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第7話:初めてもらったコメント

金曜日の夕方。教室の窓から見える空は少し霞がかっていて、雲の間にぼんやりと沈みかけた陽がにじんでいた。


今週も、もう終わる。



何かがあったような気もするし、何もなかったような気もする。淡々とした日々。変化の少ない生活。奈帆とは何度か笑い合ったし、授業もそれなりにこなした。帰り道には、少し肌寒くなってきた風が吹いていて、秋が近づいていることを感じさせた。


マンションの鍵を開け「ただいま」と呟く。脱いだローファーを揃えて、鞄を置いて、そのままダイニングの椅子に腰を下ろした。エプロンをつける前に、ふと思い出したようにスマートフォンを取り出す。


ツブヤイターのアプリを開く。いつも通りのつもりだった。


でも、画面の右上に「通知1」の表示があった。


(……ん?)


思わず眉をひそめ、タップする。


昨日投稿した夜ごはんの写真――鶏の照り焼きと、にんじんの白和え、味噌汁。いつもと変わらない、静かな食卓の記録。


その下に、小さく。


「美味しそうです。最近投稿見はじめました。毎日楽しみにしてます。」


その一文を、俺は何度も読み返した。


画面の明かりだけが静かに照らす中、手のひらがわずかに汗ばんでいた。息を吸うのも、少しだけ忘れていた気がする。


知らない誰か。でも、この文章は、確かに俺に向けられている。


作ったごはんを撮って、言葉を添えて、投稿ボタンを押すだけ。それだけのことを一週間、誰にも気づかれずに続けていた。でも――


(見てる人が、本当にいたんだ)


指先が軽く震えていることに気づき、俺はスマホをそっとテーブルに置いた。声に出すのも、笑うのも、まだ少し恥ずかしかった。


ただ、胸の奥に、じんわりと温かい何かが広がっていた。


評価されたいわけじゃなかった。誰かと繋がりたいと強く望んでいたわけでもない。ただ、誰にも言えない日々の中で、自分の生活を記録する場所がほしかっただけ。


でも今、その記録が“誰かの目に留まった”ということが、こんなにも心を動かすとは思わなかった。


冷蔵庫を開ける。夕飯の献立は決めていなかったけれど、自然と動きはじめていた。


鶏むね肉とピーマン、たまご、にんじん。冷蔵庫にあるもので、色合いを考えて選ぶ。冷たいフライパンに油を敷いて、野菜を切る音がまた静かにキッチンに戻ってきた。


(誰かが見てくれている)


その事実が、今日のこのごはんを少しだけ特別なものにしてくれた気がした。


たとえ、名前も顔も知らない誰かでも。


フライパンに火を入れる。油がじんわりと熱を帯びていく間に、刻んだ野菜たちをバランスよく皿に並べてみる。


盛りつけにほんの少しだけ気を使うのは、いつものこと。


でも今日は、ほんの少し――もう少し、だけ。


「美味しそうです。最近投稿見はじめました。毎日楽しみにしてます。」


あのコメントの言葉が、まだ心のどこかに残っていた。


誰かが見てくれている。

誰かが、毎日の投稿を“楽しみにしている”と言ってくれた。


それだけのことが、こんなにも心を揺らすとは思っていなかった。嬉しいというよりも、温かい。静かな安心感。小さな炎が胸の奥で灯るような感覚。


(……返信、したほうがいいのかな)


料理を火からおろし、皿に移す。温かいうちに食べるのが一番なのに、今だけは少しだけスマートフォンを手に取りたくなった。


ツブヤイターの投稿画面を開く。コメントの欄を見つめながら、文字入力の欄に親指を置く。


(変じゃないかな。うまく返せなかったら……)


一度、スマホを伏せる。

俺は人と深く関わるのが得意なタイプじゃない。面倒ごとは避けてきたし、自分の内側をさらけ出すのも好きじゃなかった。


でも――


(せっかくもらった言葉に、何もしないままなのは……たぶん、違う)


ゆっくりと画面を起こし、コメント欄に文字を打ち始めた。


「見ていただいてありがとうございます。

毎日ではないかもしれませんが、続けていきたいと思ってます。

よかったら、また覗いてください。」


それだけの、短い返事。

丁寧に読み直してから、ゆっくりと投稿ボタンを押す。


画面が切り替わり、自分の返信がコメントの下に表示される。


(……これで、よかったのかな)


たぶん、このくらいの距離感が今の自分にはちょうどいい。必要以上に踏み込まず、でも、ちゃんと誰かに言葉を返す。


料理は少し冷めてしまったけれど、今夜の食卓は、昨日までより少しだけあたたかい気がした。


食べ終えたあと、洗い物をしながら、頭の中には次の献立が浮かびはじめていた。


この週末、少しだけ手の込んだものを作ってみようか。


名前も知らない誰かに、また「美味しそう」と言ってもらえるように。


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