目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第五十四話  覚悟

 あいつは無明じゃない。


 俺は嬉しそうに自分の身体を確認している無明を見て思った。


 姿形はまったく変わっていないが、こちらまで伝わってくる気の性質が今までとまるで違う。


 邪悪をさらに煮詰めたような、禍々しい負の力がひしひしと感じられる。


 直後、無明の肉体に異変が起こった。


 細身だった無明の身体が数倍に肥大したのだ。


 いや、それは肥大と言うよりも巨大化だった。


 身の丈10尺(約3メートル)を超える、小山のような存在感を持った巨人へと無明は変貌したのである。


 それだけではない。


 そんな巨人と化した無明の背中からメキメキという歪な音が鳴り、大人の頭部ほどもある鉤爪がついた2枚の漆黒の翼が生えてきたのだ。


 しかもそれは鳥の翼ではなく、巨大な蝙蝠の翼だった。


 しかし、無明の変化はまだ終わらない。


 バリバリバリッ!


 無明が穿いていた下衣が盛大に破れ、その下からは漆黒の体毛を持つ雄牛ほどの大きさの狼が現れた。


 無明の下半身が黒狼に変化したのである。


 その姿は異形以外の何物でもない。


 これではまるで本物の……。


 妖魔じゃないか、と俺が思ったときである。


「魔王!」


 大広間の中にアリシアの怒声が轟いた。


 同時にアリシアが俺の隣へとやってくる。


 すでに長剣はしっかりと抜かれていた。


「アリシア……今、何て言った? あいつが魔王だと?」


 そうよ、とアリシアは険しい表情で言った。


「間違いない。あいつは本物の魔王よ」


「ちょっと待て。魔王は妓女に憑依していたはずだろう?」


「そうね……だけど、どういうわけか今は化け物の肌を持っていたあの男に憑りついている。あの蝙蝠の翼と下半身が狼の姿になったのがその証拠よ。1年前、私が仲間たちと闘ったときも魔王はあんな姿になったわ」


 実際に闘ったことがある、アリシアがそう言うのならそうなのだろう。


 となると、考えられることは1つ。


 すでに俺たちが大広間に来るまでに、魔王は紅玉という妓女から別の人間へ憑依していたに違いない。


 では、誰に憑依していたのか?


