目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第29話:俺と私の文化祭

忙しなく午前中は過ぎていった。昼を過ぎるころには、カフェの前には小さな行列ができていた。

俺は教室内にある提供準備スペースで動きながら、そのざわめきに耳を澄ます。


「次のお客さん、紅茶セットで〜す」


「え、これ全部手作り? すごっ」


そんな声が、カーテン越しに届いてくる。

俺が焼いたマドレーヌを誰かが手に取り、美味しいと笑ってくれている。

目に見えるわけじゃない。だけど、それがどれほど自分の心を満たすのか、今日の俺は痛いほど知っていた。


カーテンを開いて、提供準備スペースに奈帆が顔を出す。


「綾、追加分お願い! もうちょっとで在庫切れる!」


「わかった。生地はあと2バッチ分あるから、それでまわせるはず」


「さっすが綾! 頼りにしてますよ〜」


奈帆は冗談めかして敬礼のポーズをして、パタパタと戻っていく。


ああいう調子のいいやつだと思ってたけど、あの子の笑顔に救われることも、実はけっこうある。


「これ、次の鉄板です」

咲良がそっと隣に置いてくれた。手際は相変わらず丁寧で、俺の動きをしっかり理解してくれている。


「ありがとう、助かる」


「いえ。……綾さんの手順、とても参考になります。見ていて気持ちいいです」


小さな声で言われたその言葉に、ふっと肩の力が抜けた。


「そう……ありがと」


褒められるのは、なんだか慣れない。だけど、悪くない。


そのとき、ふとホールの向こうに座っている何人かの来客の中に、見覚えのある横顔を見つけた。


(……麻耶)


制服ではなく、私服姿の中学生。隣に友だちらしい子がいる。

彼女が笑っていた。ほんの少しだけはにかんだような、でもどこか誇らしげな笑顔で。


胸が、きゅっとなった。


(来てくれたんだ)


声はかけなかった。ここから出る余裕もなかった。

だけど、あの一瞬だけで、十分だった。

あの子の顔を見られて、俺はなんだかすごく、救われたような気持ちになった。



* * *



午後の賑わいが落ち着いた頃、ホールの装飾が少しずつ片付けられはじめる。

授業では得られない汗と熱気、どこか寂しさすら感じる終わりの気配。


奈帆が片付け途中のテーブルに肘をついて俺に向かって言う。


「綾、今日めっちゃ頑張ってたね。マドレーヌ、あの数よくさばけたな〜」


「……無理じゃない範囲で回すだけ、だから」


「その冷静さがすごいのよ。うちらもうパンクしかけてたもん」


「ほんと、綾さんがいなかったらこのカフェ回らなかったと思います」


咲良がにこっと微笑みながら続ける。


「そうそう!ラギのごはん、現場でも無双だったな〜!」


琴葉が元気よくトレイを持ち上げて、俺の顔を覗いてくる。


「……やめて。そういうの、恥ずかしい」

俺は顔をそむけながら呟いた。


でも、うれしかった。

ほんの少しだけ、胸が熱くなるほどに。


片付けも終え、エプロンをたたみながら、俺はふと手元を見つめた。

この手で料理を作って、誰かに食べてもらって、笑ってもらえた。

その繰り返しのなかで、俺はここに、自分の「居場所」を見つけたのだと思う。



* * *



帰宅して、シャワーを浴びたあと。

部屋に戻って、ひとり、静かにキッチンに立つ。

紅茶を淹れて、スマホを開いた。


ツブヤイターには、たくさんの通知。

動画の再生数はじわじわ伸びていて、コメントも日に日に増えている。


《おしゃれで美味しそう》

《この声と雰囲気すごく癒される》

《次回作も楽しみ!》


相変わらず中には辛辣なコメントもある。でも、どれも含めて、自分が今ここに立っている証拠だと思えた。


(昔の俺だったら、たぶん何かを発信するなんてできなかった)


