土曜日の朝。窓の外には、まだ少しだけ残る夜の気配があった。
ベッドの中で目を開けて、綾――いや、俺はスマートフォンに手を伸ばす。画面には、未読のメッセージがひとつ。
《おはよー!今日、何時集合にする?》
奈帆からだった。昨日の夜に俺が送っていた「明日の時間何時にする?」に、返事が来ていなかったので、たぶん寝落ちしたのだろう。
「……11時くらいに駅前で。お昼はうちで軽く食べよっか」
そう打って送信すると、数分と経たずに「了解っ」とスタンプ付きで返ってきた。変わらないテンションと気軽さに、自然と口元がゆるむ。
誰かと遊ぶために休日の予定を立てるなんて、きっと本当に久しぶりだ。
男だったころも、誰かを誘って買い物に出かけたり、自分の家に招いたりすることなんて、ほとんどなかった。
でも“綾”として過ごす今、こうして奈帆と自然に会話が続いていることに、俺はなんの違和感も抱かなくなっていた。
駅前に着いたのは、待ち合わせの10分前。今日は以前購入したワンピースを少しソワソワした気持ちで着てきた。少し迷った末に、上から白の薄手カーディガンを羽織ってきた。季節の変わり目にしては、日差しがまだ少し暑い。
待ち合わせ場所の時計台の下で立っていると、背後から「綾〜!」という聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、フード付きの黒パーカーに、白のロングスカートというラフな服装の奈帆が、スニーカーで駆けてくる。
「おはよ!」
「おはよう」
「今日も綾、バッチリ決まってるね〜!やっぱりセンスいいな〜」
「……ありがと。この前話してた服なんだよね」
「え、めっちゃ綾に合ってるね!あ、そういえばさ」
奈帆は嬉しそうに声を弾ませた。
「この前さ、一緒に服買いたいって言ったじゃん?あれ今日やんない?」
「……いいよ、おもしろそうだし。」
実は少し期待していた。奈帆と服を見るのも楽しそうだと、思っていたから。今日のワンピースと相まって、高揚している自分がいた。
ショッピングモールに入ってまず向かったのは、服飾フロア。秋物の新作が出始めた店内は落ち着いた色合いが多く、ゆっくりと商品を見て回るだけでもどこか心が満たされるようだった。ここに入るのも慣れたもので、レディース専門店でも緊張しなくなっている自分がいた。
「じゃあさ、こっちのコーナーで私が綾の選ぶね」
「うん。私はあっち見てくる」
そう言って、自然と二人は別の棚へ向かう。俺は奈帆に似合いそうな服を探しながら、ふと“誰かのために選ぶ”という行為に少しだけ緊張している自分に気づく。
――結果的に、選んだのは。
俺から奈帆へは、少しくすんだ青のチェックシャツ。彼女の明るさにちょうど映えるような一枚。
奈帆から俺への服は、オリーブグリーンのニットカーディガンだった。シンプルだけど、細かい編み模様が入っていて、大人っぽさもあった。
「これ、綾に絶対似合うと思った」
「……ありがとう。着てみる」
「綾が選んだ服もめっちゃいい!私こういうの選ばないからなんか新鮮!」
それぞれ試着して、少し照れくさくなりながらも、一緒にレジへ向かう。
お互いの服を選び合って、そしてそれを素直に受け入れることが、こんなにも自然にできることに、俺は少しだけ驚いていた。
そのあとは、スーパーへ。食材を買い込むのが今日のメインの目的だ。
「綾ってさ、スーパーでの動きがすごいんだね……」
「そう?」
「めっちゃスムーズじゃん。必要なものがちゃんと頭に入ってる感じするし」
「だいたい決まってるから。冷蔵庫の中も把握してるし」
「かっこいい……主婦か……」
「主婦って」
買い物かごに入れたのは、にんじん、長ねぎ、豆腐、小松菜、しめじ、そして鶏むね肉。ほかにも出汁パックや白ごまなどの常備品。
「てか、また鶏肉?綾って鶏好きだよね?学校でもいつも食べてるイメージ」
「うん。味つけの幅が広いし、安いし、ヘルシーだし。個人的には一番使いやすい」
「なんかそのコメントがプロっぽくて笑うんだけど」
「……ただの一人暮らし」
実際、鶏肉はよく使う。特にむね肉は火の通し方さえ気をつければしっとり仕上がるし、色んな料理に応用が効く。気づけば自然と買い物かごに入っているようになっていた。
エコバッグは既にずっしりと重かった。俺と奈帆で一袋ずつを持って歩く。
「こうして一緒に買い物するの、なんか新鮮だね」
「……うん。でも悪くない」
「お、綾が“悪くない”って言ったら、それは最高評価じゃん!」
「……そんなことない」
「あるよー!」
にぎやかな奈帆の声と、いつもより少し軽く感じる荷物。
俺はふと、自転車ではなく徒歩で来てよかったと思った。
天気もよく、空も高く、これから誰かとごはんを食べるために買い物をしている。そんな時間が、今の俺にとって、少しだけ宝物のように思えた。
自宅の玄関前まで来たとき、奈帆がぽつりと呟いた。
「ねえ、ほんとに今日、綾の手料理が食べられるのか〜。楽しみすぎてハードル上がってるかも」
「そんな大したもん作らないよ」
「いやいや、期待してるから!」
玄関を開けて、「おじゃましまーす!」と元気に入っていく奈帆の背中を見送りながら、俺は少しだけ深呼吸をした。
いつもより、少しにぎやかな週末の始まり。
その続きを、ちゃんと楽しんでみようと思った。