「あなたに別れ話をした時にお話ししました」
「え?」
聞いてない。
別れ話をされた日。
雨が降っていた。
「震災の時に頭を打って、目が見えなくなりそうだから、別れようと」
「そんなこと、聞いておりません」
「きちんとお伝えしましたよ」
呆然と立ち尽くすわたし。
頭が真っ白になりそう。
目の前にいる
その時、後ろから女中が現れた。
「
わたしの横をすり抜けようとする征太郎さま。
「『目が見えなくなりそうだから別れようと言った時、あなたが泣いて去ったのです」
わたしにしか聞こえない声で、そっと呟いた。
『そんなこと聞いてない』
叫びたい気持ちだった。
あの日、雨が降っていて、最初は雨の音で何を言ってるのか聞こえなくて、ただ、「別れよう」とだけ聞こえた。
問い詰めなくても、伯爵家だった彼が、落ちぶれた公爵家の令嬢とはもう結婚できないのかと思って、別れを告げられたのだと思った。
『しつこく問いただすことはあってはならない』
そのように、お母さまに教わってきたのだから。
こんな誤解があってもいいの?
雨の音で声が聞こえなくて。
誤解して、別れることになったなんて。
一筋の涙が溢れた。
「お母さま?」
わたしの足元にいる息子の心配そうな声。
顔を見えない。
顔を見ると、泣いてる姿を息子に見せてしまう。
女中の手前、大声で征太郎さまに声をかけられない。
征太郎さまの後ろに追いつくように、女中に怪しまれないよう、そっと、声をかけた。
「雨の音が、あなたの声を遮らなかったら、わたしは今もあなたの隣におりました」
征太郎さまから、返事はなかった。
一瞬、立ち止まっただけ。
それだけで、征太郎さまのお気持ちを理解した。
あの日、『どうしてですか?』と聞き返せなかった愚かなわたしで、ごめんなさい。
後から廊下を歩いてくるキレイな女性が、女中に連れられて、征太郎さまに追いつこうとしていた。
それに気づいた征太郎さま。
足音だけで分かったのか、後ろを振り向いた。
「清子さま。わたくしの妻の
2人並んで頭を下げ、乳母のもとに急ごうとする。
もうあの頃に戻ることはない。
それを確信した瞬間だった。
「雨なんて降らなかったら良かったのに」
「あなたの気持ちは、わたしと同じはずなのに」
どんな言葉を発してもあなたに届くことはないだろう。
目が見えなくなったあなたを支えてきたのは、明子さんなのだから。
ただ、一瞬、振り向いた征太郎さまが頷いた姿に、やはり同じ気持ちなのだと知った。
あなたの瞳も笑顔も覚えてます。
でも、晴天の美しい太陽ですら、その姿をわたしに映し出してくれない。
見る事が許されるのは、信じ、支えてきた明子さんなのだ。
2人の後ろ姿がそれを物語っていた。