「荷物少なっ」
タクシーにダンボール箱3つで越して来た涼太を、達也は笑いながら迎えてくれた。
「達也センパイの荷物は?」
「トラック乗ってる友達に応援来てもらって積み終わったところ。そこの空き地で待たせてる」
表を顎で示しながらも、涼太の荷物を先に立って運び込む。
バイト先の先輩だった達也は、この度めでたく就職が決まり、その社員寮へと引っ越す事になった。
今日まで達也が住んでいた、家賃も立地も好条件なシェアハウスの部屋を、涼太が引き継いで借りられるよう大家さんに取り次いでくれたのだ。
友達も少なくインドアに引きこもりがちな涼太を心配して、人の気配が感じられるシェアハウスを推してくれているらしい。
「お前の部屋、ここな」
二階へ上がって奥の突き当たり。そのドアを開けて、達也はがらんとした床にダンボール箱を置いた。
「個室はそんな広くはないけど、1階の共用スペースはゆったりと充実してるから、まあ暮らしやすいと思うよ」
6〜7畳くらいだろうか。日当たりの良い洋室にシングルベッドがひとつ。
「ベッドとエアコンは備え付け。クローゼットもある。お前のダンボール、余裕で全部収まるな」
達也の説明を聞きながら、涼太は部屋を見回す。
「黄色い壁、かわいい」
コテ目を残したようなデコボコのある黄色い壁が、暖かく感じられた。
「あ〜これな、住人のタクミの仕業。建築家の卵でさ」
達也は苦笑しながら言って、出口へと歩き出す。
「塗料とか材とか試させて〜つって、家中がタクミの作品になりつつある。もうひとりの住人は家事代行サービス業のマキ。仕事が丁寧で料理が上手くてご指名が多いらしく、予約待ちが出るくらい忙しくしてるっぽい」
達也に案内されながら、涼太は改めて1階の共用スペースを見回す。意識高い系では決してない涼太の目にも、ふんわり漂うハイセンス感はわかる。
「二人のおかげで、この家がなんとなくオシャレで整然と保たれてる。俺なんかは何の役にもたたなかったが、ちゃんと仲良くしてもらったから、お前も心配すんな」
「ちょっと緊張してます」
涼太が情けなく言うと、達也は声を上げて笑った。
「学生の涼太とは生活時間が違うからな〜。それが逆に、お前には丁度良い距離感じゃないかな」
言いながら、上着やジーンズのポケットをまさぐる。
「マキはとにかく仕事が詰まってるようだし、タクミは来月から留学するんで、準備に追われてるようだし……」
達也は2本の鍵をポケットから取り出し、こっちが玄関、こっちが個室の鍵な……と言いながら涼太の手のひらに乗せた。
「おっと時間だ。友達待たせてるんだった」
達也は時計を見やって、大慌てで玄関を出る。
「またな涼太! 連絡する!」
ぴゅーっと飛び出して行く背中を、涼太も慌てて見送りに出る。
「ありがとうございました! 気を付けて!」
涼太の声に、達也はヒラヒラと手を振って角の空き地で待機するトラックの方へと走って行く。
丁度その向こう側から来る自転車の女に出会い、達也がすれ違いざまに叫んでいる。
「あれ後輩、今日から宜しくな!」
こちらを指差しながら。
「了解! 達ちゃん元気でね!」
女も返して――しかし、両者とも立ち止まる事なく笑顔ですれ違った。
女の自転車は全力疾走で近付いてきて――やはり立ち止まらず走り去る。
「新入り君、宜しくね〜!」
あれがマキさんか?
帰って来たのではなくて、次の仕事への移動中ということか?
無造作ポニーテールをなびかせて、汗をキラキラさせて、笑顔の流し目で走り去って行った。
恐ろしく美人だった。
車のエンジン音にハッとする。
そうだ、涼太は達也の出発を見送りに出て来たのだ。
トラック助手席の達也に大きく手を振りながら、それなのに、マキの残像に心を持っていかれている自分が情けない。
いや、だって恐ろしく美人だったのだ。
すっかりお世話になった頼れる先輩とのお別れは心細く、今日からの新生活への不安がのしかかったその途端――
少しばかりの期待がそこに加わった事が、涼太をドキドキさせていた。
同居人が何せ、恐ろしく美人だったのだ。
同居人のマキとタクミに挨拶を……と待っていたが、居酒屋のバイトの時間になってしまった。
涼太は、買ってきた手土産のクッキーをダイニングテーブルに置いて、
《本日から同居させて頂きます。宜しくお願い致します。高橋涼太》
とメモを添えて出かけた。
25時までのシフトをこなし、深夜に忍び足で帰宅すると、部屋のドアに2枚のメモが貼り付けてあった。
《クッキーごちそうさま! タクミ》
という、走り書きのようなタクミの文字。
《宜しくお願いします。クッキー美味しくいただきました。 マキ》
という、可愛らしいが丸文字までは行かないマキのオシャレ美文字。
なんだか二人の人となりが見えるようで、涼太はクスリと笑った。
疲れた体をベッドに投げ出し、マキのメモを、灯りを透かすように眺める。
文字まで美人だ……と、小さく呟いた。
コミュ障気味で、女性にもほとんど耐性がない涼太にとって、マキはあっという間に「憧れの天使」になってしまった。
深夜までのバイトをして、お昼前頃から授業に出かけていく学生の涼太は、忙しく働く二人とは時間が合わず、顔を合わさないまま数日が過ぎた。
その間、三人の交流は、至る所に貼られるメモで深まって行った。
