「ひいいいい――ッ!」
「きゃあああ――ッ!」
俺とアリシアは異様な悲鳴を聞いて立ち止まる。
2階へ続く階段を見つけ、これから上がろうとした寸前であった。
「龍信……」
「ああ、おそらく大広間のほうからだな」
春花からの伝言で建物の内部は把握している。
自分たちが入ってきた場所から推測すると、大勢の男女の悲鳴が聞こえてきたのは大広間のほうからだった。
ただ事ではない。
俺とアリシアは〈気殺〉の状態を維持していたため何が起こったかは分からなかったが、尋常ではない事態が起こったことはその悲鳴を聞いただけでも知ることができた。
俺とアリシアは互いに顔を見合わせて頷いた。
〈気殺〉を解いて、代わりに〈聴勁〉を使う。
〈聴勁〉を使えば察知能力が大幅に向上し、大広間で何が起こっているか感覚的に把握できるからだ。
「――――ッ!」
〈聴勁〉に使い分けた途端、大広間のほうから力の塊が感じ取れた。
間違いない。
紅玉という妓女に憑依している魔王のものだ。
しかも以前よりはるかに強大で凶悪な力をひしひしと感じる。
それはアリシアも明確に察知できたのだろう。
となると、これから向かう場所は変わってくる。
俺たちは2階へ続く階段から背を向け、急ぎ大広間へと向かった。
やがて大広間へ到着すると、俺とアリシアは驚愕した。
そこには吐き気を催すほどの、凄惨な光景が存在していたからだ。
死体である。
男も女も関係なく、大広間には大量の人間の死体が転がっていた。
俺たちが死体を見渡していると、他の場所にいた客の男たちや妓女たちが大広間に来て絶叫する。
中にはそのまま失神する妓女や客の男もおり、何とか意識を保てた客の男たちは出入り口へと慌てて逃げ出していく。
一方の俺たちはここから逃げ出すわけにはいかなかった。
ここで何が起こったんだ?
俺とアリシアは悲鳴と絶叫が交錯している中、どこかに潜んでいる魔王を見つけるために周囲を見渡す。
だが、やはり床に転がっている死体にどうしても目が行ってしまう。
死体の中には客の男たちや妓女たちたちだけではなく、俺とアリシアが相手をした用心棒たちの死体も揃っている。
ただし、どの死体もまともに原型を留めてはいなかった。
ざっと大広間の中を見渡しただけでも、何か鋭利な刃物で身体を切り裂かれたような死体が圧倒的に多い。
中には生首だけの状態の死体も幾つもあった。
そのせいで床にはおびただしいほど血の海が広がり、むせるような凄まじい異臭が大広間全体に充満している。
地獄絵図とはまさにこのことだな。
客の男たちや妓女たちが気を失うのも無理はない。
さすがの俺でもこの光景には顔をしかめるしかなかった。
一方のアリシアも気を失うことや吐くことはなかったが、濃厚な血の匂いと裂けた小腸の中から発している大便の匂いに顔を歪めている。
直後、俺とアリシアは同時にハッとした。
「春花ッ!」
俺たちは揃えて声を上げると、死体の中に春花がいないか確認する。
大広間の中は血の海と化していたが、それでも死体が着ている服などは何となく確認することができた。
「…………」
どうやら死体の中には春花もそうだが、何かと協力してくれた景炎さんの死体もないようだ。
良かった、と俺たちはひとまず安堵の息を吐いた。
それでも生身の状態を確認するまでは完全に安心できない。
と、俺とアリシアが死体から他の場所へ視線を逸らそうとしたときだ。
転がっていた死体の1つが動き始め、両手を床について起き上がったのである。
その死体は肉体が損壊している他の死体とは違い、きちんと胴体に手足がついている太った男の死体だった。
まさか、と俺は思った。
けれども、顔を確認したことで俺の疑いは確信へと変わる。
