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第9話:奈帆と買い物デート(後編)

「おじゃましまーす!」


元気よくそう言って玄関をくぐった奈帆が、部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、足を止めた。


「……あれ? なんか思ってたのと違う」


振り返った奈帆の目が、少し驚いたように丸くなっている。


「なにが?」


エコバッグを下ろしながら問い返すと、奈帆は部屋の中をきょろきょろと見回した。リビング、キッチン、壁にかけられた小さなカレンダー、整頓された棚――そして、テーブルの上に出しっぱなしのマグカップが一つ。


「綾んち、めっちゃ女の子の部屋っぽいじゃん」


「そう?」


「うん。もっと……なんていうか、生活感のない、白黒みたいな部屋かと思ってた」


俺は思わず吹き出しそうになった。


「どんなイメージ?」


「うーん……本と書類とパソコンしかない感じ。あと、カーテン開けっぱなしで殺風景な机があって、コップは使い捨て?」


「……ないな、それは」


奈帆は冗談めかして笑い、ソファにぽんと座り込んだ。


「でも綾、意外と“女の子っぽい”部屋に住んでたんだね。ちょっとかわいい雑貨とかあるし。ほら、このコースターも」


指差されたコースターは、夏休みに雑貨屋でなんとなく買ったものだった。レモンの形で、ふちに小さく刺繍が入っている。


「……気分で選んだだけ。別に、そういうのが好きとかじゃなくて」


「いやいや、いいじゃん。綾、そういうとこがギャップでかわいいんだよ」


「かわいいって言うな」


「照れた?」


「……照れてない」


否定した声がほんの少しだけ掠れてしまい、奈帆がいたずらっぽく笑う。


けれど、その時間はどこか穏やかだった。誰かが部屋にいるということ、誰かと同じ空間にいるということ――その感覚に、まだ慣れないはずなのに、不思議と居心地がよかった。


(やっぱり、奈帆だからかもしれない)


そう思ったとき、ふと話したくなったことがあった。


「ねえ、ひとつ言ってなかったことがあるんだけど」


「なに?」


俺は、スマートフォンを取り出してツブヤイターのアプリを開いた。


「最近、これやってる。料理の写真、毎晩投稿してるんだ」


奈帆はスマホを覗き込む。


「……え、なにこれ。“ラギのごはん”?なにそれめっちゃかわいいじゃん!綾って名前関係ないの?」


「柊から“ラギ”って音を取って。ちょっと離しておきたくて」


「なるほど。……でも、ほんとに綾のごはんだね。めっちゃ丁寧。盛りつけもきれい」


俺は少し黙ってから、画面をスクロールして前日の投稿を開いた。


「昨日、初めてコメントがついた。見てますって。毎日楽しみにしてるって」


「え、すごっ……それってめっちゃ嬉しくない?」


「うん。めちゃくちゃ嬉しかった」


普段、人にこんなふうに自分の感情を伝えることなんて滅多にない。けれどそのときの俺は、言葉が自然と口をついて出ていた。


「誰にも見られてないって思ってた。でも、誰かに見てもらえて、ちゃんと伝わってたってわかった瞬間……なんか、ちょっと泣きそうになった」


「……それは、泣いていいやつじゃん」


奈帆は、そう言って笑った。


「いつもクールなくせに、意外と感情出すんだなーって。てか、綾がそんなに嬉しそうに話すの、初めてかも」


俺は黙って視線を逸らした。


けれど、気づけば奈帆の言葉に対して、口元が少し緩んでいたのも事実だった。


「じゃあ、料理始めよっか」


そう言って立ち上がると、奈帆も「よっしゃ、手伝う!」と意気込んでソファから跳ねるように立ち上がった。


「奈帆って、料理したことある?」


「んー……インスタントラーメンは作れるよ!」


「それは“料理”とは言わない」


 笑いながら冷蔵庫を開け、食材を取り出す。鶏むね肉、なす、にんじん、ピーマン、それに冷蔵庫の隅に残っていた長ねぎ。


「今日のメインは、鶏むね肉となすの照り焼き。副菜はにんじんとごまのナムルと、冷ややっこ。味噌汁は長ねぎとわかめでいいかな」


「うおー……すごい。言ってることがプロ」


「いつものごはんだよ」


エプロンを着けて、包丁とまな板を出す。奈帆にも小さなピーラーを渡すと、彼女は興味津々の顔でそれをじっと見つめた。


「これって、にんじんの皮剥くやつで合ってる?」


「合ってる。逆じゃなければ大丈夫」


「逆ってどっち!?」


案の定、ぎこちない手つきでにんじんにピーラーをあてる奈帆。その動きはまるで、初めて折り紙を触った子どものようだった。


「奈帆、それだと剥けない。刃の向き逆」


「うっそ!マジで!?……え、こっち!?あっ、皮が飛んだ!」


「……そこは掃除しといて」


部屋に、笑い声が広がった。


奈帆の料理スキルは想像以上に壊滅的だった。包丁もあまり握ったことがないらしく、切るより押しつぶすような動きになっていて、見ていてハラハラする。


「ちょっと待って、私ほんとにやばいかも。綾、助けて」


「やっぱり全部やるから。見ててくれたらいい」


「うぅ……ごめん」


「気にしない。最初はそんなもんだから」


まな板を持ち替え、手早く野菜を切っていく。フライパンに火を入れ、鶏肉を焼き始めると、香ばしい匂いがキッチンに広がった。


「この音好きだなぁ……」


奈帆がぽつりと呟く。


「じゅう」っという焼き音に、俺もまた、自分の中に戻ってくるような感覚を覚えた。


料理をしている時間は、昔から好きだった。


男だったころも、キッチンに立つこの時間だけは心が静かになれた。包丁の音、フライパンの温度、味つけの塩梅。ひとつひとつを積み重ねて、食卓ができあがっていくその流れが、今も変わらず心地よかった。


30分ほどして、テーブルに昼食が並んだ。


鶏むね肉となすの照り焼き。にんじんのナムル。冷ややっこ。長ねぎとわかめの味噌汁。そして、炊きたてのごはん。


「わあ……ほんとに旅館みたい。写真撮ってもいい?」


「うん。どうぞ」


奈帆がスマホを構え、料理に向かってカメラを向ける。俺も、自分のスマホで一枚だけ撮った。今日のごはんも、ツブヤイターに載せるつもりだった。


「いただきまーす」と声をそろえて箸を取る。


一口食べた奈帆が、驚いたように目を見開いた。


「え、なにこれ……おいしっ!」


「それはよかった」


「なす、めっちゃとろっとしてるし、鶏も柔らかい。何この味、家で出るやつじゃないよ!」


「簡単だよ。むね肉は塩をふっておいて、焼く前に少しだけ酒を振る。それだけで全然違う」


「メモする……!」


楽しそうに笑う奈帆の姿を見て、俺もまた、少しだけ肩の力が抜けていた。


こうして、誰かと一緒に食事をして笑い合うこと。それ自体がとても久しぶりだったから。


「ねえ、綾」


「なに?」


「今日、誘ってくれてありがとね」


「……うん。誘ってよかった」


「また来てもいい?」


「……もちろん」


返事をしながら、俺はふと思った。


この部屋は、俺ひとりのものだった。けれど今日初めて、ここに“誰かの声”があって、“笑い”があって、“食卓を囲む”時間があった。


たったそれだけのことが、すごく大きな出来事のように思えた。


食器を片付けながら、奈帆がまた来たがっていることが嬉しかった。


そして、また来てもらえるように、俺はこれからも丁寧に暮らしていきたいと思った。

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