「おじゃましまーす!」
元気よくそう言って玄関をくぐった奈帆が、部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、足を止めた。
「……あれ? なんか思ってたのと違う」
振り返った奈帆の目が、少し驚いたように丸くなっている。
「なにが?」
エコバッグを下ろしながら問い返すと、奈帆は部屋の中をきょろきょろと見回した。リビング、キッチン、壁にかけられた小さなカレンダー、整頓された棚――そして、テーブルの上に出しっぱなしのマグカップが一つ。
「綾んち、めっちゃ女の子の部屋っぽいじゃん」
「そう?」
「うん。もっと……なんていうか、生活感のない、白黒みたいな部屋かと思ってた」
俺は思わず吹き出しそうになった。
「どんなイメージ?」
「うーん……本と書類とパソコンしかない感じ。あと、カーテン開けっぱなしで殺風景な机があって、コップは使い捨て?」
「……ないな、それは」
奈帆は冗談めかして笑い、ソファにぽんと座り込んだ。
「でも綾、意外と“女の子っぽい”部屋に住んでたんだね。ちょっとかわいい雑貨とかあるし。ほら、このコースターも」
指差されたコースターは、夏休みに雑貨屋でなんとなく買ったものだった。レモンの形で、ふちに小さく刺繍が入っている。
「……気分で選んだだけ。別に、そういうのが好きとかじゃなくて」
「いやいや、いいじゃん。綾、そういうとこがギャップでかわいいんだよ」
「かわいいって言うな」
「照れた?」
「……照れてない」
否定した声がほんの少しだけ掠れてしまい、奈帆がいたずらっぽく笑う。
けれど、その時間はどこか穏やかだった。誰かが部屋にいるということ、誰かと同じ空間にいるということ――その感覚に、まだ慣れないはずなのに、不思議と居心地がよかった。
(やっぱり、奈帆だからかもしれない)
そう思ったとき、ふと話したくなったことがあった。
「ねえ、ひとつ言ってなかったことがあるんだけど」
「なに?」
俺は、スマートフォンを取り出してツブヤイターのアプリを開いた。
「最近、これやってる。料理の写真、毎晩投稿してるんだ」
奈帆はスマホを覗き込む。
「……え、なにこれ。“ラギのごはん”?なにそれめっちゃかわいいじゃん!綾って名前関係ないの?」
「柊から“ラギ”って音を取って。ちょっと離しておきたくて」
「なるほど。……でも、ほんとに綾のごはんだね。めっちゃ丁寧。盛りつけもきれい」
俺は少し黙ってから、画面をスクロールして前日の投稿を開いた。
「昨日、初めてコメントがついた。見てますって。毎日楽しみにしてるって」
「え、すごっ……それってめっちゃ嬉しくない?」
「うん。めちゃくちゃ嬉しかった」
普段、人にこんなふうに自分の感情を伝えることなんて滅多にない。けれどそのときの俺は、言葉が自然と口をついて出ていた。
「誰にも見られてないって思ってた。でも、誰かに見てもらえて、ちゃんと伝わってたってわかった瞬間……なんか、ちょっと泣きそうになった」
「……それは、泣いていいやつじゃん」
奈帆は、そう言って笑った。
「いつもクールなくせに、意外と感情出すんだなーって。てか、綾がそんなに嬉しそうに話すの、初めてかも」
俺は黙って視線を逸らした。
けれど、気づけば奈帆の言葉に対して、口元が少し緩んでいたのも事実だった。
「じゃあ、料理始めよっか」
そう言って立ち上がると、奈帆も「よっしゃ、手伝う!」と意気込んでソファから跳ねるように立ち上がった。
「奈帆って、料理したことある?」
「んー……インスタントラーメンは作れるよ!」
「それは“料理”とは言わない」
笑いながら冷蔵庫を開け、食材を取り出す。鶏むね肉、なす、にんじん、ピーマン、それに冷蔵庫の隅に残っていた長ねぎ。
「今日のメインは、鶏むね肉となすの照り焼き。副菜はにんじんとごまのナムルと、冷ややっこ。味噌汁は長ねぎとわかめでいいかな」
「うおー……すごい。言ってることがプロ」
「いつものごはんだよ」
エプロンを着けて、包丁とまな板を出す。奈帆にも小さなピーラーを渡すと、彼女は興味津々の顔でそれをじっと見つめた。
「これって、にんじんの皮剥くやつで合ってる?」
「合ってる。逆じゃなければ大丈夫」
「逆ってどっち!?」
案の定、ぎこちない手つきでにんじんにピーラーをあてる奈帆。その動きはまるで、初めて折り紙を触った子どものようだった。
「奈帆、それだと剥けない。刃の向き逆」
「うっそ!マジで!?……え、こっち!?あっ、皮が飛んだ!」
「……そこは掃除しといて」
部屋に、笑い声が広がった。
奈帆の料理スキルは想像以上に壊滅的だった。包丁もあまり握ったことがないらしく、切るより押しつぶすような動きになっていて、見ていてハラハラする。
「ちょっと待って、私ほんとにやばいかも。綾、助けて」
「やっぱり全部やるから。見ててくれたらいい」
「うぅ……ごめん」
「気にしない。最初はそんなもんだから」
まな板を持ち替え、手早く野菜を切っていく。フライパンに火を入れ、鶏肉を焼き始めると、香ばしい匂いがキッチンに広がった。
「この音好きだなぁ……」
奈帆がぽつりと呟く。
「じゅう」っという焼き音に、俺もまた、自分の中に戻ってくるような感覚を覚えた。
料理をしている時間は、昔から好きだった。
男だったころも、キッチンに立つこの時間だけは心が静かになれた。包丁の音、フライパンの温度、味つけの塩梅。ひとつひとつを積み重ねて、食卓ができあがっていくその流れが、今も変わらず心地よかった。
30分ほどして、テーブルに昼食が並んだ。
鶏むね肉となすの照り焼き。にんじんのナムル。冷ややっこ。長ねぎとわかめの味噌汁。そして、炊きたてのごはん。
「わあ……ほんとに旅館みたい。写真撮ってもいい?」
「うん。どうぞ」
奈帆がスマホを構え、料理に向かってカメラを向ける。俺も、自分のスマホで一枚だけ撮った。今日のごはんも、ツブヤイターに載せるつもりだった。
「いただきまーす」と声をそろえて箸を取る。
一口食べた奈帆が、驚いたように目を見開いた。
「え、なにこれ……おいしっ!」
「それはよかった」
「なす、めっちゃとろっとしてるし、鶏も柔らかい。何この味、家で出るやつじゃないよ!」
「簡単だよ。むね肉は塩をふっておいて、焼く前に少しだけ酒を振る。それだけで全然違う」
「メモする……!」
楽しそうに笑う奈帆の姿を見て、俺もまた、少しだけ肩の力が抜けていた。
こうして、誰かと一緒に食事をして笑い合うこと。それ自体がとても久しぶりだったから。
「ねえ、綾」
「なに?」
「今日、誘ってくれてありがとね」
「……うん。誘ってよかった」
「また来てもいい?」
「……もちろん」
返事をしながら、俺はふと思った。
この部屋は、俺ひとりのものだった。けれど今日初めて、ここに“誰かの声”があって、“笑い”があって、“食卓を囲む”時間があった。
たったそれだけのことが、すごく大きな出来事のように思えた。
食器を片付けながら、奈帆がまた来たがっていることが嬉しかった。
そして、また来てもらえるように、俺はこれからも丁寧に暮らしていきたいと思った。