月曜日の放課後。いつもの通学路を歩きながら、俺は時折スマホの画面を確認していた。
麻耶が最寄り駅に着く時間まで、あと二十分ほど。ここから急げばギリギリ間に合う。
(ほんとに来るんだな、麻耶)
正直、実感は薄かった。やりとりは確かに交わしたけれど、それが本当に現実として訪れるのかどうか、自分の中でも半信半疑だった。
半年以上、言葉を交わしていない妹。今の“綾”と、どこか距離を置いていた妹。
俺は、スマホに表示されたメッセージをもう一度読み返した。
「改札出たとこで待ってるね。目立たないところにいると思うけど……私、わかるよ」
“私、わかるよ”。
その言葉に、なんとなく胸が締めつけられる。麻耶のほうが、俺のことを遠くに感じていたのかもしれない。
駅に着き、階段を降りると、人の波の向こうに小柄な女の子がひとり、キャリーケースを引いて立っていた。
肩までの黒髪を後ろで結び、ネイビーのカーディガンを羽織っている。控えめな雰囲気だけれど、すぐにそれが麻耶だとわかった。
「……麻耶」
声をかけると、彼女は驚いたように目を丸くした。
でもすぐに、ほんの少しだけ表情を緩めて、頭を下げた。
「……おじゃまします」
「とりあえず、駅出よう。荷物、持つよ」
「ううん、大丈夫。キャリーだから」
俺はそれ以上何も言わず、並んで歩き始めた。
ほんの少しだけ離れて歩くその距離感が、麻耶との関係そのものを象徴しているようだった。
自宅に着くと、麻耶は靴を脱ぎながら、部屋の中をゆっくり見回した。
「……きれいにしてるんだね」
「生活するには、整ってたほうがいいから」
「そっか……」
会話がそれ以上続かなかった。
俺は麻耶をリビングに案内し、冷たい麦茶を出す。
「ありがとう」
それだけ言って、彼女はグラスを両手で持ったまま黙り込んだ。俺も、何を話せばいいかわからなかった。
麻耶のキャリーケースを空いている部屋――俺は一人暮らしをするにあたり広めの2LDKを借りている――に運ぶと、彼女はゆっくりと荷物をほどき始めた。
俺はその間にキッチンへ向かい、夕食の支度を始めた。
今日の献立は、鶏むね肉の甘酢あんかけ、豆腐とわかめの味噌汁、ひじきの煮物に小松菜のおひたし。
少しだけ“家庭的”な雰囲気を意識した。麻耶にとって、久しぶりの家族と食べる食卓になるかもしれないと思って。
キッチンに立つと、少しだけ気が楽になった。
火加減を調整しながら、包丁で野菜を刻む音が響く。
料理をしている時間だけは、昔から無心になれる。男だったころも、女になった今も、それだけは変わらない。
「……お姉ちゃん、料理、得意なんだね」
声に振り返ると、麻耶がリビングから覗いていた。
表情は読み取れなかったけれど、その声にはほんの少し驚きが混じっていた。
「うん。まあ、自炊しないと生活できないから」
「そっか……」
再び沈黙。けれど、さっきよりも柔らかい空気が流れていた。
食卓に料理を並べて、「食べようか」と声をかけると、麻耶は黙ってうなずいた。
いただきます、と小さな声で言って箸を取る。
鶏肉に箸を伸ばし、ひと口。
「……美味しい」
「そっか。よかった」
「うん。なんか、久しぶりにちゃんとしたごはん食べたかも」
その言葉に、俺は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
言葉は少なくても、伝わってくるものはある。そんな気がした。
「……前は、よく一緒に食べたよね。夜ごはんとか」
「うん。あのときは、食べながら無言でも平気だった」
「今も、別に無理に話さなくていいよ」
「……うん。ありがとう」
食後、麻耶が「洗い物、やるよ」と言ってくれた。
「いいよ、今日は疲れてるでしょ」
「でも、なんか手伝わないと悪いし」
「じゃあ、食器拭いて」
「うん」
洗って、拭いて、しまって――その単純な作業の中に、不思議と安心感があった。
夜、麻耶は早めに部屋に入った。
扉の向こうからは物音ひとつしなかったけれど、俺は、そこに“家族の気配”があることを、確かに感じていた。
一人じゃない夜。
女同士の姉妹という形になってしまったけれど、それでも“兄妹”だった記憶が、ちゃんと繋がっている。そう思えた一日だった。