているということだ。


 顔が隠れるほど前髪を長く垂らした黒髪に黒い瞳。


 服装は俺や景炎さんと同じ長袍姿である。


 バレないとは思うが、あまり長居してジロジロと見られると分からない。


 もしかすると、ひょんなことからバレてしまう可能性もある。


 なので俺は素早くこの場を切り上げるため、懐から銀貨を出して門番たちにそっと手渡した。


「そこを何とかお願いしますよ。この通り、ここで遊べるだけの相応の金は用意してきたつもりです。田舎からはるばる親の用事で王都へと出て来たので、どうせ思い出を作るなら彩花の頂点に立つ翡翠館で遊びたいなと……」


 俺は早口で捲し立てると、すかさずもう1枚の銀貨を門番たちに渡した。


 門番は俺たちを〝田舎から来た金持ちの息子ども〟と思ったに違いない。


「……まあ、そういうことならいいだろう。ただし、2人ともその剣は置いていって貰うぞ。護身用に持って来たんだろうが、武器の類を持ち込まないのが翡翠館の決まりなんでな」


「もちろんです。よろしくお願いします」


 俺は門番の1人に〈七星剣〉の壱番目の形態である〈破山剣〉を、そしてもう1人の連れは西方の国の長剣を渡した。


「ん? 西方の剣を持っているとは珍しいな。こんなもん使えるのか?」


 連れを喋らせるわけにはいかず、俺は「使えるわけないじゃないですか」と笑いながら言った。


「こいつの親は西方と貿易している豪商でしてね。こういった西方の代物も色々と取り扱っているんです。その中の剣を威嚇用として適当に持って来ただけですよ」


 ふむ、と門番たちは互いに顔を見合わせた。


 どうやら、これ以上追及するつもりはないといった顔をしている。


「分かった分かった。じゃあ中に入ると何人かの禿がいるから、そいつらに色々とここについて教えて貰いな。もちろん、そいつらにも心づけを忘れるなよ」


 禿とは自分では客を取らない、妓女の見習いのような少女たちのことらしい。


「ありがとうございます。では――」


 俺は没収されたそれぞれの剣の保管場所を確認すると、もう1人の連れとともに足早に正門を抜けた。


 そのまま中庭に通じているだろう小道を通って本館である建物の中へと入り、禿には目も向けず観葉植物などが置かれていた壁際へと移動する。


「ふう……何とかバレずに済んだな、アリシア」


 俺は一緒にここまでやってきた連れ――アリシアに言った。


「男装って意外とバレないものなのね」


「いや、普通の男装だったらバレていたと思うぞ。門番たちも、まさか妓楼に入るためにここまで仕込む人間なんて最初からいないと思ってるんだろ」


 そうである。


 俺の隣にいるのは、男装したアリシアだった。


 黒髪は景炎さんが用意してくれた鬘であり、本来は碧眼だったアリシアの目を隠すために、今は黒色の彩色カラー穏形眼鏡コンタクトレンズを目に入れている。


 黒髪の鬘は女たちが男装するために使われる一般的なものだったが、この彩色穏形眼鏡は違う。


 西方から来た富裕層たちが黒髪の鬘とともに華秦国の人間に余興で扮するためのものらしく、一般には流通していないものを景炎さんが独自の伝手を使って手に入れてきてくれたのだ。


 そのおかげで女の、しかも異国人であるアリシアとともに翡翠館へと入ることができた。


 最初は春花もついてくると言っていたが、さすがに男装しても身長や顔立ちで入れないと判断したので、悪いが宿屋で待っていて貰っている。


 だが、それで良かったのかもしれない。


 などと思ったときだった。


 ゾクッと俺の背中に悪寒が走った。


 それはアリシアも同じだったようで、俺たちはその異様な気配の発生源に顔を向ける。


 おお~、と大広間にいた他の客たちから歓声が上がった。


 大広間の奥には2階へ通じる大階段があったのだが、その大階段の中央を歩きながら1人の妓女が2階から降りてきたのだ。


 それは美の化身と言っても過言ではないほどの美女だった。


 明らかに他の妓女よりも顔立ちや体形の良さが違いすぎる。


「紅玉だ」


「いつ見ても天女のようだな」


 と、客の男たちは満面の笑みを浮かべた。


 無理もない。


 それほど2階から降りてきた妓女の美しさは異質だったのだ。


 しかし、俺とアリシアにとってその妓女の美しさなどどうでも良かった。


「……アリシア、あの妓女から感じる異様な気配はその魔王とやらのものか?」


 アリシアは「間違いない」と険しい表情で頷く。


「忘れたくても忘れられない。あの気配は間違いなく魔王のものよ」


 やはり、そうか。


 あの妓女から漂っている異様な気配は、アリシアの体内から出てきた蝙蝠と同種のものだった。


 いや、こちらのほうが圧倒的に邪悪さと力強さが勝っている。


 しかも名前が紅玉ということは、あの妓女こそ魔王が憑依している妓女にほぼ間違いない。


 俺とアリシアは互いの顔を見合わせた。


「さて、だったらどうするかな。俺たちの武器は外の門番たちのところだ。それでも俺の武器だけはべばんでくるだろうが、そうなると騒ぎになってここは無茶苦茶になるだろう」


 これはアリシアにもすでに話していることだ。


〈七星剣〉の壱番目の形状武器――破山剣は武器自体に特殊な機能はついていないものの、どこにあろうと俺の手元へと呼べば戻ってくる。


 それだけではない。


 短時間だけならば、実際に手で操作しなくても操作できるということを。


 アリシアはこくりと頷いた。


「そうね。でも武器を取って来るのなら、あの魔王が憑依している女がここにいるのが絶対条件。そうすれば仮に騒ぎになったとしても、私は剣を取ってあいつをもう一度ここで倒せばいいんだから」


「落ち着け、アリシア。そうなったら俺も加勢する。決してお前1人だけで闘わせたりしないからな」


「龍信……」


 と、アリシアが俺に熱い眼差しを向けてきたときだ。


「おい、そこのお前ら」


 突如、俺たちは声を掛けられた。


 俺たちはハッとして周りを見回す。


 話に夢中になっていたことと、この翡翠館全体に充満している異様な気配のせいで気づくのが遅れた。


「そんな場所で何をコソコソとしている?」


 いつの間にか、俺たちは屈強な体躯の男たちに囲まれていたのだ。


 翡翠館に雇われている用心棒たちだろう。


「なるほど、禿たちが言っていた通りだ。お前ら、ここの女たちにまったく興味がないな。いくら俺たちでもそれぐらいは分かるぜ」


 次の瞬間、用心棒の男たちから鋭い殺気が放出された。


「妓楼に来て妓女に興味を示さないなんざ怪しすぎる。ましてや、ここは彩花1と評判の翡翠館だ。そんな客なんざいるわけがねえ」


 用心棒の男たちは腰の剣をすらりと抜く。


「ちょっと別室へ来て貰おうか? そこでゆっくりと話そうぜ、お2人さん」


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