孫笑山。
仁翔さまと優炎坊ちゃんの後釜で孫家の当主となり、俺を孫家の屋敷から追放した張本人であった。
「ふひ……ふひひ……ふひひひ……」
そんな笑山は、俺の顔を見るなりニヤリと笑った。
「お、おお……だ、誰かと思えば……りゅ、りゅ、龍信……りゅ、りゅ、りゅ、龍信ではないか……げ、げ、元気、げ、げ、げ、元気だったか?」
いや、それは俺が知っている笑山ではなかった。
なぜか裸だった笑山は全身血まみれの状態で、気の弱い人間なら竦み上がるほどの低い声で話しかけてくる。
「……
俺はぼそりと呟いた。
僵屍とは、何らかの理由で死後に妖魔となった死体のことだ。
そして、まさに今の笑山はどう見ても僵屍になっていた。
明らかに精気が抜け落ちた状態は死体のそれであり、人間とは思えない目つきや異様な喋り方が僵屍であることを明確に示している。
なので俺は瞬時に身構えた。
僵屍となった者は、生前の体力や筋力などは一切関係なく凄まじい怪力を発揮するようになる。
それこそ、大木を両腕で抱きかかえて粉砕するほどの腕力を得るのだ。
ただ、気になることが1つだけあった。
それは――。
「龍信、あの吸血鬼の男とは知り合いなの?」
「吸血鬼?」
俺は隣にいたアリシアに顔だけを向ける。
「間違いない。あの男は魔王に眷属にされた吸血鬼だわ」
アリシアはごくりと生唾を飲み込んだ。
「吸血鬼というのは、私たちの大陸でも最上級の強さを持つ魔物の総称よ」
俺はアリシアから再び笑山へ顔を戻して訊いた。
「その吸血鬼とやらの特徴は?」
「すでに死んでいるのは当然だけど、生前の記憶を持っているから普通の魔物と違って少しは喋られるの。でも、それは眷属にされた吸血鬼に限っての話よ。あとは獣のような特性が現れることが多いわ。生前の体力や筋力とは比べ物にならないほど強くなっているぐらいにね」
なるほど、と俺は心中で頷いた。
華秦国の僵屍は基本的に生前の記憶が無く喋られないはずなのに、どうして笑山が記憶を持って口が聞けたのか納得できた。
笑山は西方の国の妖魔――吸血鬼とやらにされたのか。
「ちなみに、その吸血鬼はどうやって倒す?」
「武器で倒すのなら正確に心臓を一突きするしかない。でも吸血鬼にされた人間は身体が硬質化していて、よほどの技量と武器を持ってないと皮膚を貫けないの。だから1番確実なのは、太陽の光を浴びせるか火で焼くことね」
聞く限りでは細かい点では違いがあるものの、僵屍だろうと吸血鬼だろうと同じだった。
華秦国の僵屍の弱点も日光と火なのだ。
妖魔だろうと西も東もないんだな。
などと考えていると、アリシアは腰の長剣を抜いた。
「ああなったら、もうあの男を人間として助けるのは無理よ。もしも顔見知りだったら残念だけど……」
「分かっている」
俺も〈七星剣〉の壱番目の形状武器――破山剣を抜き放つ。
1番の弱点は太陽の光を浴びせるか、もしくは火で焼く……か。
あいにくと今は夜であり、この大広間に火の類はまったくない。
だが心臓を正確に突けば倒せるのなら、破山剣でも通用するだろう。
「アリシア、お前は魔王がどこにいるのか探してくれ」
「あなたはどうするの?」
「どうするもこうするもないさ」
俺は〈聴勁〉を解いて、今度は〈周天〉を使った。
すると下丹田の位置に、目を眩ませるほどの黄金色の光球が出現する。
その不可思議な光球からは火の粉を思わせる黄金色の燐光が噴出し、螺旋を描きながら俺の全身を陽炎のように覆っていく。
「あの男とは大きな縁があってな。このまま妖魔としてのさばらせるわけにはいかない」
だから、と俺は破山剣の切っ先を笑山に向けた。
「あの男は俺が倒す」