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第3話 雨の音がなかったら

「あなたに別れ話をした時にお話ししました」

「え?」


 聞いてない。

 別れ話をされた日。

 雨が降っていた。


「震災の時に頭を打って、目が見えなくなりそうだから、別れようと」

「そんなこと、聞いておりません」

「きちんとお伝えしましたよ」


 呆然と立ち尽くすわたし。

 頭が真っ白になりそう。

 目の前にいる征太郎せいたろうさまのお声は、嘘を言ってるように聞こえない。


 その時、後ろから女中が現れた。


清子きよこさま。こちらでございましたか。まあ、先生。ここまでご足労いただきまして、ありがとうございます。こちらでございます」


 わたしの横をすり抜けようとする征太郎さま。


「『目が見えなくなりそうだから別れようと言った時、あなたが泣いて去ったのです」


 わたしにしか聞こえない声で、そっと呟いた。


 『そんなこと聞いてない』

 叫びたい気持ちだった。

 あの日、雨が降っていて、最初は雨の音で何を言ってるのか聞こえなくて、ただ、「別れよう」とだけ聞こえた。


 問い詰めなくても、伯爵家だった彼が、落ちぶれた公爵家の令嬢とはもう結婚できないのかと思って、別れを告げられたのだと思った。


 『しつこく問いただすことはあってはならない』

 そのように、お母さまに教わってきたのだから。


 こんな誤解があってもいいの?

 雨の音で声が聞こえなくて。

 誤解して、別れることになったなんて。


 一筋の涙が溢れた。


「お母さま?」


 わたしの足元にいる息子の心配そうな声。

 顔を見えない。

 顔を見ると、泣いてる姿を息子に見せてしまう。


 女中の手前、大声で征太郎さまに声をかけられない。


 征太郎さまの後ろに追いつくように、女中に怪しまれないよう、そっと、声をかけた。


「雨の音が、あなたの声を遮らなかったら、わたしは今もあなたの隣におりました」


 征太郎さまから、返事はなかった。

 一瞬、立ち止まっただけ。

 それだけで、征太郎さまのお気持ちを理解した。


 あの日、『どうしてですか?』と聞き返せなかった愚かなわたしで、ごめんなさい。


 後から廊下を歩いてくるキレイな女性が、女中に連れられて、征太郎さまに追いつこうとしていた。

 それに気づいた征太郎さま。

 足音だけで分かったのか、後ろを振り向いた。


「清子さま。わたくしの妻の明子あきこでございます。何かあれば、お申し付けください」


 2人並んで頭を下げ、乳母のもとに急ごうとする。


 もうあの頃に戻ることはない。

 それを確信した瞬間だった。


「雨なんて降らなかったら良かったのに」


「あなたの気持ちは、わたしと同じはずなのに」


 どんな言葉を発してもあなたに届くことはないだろう。

 目が見えなくなったあなたを支えてきたのは、明子さんなのだから。


 ただ、一瞬、振り向いた征太郎さまが頷いた姿に、やはり同じ気持ちなのだと知った。


 あなたの瞳も笑顔も覚えてます。


 でも、晴天の美しい太陽ですら、その姿をわたしに映し出してくれない。


 見る事が許されるのは、信じ、支えてきた明子さんなのだ。


 2人の後ろ姿がそれを物語っていた。

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