 決まっている。


 俺は完全に絶命している笑山をちら見した。


 なぜそうなったかは不明だったが、おそらく魔王は紅玉から笑山に憑依していたのだろう。


 そして、俺はそれに気づかず魔王が憑依していた笑山と闘ったのだ。


 このとき、俺の背筋に悪寒が走る。


 無明に憑依したあとの魔王は確かに言った。


 次の宿主はあの小僧にしようかとも思った、と。


 もしも無明がこの場に現れなかったら、魔王に憑依されていたのは俺だったかもしれない。


 いや、確実にそうなっていた。


 信じられないことだが、どうやら魔王は血液を経由して他者へと憑依する妖魔のようだ。


 現在、無明が魔王に憑依された方法がそうである。


 無明は貫手の攻撃によって笑山の肉体を貫いたとき、当然ながらその攻撃した手に笑山の血がべっとりと付いた。


 その血におそらくは魔王の魂魄が宿っており、無明は油断した一瞬の隙をつかれて体内に血を入れられてしまったのだ。


 結果的に無明は心身を魔王に乗っ取られた。


 だが、1歩間違えればあの姿になっていたのは俺だっただろう。


 俺は無明が現れなかったら、まずは〈周天〉で高めた精気を破山剣の刀身に集中させる〈発勁〉で以て、硬質化していた笑山の皮膚を貫いて心臓を突こうと考えていたのである。


 それを実行していれば破山剣の刀身に血が付着し、俺は魔王の魂魄が宿っているとも知らずに血を拭っていた。


 あとは無明と同じだ。


 油断していた一瞬の隙をつかれ、俺は魔王に心身を憑依されていたに違いない。


 図らずとも命拾いしたということか。


 そう俺が思ったとき、魔王は大気を鳴動させるほどの叫び声を上げた。


 最初は俺たちへの威嚇の叫びかと身構えたが、よくよく見ていると魔王は自分の身体を見回して険しい表情を浮かべている。


「この人間風情が! この期に及んで私に抵抗するか!」


 魔王がそう言うと、


「ふ、ふざけるなよ……貴様こそ……俺の身体から……で、出ていけ……」


 同じく魔王がそう答える。


 まさか、本物の無明が魔王に抵抗しているのか。


 そうとしか考えられなかった。


 魔王はまだ無明の精神までは完全に乗っ取っていないのだ。


 だとしたら、これは千載一遇の好機である。


「アリシア、お前が以前に魔王を倒したときはどうやって倒した?」


 俺は魔王を見据えつつ、アリシアに尋ねた。


「火の魔法よ」


 アリシアも俺と同じく、魔王から視線を外さずに答える。


「魔法使いたちの火の魔法で魔王の身体を焼いて弱ったところを、私が精気を込めた一撃で一応は倒した……と、思ったのだけれど」


「そのときは最後まで倒しきれなかった」


 こくりとアリシアは頷く。


「ただ、魔王は火が弱点なのは違いないわ。1年前、私たちが倒しきれなかったのは火の魔法の火力が足りなかっただけ。だから、私は1人でこの国に来ると決めたときあの魔道具を手に入れたの」


 魔道具という言葉を聞いて、俺はすぐにピンときた。


「胸元に掛けている赤い石の首飾りか?」


「紅蓮水晶――お師匠さまを経由して手に入れた、強力無比な火の魔法の力を凝縮している特別な魔石よ」


 アリシアは自分の首に掛けていた首飾りを外して左手に持った。


「これを使えば今度こそ魔王に致命傷を与えられるはず……仮にそれが難しかったとしても、以前よりは弱らせられるはずだからすぐにとどめを刺せばいい」


 俺たちが会話をしている最中も、魔王と無明の激しい精神の闘いは続いている。


「それはどうやって使う?」


「魔石を装飾部分から外して2呼吸分(約10秒)が経てば発動するわ。それこそ、こんな小さな魔石からは想像もできないほどの凄まじい爆発が起こる。もちろん1回しか使えないけど」


 俺は震天雷のような代物かと察した。


 震天雷とは瓢箪型、もしくは球型の鉄の容器の中に火薬を詰め込んで爆発させる武器のことだ。


 そして震天雷は導火線を使って中の火薬に火を付け、強力な爆風と火炎によって周囲の敵を殺傷する。


 だがアリシアの紅蓮水晶という石は、装飾部分から取り外すだけで震天雷と同等かそれ以上の威力を発揮するらしい。


 だとしたら、俺が先ほど考えていた〈七星剣〉を最終形状に変化させる必要はないだろう。


 そもそもあれは形状変化させるだけでも時間が掛かり、なおかつ1日に1度だけという制約とありったけの精気を放出するので回避された場合が恐ろしかった。


 しかし、魔王を弱らせるか身動きを封じるだけというのなら話は別だ。


 それに特化した最終形状よりも制約が小さくて使える、〈七星剣〉の他の形状武器はある。


「アリシア、その首飾りを俺に貸してくれ。俺が何とかその首飾りの石を魔王に使ってやる。そして魔王が怯んだ隙にお前がとどめを刺すんだ」


 アリシアは目を見開き、首を左右に振る。


「だ、だめよ。そんな危険な役目をあなたにさせるわけにはいかないわ」


「いいんだ。それぐらいのことは最初から覚悟の上さ」


 俺はアリシアから半ば強引に首飾りを取った。


 左手に首飾り、右手に破山剣を持っていた状態でアリシアに微笑む。


「アリシア……お前の辛かった旅はここで終わらせてやるからな」


 俺は首飾りを懐に仕舞うと、裂帛の気合とともに床を蹴って駆け出した。


 今、自分が口にした言葉を実現させるために――。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?