壊れていた棚に
《修理済み。使って大丈夫》
というタクミのメモ。
筍ご飯のタッパーに
《タケノコたくさんもらったからおすそ分け》
というマキのメモ。
役に立てる事がない涼太が、せめてもと、お風呂掃除を頑張ると
《お風呂気持ち良かったです! ありがとう》
と、マキから労いのメモ。
サバサバしたタクミの距離感と、小さな事にも気付いてくれるマキの細やかさが、涼太に心地よい暮らしを与えてくれていた。
そして、絶品の筍ご飯を食べながら、涼太は呟く。
手料理まで美人だ……と。
さすがは引っ張りだこの家事代行サービススタッフだ。
昨日の《良かったらどうぞ》の味噌汁も、めちゃくちゃ染みた。
その手が生み出す料理にも、メモから伝わる優しさにも、涼太はすっかり骨抜きにされてしまった。
オシャレ美文字のメモが貼られているだけで、幸せな気持ちになる。
天使のメモ……いや、恐ろしく美人の、メモの天使だ。
同居初日からの涼太宛てのメモを、捨てられずに全部ファイルしてある事はナイショだった。
それは唐突だった。
シェアハウスの玄関に引越しの荷物が箱詰めされているのを見て、涼太は思い出したのだ。
越して来た日、先輩の達也が言っていた。
マキはとにかく仕事が詰まってるようだし、タクミは来月から留学するんで、準備に追われてるようだし……
留学するんで
留学……留学……
するんで……するんで……
リバーブかかって頭の中に甦る達也の声。
え……
出てくの? タクミさん。
つまり、他に同居人が来るまで、マキと二人暮し――という事だ。
ちょっと待って。
それは待って! いくらなんでも……
そうだ、いくらなんでもコミュ障涼太にはハードな試練だ。
そんな状況でマキと面と向かったら、意識し過ぎてとてもまともな会話なんて出来ない。
フワフワ〜と、ギューっ! が、胸の内を行ったり来たりしている涼太の背後から、耳慣れぬ声がした。
「出発準備進んでるみたいだね〜タクミちゃん」
並ぶダンボール箱を見ながら、涼太の側へ来て、にっこりと感じの良い笑顔を寄越す。
「やっと涼太くんに会えた。初めまして」
ちょっとぽっちゃり体型の、優しい口調のメガネ男だった。なぜかエプロン姿だ。
ダレコレ? コノヒトダレ?
固まる涼太。
そこへ、あの日以来憧れ続けた天使が現れた。
なぜか、ダンボール箱を抱えていた。
「大変そうだね〜」
ぽっちゃりエプロン男がその箱を受け取って、バケツリレーのように涼太に渡す。
涼太は、受け取った箱の表に書かれた文字に釘付けになる。
サバサバしたタクミの走り書き文字が、そこにあった。
《太田久美》
と書かれてあった。
ダレソレ? ソノヒトダレ?
パニック寸前だ。
天使が言った。
「わたくし太田久美、ニックネームじゃなく本物の、理想の匠となるべく、ヨーロッパで建築を学んで参りますっ!」
元気に敬礼をしてみせる。
オオタクミ……
オオ、タクミ……?!
ぽっちゃりエプロン男がパチパチと拍手をした。
「わたくし真木賢一、日本の地より太田久美殿の御活躍を応援しております!」
天使のテンションに乗っかって、エプロン男も名乗りを上げる。
マキケンイチ……
って……
まさかのこっちがマキさん……?!
涼太は、ずっと自分を癒してくれていたメモの天使の正体を知った。ヘナヘナと力が抜けて座り込む。
「あらら大丈夫ですか?」
真木が驚いて手を差し伸べる。
「あ……はい……大丈夫……」
な訳ないじゃん……と心の中で続けた涼太の手から、久美がダンボール箱を取り上げた。
「そんな重くないはずなんだけどな……」
弱っちいぞ〜リョータ……と、苦笑しながら箱を玄関に運ぶ。
「今日はお休み取りましたから、腕によりをかけて料理してるんですよ。涼太くんの歓迎会と、タクミちゃんの壮行会しましょう」
真木がキッキンへ向かいながら言う。
「やった〜マッキー最高!」
ぴょんぴょんしながら天使が真木の後を追う。
作業頑張った感漂う無造作ポニーテールの首すじに、おくれ毛が揺れて麗しかった。
涼太は頭を振って、ゆるゆると立ち上がった。
そうだ。勝手に勘違いをしたのは自分だ。
暴走自転車の彼女に勝手に一目惚れして、そうだ、勝手にオシャレ美文字を彼女が書いたものだと思い込んだ。
美味しいご飯に胃袋掴まれて、心遣いに癒された。
そう、全部自分が勝手に思い込んだ事だ。
コミュニケーションも図らず、知ろうと踏み込んでも行かなかった。
そうなんだけど……
そうなんだけどさ。
そのニックネーム!
そのオシャレ美文字!
やっぱり紛らわしくないですか〜?
メモの名前だって
タクミじゃなく久美と書いてくれ!
マキじゃなく真木と書いてくれって!
俺だけが悪い訳じゃないぞ!
あんたらも悪質だと思うぞ!
おう! ぜってえ悪質だぞ!
振り回された恨みを、心の中で叫ぶ。
思わず拳を握りしめる。
ひとりメラメラと滾っている涼太に、久美がキッチンから顔をひょこっと覗かせた。
「美味しそうだよ! リョータもおいで♪」
ククッと笑って消えた。
待って死ぬほど可愛い……
握った拳を緩めて、涼太は髪を掻きむしった。
何が悪くて、どこで間違ったか、数え上げたらキリがないけれど――
たったひとつ
確かな事があるとするのならば
君は綺麗だ
かのラブソングが、頭の中で流れていた。
END