――坊ちゃん、あんたはいい人になれる。忘れないでください。
――そうですね。あなたは本来もっと楽しく生きるべきです
――だからこんなところでやられちゃダメっすよ!
どこかの風景。正確な場所はわからない。
森の中かもしれない。住宅街かもしれない。
あるいは燃え盛るビルの中なのかもしれない。
私を呼ぶ声がする。誰からなのかはわからない。
でもその声達は優しくて、暖かくて――
二度と聞くことはなかった。
(……ん?)
椅子にもたれかかって座っていた学ランを着た男はパチリと目を開いた。
この男の名前は陸島鉄明。今年の春に高校一年生になった。
陸島が辺りを見渡すとあたりには規則正しいエンジン音と重く無機質な金属の椅子と丸い窓が規則正しく並ぶ空間。椅子から立ち上がって見渡すが今、彼のいる場所には誰もいない。
(ここは……ああ寝てたのか)
地面に落ちていた本を拾い上げるどうやら本を読んでいる時に眠ってしまったらしい。
(しかし潜水艦で目的の学園に向かうとは……いったいどういう場所なんだ?それも結構大きいサイズと言っていたようだが――)
彼の言葉通り、潜水艦内部に設置された客室にいた。潜水艦『ほうらい』。それは表向きは国の潜水艦に登録されておらず、その詳細は伏せられている。
「坊主、目が覚めたか」
奥の機関室から一人の年老いた男性がやってきた。青い帽子を被った男はにっこり笑って坊主をみる。
「……どうも」
「どうだ?初めて潜水艦に乗ってみた感想は?」
「窓の外の光景、思ったより暗いんですね。昼なのに」
「ああ、昼でもこうさ。とにかく目的地までもうちょいだ。待っててくれ」
「わかりました」
こくりと頷くと少年はまた眠りにつこうとした。
眠りにつくのにさほど時間はかからず、彼を乗せた潜水艦はそのまま蒼く暗い海の闇を一定方向にぐんぐん進んで行った。
そこから三十分ほど経過した頃、潜水艦は浮上していた。目的地の島にあるドックについた為である。
(……まぶしい。思ったより潜水艦の中、暗かったな)
港の日光が仄暗い場所にいた陸島の目に差し込む。
外に出た彼を潮風が迎える。荷物を受け取ると彼はそのまま歩き出した。
「おーい!そこの学ラン坊やー」
誰かの声がする。そして陸島の前に一人の女性が現れる。
「こんにちは。あなたの入るクラスの一年A組の担任をしてる早瀬梓です。よろしくね」
「……魔女ですか?」
「いきなりね。そうよ。私も魔女よ」
目の前に黒のビジネススーツを着た女性。教師の早瀬梓が笑みを浮かべて挨拶をする。見た目は二十代後半の女性で長い黒髪を一本に整えて纏め、しわのないスーツも併せて見る者に綺麗な雰囲気を漂わせていた。
「おお早瀬ちゃん。今日もきれいだねえ」
「ありがとうございます整備士さん」
先ほど陸島に潜水艦の中で会話を交わした老人がにっこりと笑って彼女をほめる。
「早速で悪いんだけど、私の車に乗って貴方の寮まで送ってあげるわ。整備士さん、あとは私が案内します」
「結構です。歩いていきますので」
「えー?ここからは1時間はかかるわよ?」
「それでいいです」
「そう言わないで。この後に入学とかの手続きとかあるんだから。ね?」
「そうじゃよ。あまり美人さんを困らすでないぞ」
「……はあ」
渋々と彼は早瀬先生の提案に乗ることにした。
彼女の所有する水色のワンボックスカーに乗り、港近くのトンネルをまっすぐに抜ける。すると――
「あれ?」
「ふふん。凄いでしょ」
トンネルを抜けた先には街が広がっていた。
それも孤島にしては広く大きな街が。
遠くには電波塔。ビル群にアーケード。
住宅街とそれはまるで街のようであった。
(どうなってんだこりゃ?島の中にしてはどうにも発達してるというか……そう、いうなれば都会がそこに切り取ってあるような――)
「ここはね。国が魔女達の為に作ったの。歴史も長いわ。五百年前からあるって話もあるくらいで」
「はあ……それはまた」
進んでいく車は街の中に入る。住人は魔女ばかり……というわけでもなく、普通に男女入り混じってそこに生活圏が出来ていた。
「男もいるのか」
「ええ。眷属とかその子孫とか。結構いるわよ?」
街の景色を眺めていると時期にその風景は車窓から消えた。
「この奥よ。貴方の住むことになる寮は」
車はやがて山道に入るとそのふもとにある一つの建物前に止まった。
白い壁に覆われ、二階建ての高さに広々とした部屋を持つ建物。陸島がのちに聞いたのだが元々は島の眷属達が寝泊まりしている施設だという。
「ここね。それじゃあ荷物とかは一階のリビングにおいてあるから、明日には――」
「わかりました。さっき近くにバスがあったんで明日からは――」
「聞いて頂戴よ~」
しょんぼりした顔で早瀬は嘆く。
「この島というか暮らしというか……いろいろ特殊だからさ。手続き残ってるし明日までは送り向かいをしてあげる。大丈夫。遠慮しないで。八時までには来るから」
「まだバスは使えないと?」
「そうじゃないわ。でもいずれはそれか自転車に乗って通学してもらうかもだけど」
「……わかりました」
またも渋々と陸島は了承した。
「あれ?もしかして車苦手だったり?」
「いえ、そうじゃないです。部屋の準備とかに憂鬱になってるだけです」
「あ!忘れてた」
雷に打たれたように驚く早瀬。
「手伝ったほうがいいわよね?」
「結構です」
「そう?大変だと思うけど?」
「自分の事なんで」
きっぱりと断りの姿勢を陸島は向ける。
「それじゃあ明日、よろしくお願いしま――」
「ああごめんもう一つ」
「……なんです今度は?」
「これこれ」
早瀬は助手席に置いてあった小さな段ボール箱を開き、中身を一度確認してから陸島にそれを渡した。
「あの……これは?」
「島の学生さんに渡してあるスマートフォンよ。自前のスマートフォン多分電波入らないと思うから」
「ああ、なるほど。確かに受け取りました」
段ボールと手持ちの荷物を車から持ち出して降りると、陸島は車内の先生に向けて頭を下げて真顔で『ありがとうございました』礼を言った。そして自分がこれから世話になる建物の中に入っていった。
「ウォーロック、ねえ」
その背中を見送っていた車内の早瀬は首をひねる。
(やっぱりあの子たちと一緒で普通の子供というか。うん、あの家の子供だからかしら?会長の息子さんではないにしろ同じ釜の飯を……っておっといけない)
時計に目をやる。既に時刻は午後三時。
(仕事学校に残してるんだった。一旦帰らなきゃ。後のことはあの人に任せればいいか)
早瀬はレバーをそそくさと切り替えるとそのまま男子寮を離れ車を学校へと向けて走らせていった。