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第5話 優しさ

 どれくらいのひまわりを見ただろうか。

 わたしの涙もとうに枯れ果てた。


 あの鏡は、わたしに幸せな笑顔を見せてはくれなかった。

 今日も太陽が照りつける。


 弟の賢治にひまわりを見せてるさくらは、すっかりお姉ちゃんの顔をしてる。


「お母さん!ひまわりに届かないよ!」


 さくらは毎年同じことを言う。

 きっと賢治もさくらの真似をするのかもしれない。

 時の流れが感じる。とても穏やかに。


「光子。客だよ」


 縁側から顔を覗かせた健一さんが、少しだけ笑った。


「誰かしら」

「君の、昔の友達の友達らしい」


 玄関に向かうと、痩せこけた軍服姿の男の人が立っていた。


「あなたは?」

「小笠原光子さんですね?」


 わたしを旧姓で呼んだその声に、胸の奥が少しだけ震えた。


「田中一平とは戦友でした」


 一平‥‥!?

 名前を聞いただけで、張りつめていたものがほどけてしまいそうだった。


 一平のことで、来てくれたの?

 生きてるの?でも、どうして、わたしに?


 パニックになるわたしに、その方は現実を突き出した。


「彼から生前、あなたとのことを伺ってました。生きて帰ったら、胸を張りたい、と」


 ‥‥生きてると勘違いした。

 そんなわけないと分かってても、やっぱり生きててほしかった。


「‥‥遠い戦地でしたので、戻ってきたのは数日前です。これを、あなたにお渡しするのが1番良いかと思いまして」


 渡されたハンカチを震える手で開くと、片割れの鏡だった。


「それでは、これで」


 引き止める健一さんの声が聞こえる。

 涙がポトポトと、頬をつたい、鏡に落ちていく。

 汚れて血がついてしまってるけど、欠けてなどいないようだ。


「大事にしてくれてたんだ」


 胸にしまっていたもう片方の鏡を取り出す。

 戦地から帰ってきた鏡と、静かに向き合うように並べる。

 ふたつがぴたりと合わさった瞬間、わたしの中の時もまた、音もなく重なった。


 泣き顔のわたしが映ってる。

 怒られるよね。「泣くな」って言うよね。


 その時、隣に現れた健一さんが、無言でスッとセロハンテープを差し出した。


「一つにしたらどうだ」


 それだけ言って健一さんは、さくらと賢治を呼ぶと、また庭へ戻っていく。



 戦地から帰ってきてくれたんだね。

 ねえ、泣いてないよ。知ってるでしょ?

 鏡を通して、見てるって、言ってたものね。

 あなたが戦地に行って、わたしは守られたよ、ありがとう。


「もう泣くことはないから、ずっと見ててよ。この鏡に笑顔をいっぱい届けるから」





 セロハンテープで鏡を一つにすると、化粧台にしまった。


 一つの思い出が、わたしの中で終わりを告げた。


 でも、わたしの中で、とっくに終わらせなければならなかった。


 あなたが結婚すると知った日。

 さくらが生まれたあの朝。


 それでも忘れられなかったんだ。


「一平。また会おうね」


 鏡に映ることがない涙が溢れていく。

 きっとこれが最後だと思うから。

 最後だけ泣かせてね。


 ごめんね、襖の向こうで見守ってくれてる健一さん。

 本当にこれが最後だから。

 もう、大丈夫だから。


 もう少しだけ待っててください。


 一平の笑顔が脳裏をかすみ、消えていく。

 国のために消えていった命を、わたしは、忘れないから。


 そしてわたしも健一さんと、この国のために、大切な我が子を育てていくから。

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