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第12話:妹と同居の日々(1)

火曜日の朝。目覚ましの音が鳴る前に目が覚めた。


窓の外は薄曇り。風もなく、部屋の中はひっそりと静まっている。けれど、昨日までの朝とは決定的に違う。部屋のどこかに、もうひとつの気配がある。


麻耶が、同じ家にいる。


ベッドを抜け出してリビングに足を踏み入れると、キッチンと向かい合う小さなダイニングの隅に置いたグラスが、きちんと伏せて乾いていた。


ふと、麻耶が寝ている部屋の方を見ると、ドアは静かに閉じられていた。まだ寝ているのだろう。昨日は久しぶりの姉との再会と慣れない環境で疲れたのだろう。


俺はそっと冷蔵庫を開け、朝食の準備を始めた。




炊き立てのごはん、だしをきかせた味噌汁、焼き鮭、小松菜のおひたし。ごく普通の朝食。でも、誰かと一緒に食べるかもしれないと思って用意するのは、久しぶりだった。


ちょうど食卓に皿を並べ終えた頃、麻耶の部屋のドアがゆっくりと開いた。


パジャマ姿の麻耶が、寝ぼけ眼で立っていた。昨日よりも少し髪が乱れていて、彼女の素の表情がそこにあった。


「……おはよう」


「おはよう。起こしちゃった?」


「ううん、目覚ましで起きた」


麻耶は視線を合わせず、そそくさとダイニングの椅子に腰を下ろす。


「朝ごはん、食べる?」


「……うん」


その返事を聞いて、俺は味噌汁をもう一膳よそった。




ふたり分の朝食を前に、空気はどこか落ち着かない。


箸を持つ音、ごはんを噛む音、味噌汁をすする音だけが静かに響く。

麻耶は何度かこちらを見かけては、すぐに目をそらした。


(ぎこちないな……やっぱり)


だけど、そういう距離のある空気に、俺はどこか慣れている気がした。


“俺”と麻耶は、兄妹としてそこそこ仲が良かった。だがこの世界の“姉妹”としての時間はほとんど記憶になく、その差分が今の空白をつくっているのだろう。


「片付けたら学校行こうと思うんだけど、麻耶は?」


「んー、ちょっと遅めに出る」


「そっか。鍵、持っていって。自由にしてていいから」


「うん……ありがと」


その言葉が、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。




俺が学校へ向かう支度を始めると、麻耶は背中越しにぼそりと呟いた。


「……ごはん、美味しかった」


「ありがと」


振り向かずにそう答える。けれど心の中で、なぜか少しほっとしていた。






放課後、家に戻ると、リビングには麻耶のバッグとノートが広げられていた。

ソファには座っておらず、代わりにキッチンから包丁の音が聞こえる。


「……麻耶?」


「あっ、帰ってきた。えっと、ね……にんじん、切ってみようと思ったんだけど……」


まな板の上には斜めに切られたにんじん。だいぶ厚みは不揃いで、端のほうは削れたように欠けている。


「えっと……切り方って、どうしたらきれいになるの?」


「……手、切らないでよ」


「う、うん……やっぱり難しいね」


少し頬を赤らめた麻耶が、申し訳なさそうに包丁を置く。


「お味噌汁くらい、作ってみようと思ったんだけど……やっぱり無理だったかも」


「味噌汁は難しい部類ではないけど、最初はね。練習する?」


「……教えてくれるの?」


「もちろん」


そう答えると、麻耶の目が少しだけ見開かれた。


「じゃあ……よろしくお願いします、せんせー」


どこか照れ隠しのような笑顔。その表情は、ほんの少し俺の知っている“妹”の麻耶に似ていた。




結局、その日の夕飯は俺がメインを作り、麻耶は味噌汁だけを担当することになった。

昆布と鰹のだしをとり、具材を切り、沸騰しすぎないよう気をつける。


「わー……湯気、顔に当たる」

「ねえ、みそっていつ入れるの? 今?」

「これで大丈夫なの……かな……」


とにかく声がよく出る麻耶に、俺は少し苦笑しながらも手を貸し、ゆっくりと手順を教えた。


完成した味噌汁は、少しだけ味が濃かったけれど、やさしい香りがした。


「味見してみて」


そう言うと、麻耶はレンゲを使って小さく一口。


「……うん、おいしい! ちょっとしょっぱいけど!」


「それ、正直な感想ね」


「でもでも! “私が作った”って考えたら、かなり美味しいと思う!」


言葉に力がこもる。まるで、ずっと言いたかった自信のない気持ちをようやく吐き出せたような――そんな声。




食卓に並んだごはんを前に、今度はふたりで「いただきます」を言う。


食べながら、麻耶はぽつぽつと学校の話をし始めた。

「寮の友だちがさ、実家に帰ったら犬が大きくなってたらしくて」とか、

「宿題、こっちでもやらなきゃいけないんだけど、サボりたい気分」とか。


その言葉のひとつひとつが、俺の胸に少しずつ積もっていった。

この家の中に、麻耶の“日常”が混ざり始めている。

それが、なんだかうれしかった。




夜。

麻耶は「ちょっと勉強してから寝る」と言って自室に戻った。


部屋のドアが閉まる音がしてからも、リビングにはほんの少しだけ彼女の気配が残っているようだった。


俺はキッチンで茶碗を洗いながら、ふと思う。


もしかしたら、今のこの時間が、“家族”ってやつなのかもしれない。




麻耶が帰るまで、あと四日。

この静かな時間が、少しずつ変わっていくのだとしたら――

それは、きっと悪くないことだ。

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