目が覚めるたびに、奇妙な違和感が胸に残る。
けれどそれは、目を開いた瞬間に溶けてしまうほどの儚いものだった。
高校一年の夏休み。
俺――
都会のアパート。親の援助もあり、生活に困ることはない。
もともと家事は得意だし、誰にも干渉されず、自分のペースで暮らせる環境は心地よかった。
特別仲の良い友人がいるわけでもない。学校では当たり障りなく会話し、必要最低限の関係だけ築いている。
そんな、自分にとって理想的な日々だった。
……はずだった。
ここ一週間、毎晩のように同じ夢を見ている。
見慣れた教室。変わらない景色。ただし、俺は“女”だった。
制服はスカートに変わり、周囲の生徒たちは俺を女子として自然に受け入れていた。
自分でもその姿に違和感を抱かず、日常のように振る舞っている。
けれど、目覚めるとその内容はぼんやりとしか思い出せない。
そしてまた、普段通りの日常が始まる。
ただ、ひとつだけ現実の中に残る違和感があった。
朝起きたとき、手が小さく見えたり、声が妙に高く感じたり。
一瞬の錯覚。夢の名残だと、そう思い込んでいた。
その日までは。
*
ふわりと柔らかなシーツの感触に包まれて、目が覚めた。
部屋は静かで、朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。
いつも通りの目覚め――そう思いながら、俺はゆっくりと身体を起こした。
その瞬間、違和感が背筋を走る。
視界が低い。
床までの距離、棚の高さ、ベッドの位置関係。
どれもわずかにズレていた。
反射的に手のひらを見た。
細く、滑らかな指。爪は丸く整っており、色もほんのりピンクがかっている。
その手を、胸元に添える。柔らかな感触が、確かにそこにあった。
「……は?」
自分の声に驚く。
高く、澄んでいて、けれど確かに“俺”のものではない。
慌てて部屋を見回す。
白と淡い木目調でまとめられた、清潔感のある空間。
よく似てはいるが、これは俺の部屋じゃない。
家具の配置、カーテンの色、何もかもが微妙に違っていた。
机の上に置かれたスマートフォンを手に取る。
ロック画面は顔認証だったが、難なく解除された。
画面に表示された名前は「柊
柊は俺の名字だ。だが、“綾”という名前に見覚えはない。
似ているが、俺ではない誰か。
まるで、鏡写しのもう一人の自分のようだった。
ホーム画面をスワイプし、メッセージアプリを開く。
開いたトーク履歴には、見覚えのない名前が並んでいる。
「おはよ〜」
「今日も暑いね〜」
そこには、俺ではない“誰か”が、日常のように返事をしていた。
だがその送り主の名前は――「綾」。
このスマホの持ち主。
鏡の中にいた、夢で何度も見た“あの女の子”。
俺は、確かに変わってしまった。
目の前にある現実が、そう語っていた。
洗面所に向かう。
蛇口をひねり、水をすくって顔を洗う。
そして、ふと鏡に顔を向ける。
そこに映っていたのは、俺ではなかった。
どこか眠たげな目元、整った眉、艶のある腰辺りまでの髪。
目元の印象だけが、かすかに自分を思わせる。
「……どういうことだ」
吐き捨てた声が、またしても少女の声で返ってくる。
背筋がぞくりと震える。
それでも、俺の指は自然に動いていた。
化粧水のボトルを手に取り、適量を掌に出して肌に馴染ませる。
髪を結ぶゴムを手に取り、手早く結い上げる。
歯ブラシを咥えながら、朝のニュースを横目にテレビをつける。
どれも、意識しなくても身体が勝手にやってくれる。
綾人としての俺の意識は、この身体には宿っていない。
だが、この身体――“柊綾”の生活は、確かにここに刻まれていた。
脳はまだ綾人のまま。
けれど、身体は綾としての生き方を当然のように受け入れている。
二つの“自分”が、せめぎ合っていた。
カレンダーを確認すると、今日は日曜日。
予定は空欄。
メッセージ履歴を遡っても、今日誰かと会う約束はしていない。
幸いだ。今すぐ誰かと顔を合わせることだけは避けたかった。
――これは、ただの夢じゃない。
目覚めた今、この現実を生きていくしかない。
鏡の中の“綾”が、こちらをまっすぐに見つめていた。
その顔に、ふと微かな違和感を覚える。
――どこか、誇らしげな、そんな表情。
「……やれやれ。これからどうするかな」
言葉と共に、綾の口元が微かに笑った。