忙しなく午前中は過ぎていった。昼を過ぎるころには、カフェの前には小さな行列ができていた。
俺は教室内にある提供準備スペースで動きながら、そのざわめきに耳を澄ます。
「次のお客さん、紅茶セットで〜す」
「え、これ全部手作り? すごっ」
そんな声が、カーテン越しに届いてくる。
俺が焼いたマドレーヌを誰かが手に取り、美味しいと笑ってくれている。
目に見えるわけじゃない。だけど、それがどれほど自分の心を満たすのか、今日の俺は痛いほど知っていた。
カーテンを開いて、提供準備スペースに奈帆が顔を出す。
「綾、追加分お願い! もうちょっとで在庫切れる!」
「わかった。生地はあと2バッチ分あるから、それでまわせるはず」
「さっすが綾! 頼りにしてますよ〜」
奈帆は冗談めかして敬礼のポーズをして、パタパタと戻っていく。
ああいう調子のいいやつだと思ってたけど、あの子の笑顔に救われることも、実はけっこうある。
「これ、次の鉄板です」
咲良がそっと隣に置いてくれた。手際は相変わらず丁寧で、俺の動きをしっかり理解してくれている。
「ありがとう、助かる」
「いえ。……綾さんの手順、とても参考になります。見ていて気持ちいいです」
小さな声で言われたその言葉に、ふっと肩の力が抜けた。
「そう……ありがと」
褒められるのは、なんだか慣れない。だけど、悪くない。
そのとき、ふとホールの向こうに座っている何人かの来客の中に、見覚えのある横顔を見つけた。
(……麻耶)
制服ではなく、私服姿の中学生。隣に友だちらしい子がいる。
彼女が笑っていた。ほんの少しだけはにかんだような、でもどこか誇らしげな笑顔で。
胸が、きゅっとなった。
(来てくれたんだ)
声はかけなかった。ここから出る余裕もなかった。
だけど、あの一瞬だけで、十分だった。
あの子の顔を見られて、俺はなんだかすごく、救われたような気持ちになった。
* * *
午後の賑わいが落ち着いた頃、ホールの装飾が少しずつ片付けられはじめる。
授業では得られない汗と熱気、どこか寂しさすら感じる終わりの気配。
奈帆が片付け途中のテーブルに肘をついて俺に向かって言う。
「綾、今日めっちゃ頑張ってたね。マドレーヌ、あの数よくさばけたな〜」
「……無理じゃない範囲で回すだけ、だから」
「その冷静さがすごいのよ。うちらもうパンクしかけてたもん」
「ほんと、綾さんがいなかったらこのカフェ回らなかったと思います」
咲良がにこっと微笑みながら続ける。
「そうそう!ラギのごはん、現場でも無双だったな〜!」
琴葉が元気よくトレイを持ち上げて、俺の顔を覗いてくる。
「……やめて。そういうの、恥ずかしい」
俺は顔をそむけながら呟いた。
でも、うれしかった。
ほんの少しだけ、胸が熱くなるほどに。
片付けも終え、エプロンをたたみながら、俺はふと手元を見つめた。
この手で料理を作って、誰かに食べてもらって、笑ってもらえた。
その繰り返しのなかで、俺はここに、自分の「居場所」を見つけたのだと思う。
* * *
帰宅して、シャワーを浴びたあと。
部屋に戻って、ひとり、静かにキッチンに立つ。
紅茶を淹れて、スマホを開いた。
ツブヤイターには、たくさんの通知。
動画の再生数はじわじわ伸びていて、コメントも日に日に増えている。
《おしゃれで美味しそう》
《この声と雰囲気すごく癒される》
《次回作も楽しみ!》
相変わらず中には辛辣なコメントもある。でも、どれも含めて、自分が今ここに立っている証拠だと思えた。
(昔の俺だったら、たぶん何かを発信するなんてできなかった)
ただ料理をするのが好きで。
それを誰かに見てもらいたいと思った気持ちは、ずっと心の奥に隠していた。
けど今は——
“わたし”として、それをちゃんと表に出せている。
それが、なにより嬉しかった。