ただ料理をするのが好きで。

それを誰かに見てもらいたいと思った気持ちは、ずっと心の奥に隠していた。

けど今は——

“わたし”として、それをちゃんと表に出せている。


それが、なにより嬉しかった。


「……文化祭、終わったな」

小さく声に出してみると、胸の奥にぽつんと灯るような感覚があった。


ここにいていい。

料理をして、人と関わって、自分のペースで歩いていく。


その道を、俺はもう歩きはじめている。


「また、作ろう」

静かに決意を込めて呟くと、スマホの画面に表示された再生数に、そっと目を細めた。


明日も、きっと何かを作って、何かを伝えたくなるだろう。


わたしは——

ここに、ちゃんといる。



* * *



文化祭が終わってから、1週間が過ぎた。


日常はあっという間に戻ってきて、特別だった一日はもう過去になりかけている。

だけど、俺の中には、確かに何かが残っていた。


朝、窓の外には冷たい空気が漂っていて、いつのまにか空は秋の終わりの色をしていた。

白い息がかすかに浮かび、制服の袖口から冷気が入り込む。

学校へ向かう足取りは、変わらず静かだ。

でも、その中にほんの少しだけ、“心地よさ”が混じっていた。


通学路の途中、ふとスマホを開いてツブヤイターのアプリを起動する。

「ラギのごはん」——自分の投稿欄には、料理の写真がいくつも並んでいた。


マドレーヌ。焼き菓子。文化祭前に試作したお弁当風の和惣菜。

そして今朝、久しぶりに投稿したのは、きのこのクリームスープだった。

湯気の立つ器を、陽の差し込むキッチンで撮ったもの。


《朝からあったまるやつ。

 この冬、あったかいものを少しずつ作っていこうと思います。》


そう書いた一文に、少しずつ「いいね」がついていくのを、俺は電車の揺れの中でぼんやりと眺めていた。


たぶん今日あたり、誰かが「見たよ」と言ってくれるんだろう。


「コメントはナシでお願いね」

あの日琴葉に頼んで以来、俺の投稿には友だちからの反応はつかない。

だけどそれでいい。

俺が俺でいられるこの場所は、まだ大事にしていたかった。



* * *



放課後、咲良と並んで歩く帰り道。

吐いた息が白くなって、ふたりの影がアスファルトに並んで落ちる。


「今日の投稿、見ました」

咲良がそっと言う。

「すごく、おいしそうでした」


「……ありがとう」

短く返す。けれど、胸の奥があたたかくなるのがわかる。

それ以上の言葉はない。でも、言葉にしなくても伝わる感情が、確かにそこにあった。


「また一緒に、何か作れたらいいですね」

「……うん」


それだけで、じゅうぶんだった。



* * *



夜、自宅に戻って、制服を脱いでエプロンを身につける。

何気なく冷蔵庫を開けると、作りかけの煮込み野菜がまだ残っていた。


鍋を温め直しながら、俺はゆっくりとスマホを構える。

クリームの艶。とろけるじゃがいも。湯気の向こうに揺れるライトの光。

シャッターを切って、短い一言を添える。


《今日も、あたたかいものを。》


投稿を予約にして、スマホを伏せた。



明日が、何もない普通の日でも。

ツブヤイターのフォロワーが何人になったとしても。

動画が再生されても、されなくても。


俺はきっと、キッチンに立っている。

変わっていくのは日々の景色で、

変わらずにありたいのは、そこに込める気持ちだ。


文化祭の喧騒はもう遠くなったけれど。

ここにいる“わたし”は、あの時間を通って、

ちゃんと“ここにいる”。


だから、明日も、つくろう。

“綾”として、“俺”のままで。

この場所で、この時間を。


ほんのすこしずつでも、

わたしの日々が、色づいていくように。





――――――――――――――――――――――――

これにて文化祭編は終わりです。割と長くなってしまいました……

次回からはコラボ配信編になります。

キャラクター紹介って必要ですか?

次の章でも新キャラ出てくるので、1度整理したいなどありましたらコメントください。要望あればキャラクター紹介も投稿しますね!


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?