「……文化祭、終わったな」
小さく声に出してみると、胸の奥にぽつんと灯るような感覚があった。
ここにいていい。
料理をして、人と関わって、自分のペースで歩いていく。
その道を、俺はもう歩きはじめている。
「また、作ろう」
静かに決意を込めて呟くと、スマホの画面に表示された再生数に、そっと目を細めた。
明日も、きっと何かを作って、何かを伝えたくなるだろう。
わたしは——
ここに、ちゃんといる。
* * *
文化祭が終わってから、1週間が過ぎた。
日常はあっという間に戻ってきて、特別だった一日はもう過去になりかけている。
だけど、俺の中には、確かに何かが残っていた。
朝、窓の外には冷たい空気が漂っていて、いつのまにか空は秋の終わりの色をしていた。
白い息がかすかに浮かび、制服の袖口から冷気が入り込む。
学校へ向かう足取りは、変わらず静かだ。
でも、その中にほんの少しだけ、“心地よさ”が混じっていた。
通学路の途中、ふとスマホを開いてツブヤイターのアプリを起動する。
「ラギのごはん」——自分の投稿欄には、料理の写真がいくつも並んでいた。
マドレーヌ。焼き菓子。文化祭前に試作したお弁当風の和惣菜。
そして今朝、久しぶりに投稿したのは、きのこのクリームスープだった。
湯気の立つ器を、陽の差し込むキッチンで撮ったもの。
《朝からあったまるやつ。
この冬、あったかいものを少しずつ作っていこうと思います。》
そう書いた一文に、少しずつ「いいね」がついていくのを、俺は電車の揺れの中でぼんやりと眺めていた。
たぶん今日あたり、誰かが「見たよ」と言ってくれるんだろう。
「コメントはナシでお願いね」
あの日琴葉に頼んで以来、俺の投稿には友だちからの反応はつかない。
だけどそれでいい。
俺が俺でいられるこの場所は、まだ大事にしていたかった。
* * *
放課後、咲良と並んで歩く帰り道。
吐いた息が白くなって、ふたりの影がアスファルトに並んで落ちる。
「今日の投稿、見ました」
咲良がそっと言う。
「すごく、おいしそうでした」
「……ありがとう」
短く返す。けれど、胸の奥があたたかくなるのがわかる。
それ以上の言葉はない。でも、言葉にしなくても伝わる感情が、確かにそこにあった。
「また一緒に、何か作れたらいいですね」
「……うん」
それだけで、じゅうぶんだった。
* * *
夜、自宅に戻って、制服を脱いでエプロンを身につける。
何気なく冷蔵庫を開けると、作りかけの煮込み野菜がまだ残っていた。
鍋を温め直しながら、俺はゆっくりとスマホを構える。
クリームの艶。とろけるじゃがいも。湯気の向こうに揺れるライトの光。
シャッターを切って、短い一言を添える。
《今日も、あたたかいものを。》
投稿を予約にして、スマホを伏せた。
⸻
明日が、何もない普通の日でも。
ツブヤイターのフォロワーが何人になったとしても。
動画が再生されても、されなくても。
俺はきっと、キッチンに立っている。
変わっていくのは日々の景色で、
変わらずにありたいのは、そこに込める気持ちだ。
文化祭の喧騒はもう遠くなったけれど。
ここにいる“わたし”は、あの時間を通って、
ちゃんと“ここにいる”。
だから、明日も、つくろう。
“綾”として、“俺”のままで。
この場所で、この時間を。
ほんのすこしずつでも、
わたしの日々が、色づいていくように。
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これにて文化祭編は終わりです。割と長くなってしまいました……
次回からはコラボ配信編になります。
キャラクター紹介って必要ですか?
次の章でも新キャラ出てくるので、1度整理したいなどありましたらコメントください。要望あればキャラクター紹介も投稿しますね!