目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第51話:揺らぐ投稿

あれ以来、SNSの投稿をするのに少しだけ、ためらいが生まれるようになった。

とはいえ、まったく止めてしまうほどの覚悟があるわけでもない。

それどころか、今の俺には、これをやめてしまったら空っぽになってしまうような、そんな不安すらあった。


──だからこそ、投稿は続けていた。


いつも通り、料理を作り、照明を少しだけ工夫して、角度を調整してシャッターを切る。

写真を整え、投稿文を書いて、タグをつけてツブヤイターにアップロードする。


【ラギのごはん】

今夜はしっとり鶏むねの香味ソテー。

にんにくと醤油、みりんで甘辛く仕上げました。

添えたのは紫玉ねぎのさっぱりマリネと、かぼちゃのほくほく煮です。

#ラギのごはん #おうちごはん #鶏むねレシピ


投稿ボタンを押したあと、ため息が漏れた。

以前ならもっと素直に、少しの高揚感があったはずなのに。


数時間後、いつものように通知を開いて、呆気に取られた。


《高校生ってこんな感じだっけ?プロの真似っこにしか見えない》

《見せることしか考えてなさそうw》

《最近の女子高生って承認欲求高すぎ》


冷ややかな文面が、スクロールするたびに目に飛び込んでくる。

もちろん、優しい言葉や「美味しそう!」「レシピ参考にしてます」といったコメントもあるにはある。

けれど、なぜか今日は、前者のほうばかりが視界に焼きついた。


(なんだよ、それ……)


柚木さんの言葉が、また脳裏で反芻される。


「そういうの、すごいね。人に見せるための料理って、どんな気持ちで作るんだろ。」


──どんな気持ち、だろうな。

わからない。いや、わかっていた。

誰かに認められたかった。

誰かに「おいしそう」って言ってほしかった。

けれど、それってそんなに悪いことだったのか。


あのとき、うまく返せなかった。

自分でもわからなかったから。

俺は、ただ料理が好きで、それを誰かに見てもらえることが楽しくて。

それだけだったはずなのに。


スマホの画面を閉じて、ベッドに倒れ込む。

目を閉じても、コメントの断片がノイズのように頭の中でぐるぐる回る。


「……うるさいな」


思わず、ぽつりと口に出た声に、自分でも驚いた。

琴葉がいたら、きっと笑い飛ばしてくれたかもしれない。

奈帆がいたら、「気にしすぎじゃん」って肩を叩いてくれたかもしれない。

咲良だったら、言葉少なくそっと寄り添ってくれていたかもしれない。


でも、今は誰もいない。


琴葉は昨日のメッセージで「今週末は親戚の結婚式でバタバタしてるの、ごめん!」と言っていた。

だから、今週末のバイトは休み。

咲良は学校の帰り道なら会えるけど、さすがに週末までは付き合わせられない。


俺は、1人だった。



* * *



バイトの帰り道、涙が止まらなかった。


何に泣いているのか、自分でもわからない。

悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、情けないのか。


ただ、止められなかった。


スマホの画面がにじんで、フォロワー数もコメントもぼやけていく。


「俺は……何がしたかったんだろうな」


ぽつりと漏れた言葉は、夜の風にあっさりと溶けていった。



* * *



家の扉を閉めて、鍵をかけた瞬間だった。


「……っ」


音もなく、膝が崩れた。

周りの音は聞こえない。耳が、ぼうっとしていた。


俺はその場にしゃがみこみ、額を膝に埋めるようにして泣き始めた。

声を出すことも、言葉にすることもできず、ただ――嗚咽だけが、自分の喉から零れ落ちていく。


頬を伝う涙は止まらず、メイクを施した目元を無惨に濡らしていく。


鏡なんて見たくない。

今の自分が、どんな顔をしているのかなんて。


「……やだ、なに……これ」


誰にも届かない独り言を吐きながら、俺は泣いた。

静かで、惨めで、どこまでも孤独で何も守れない泣き方だった。



* * *



翌朝。

目が覚めたとき、喉がひどく乾いていた。


ほとんど眠れていなかった。

体も重く、気持ちも底のように沈んだままだった。


遅刻だけはしたくない、と体を引きずるようにして準備を始めたが、指先が止まる。


鏡の前。メイクポーチを開いて、リップを手に取った瞬間。


「……誰に、見せるんだろ」


ぽつりとこぼしたその言葉は、空気に溶けていった。

下地を塗っても、アイラインを引いても、まるで意味を感じられない。


それでも、服に袖を通し、バイト先へと向かう。

身体は動いているのに、心が置き去りのままだった。



* * *



青葉珈琲に着いたのは、いつもより少し早い時間だった。

朝倉さんがまだ厨房にいて、軽く会釈を交わす。


「……おはようございます」


「あ、綾ちゃん。今日、顔色悪いね。大丈夫?」


「……はい、ちょっと寝不足で」


本当は、そんな言葉すら出したくなかった。

でも、いつも通りを装うには、それくらい言わないと不自然だった。


業務が始まってすぐ、やらかしに気づいた。

昨日の発注伝達をひとつ飛ばしていて、冷蔵庫にあるはずの食材がない。

ホールと厨房のやり取りにずれが生まれ、注文が通っていないこともあった。


中島さんが無言で動いてフォローしてくれた。


朝倉さんは、冷蔵庫の中を確認してから、やわらかい声で言った。


「綾ちゃん、今日さ……あんまり無理しないでね。できるとこだけやってくれたらいいから」


その優しさが、痛かった。

ちゃんとやれていないことを、やさしく包まれるほど、苦しくなる。


「……すみません」


それだけ絞るように言って、俺は深く頭を下げた。


午後の途中で朝倉さんが上がり、代わりに柚木さんが入ってきた。

厨房には、無口な中島と、言葉を選ばない柚木さん――そして俺。


無言の時間が続く。



* * *



閉店間際、厨房の掃除をしていた俺に、ぽつりと声が飛んできた。


「……何考えてるかわかんないけどさ」


柚木さんは洗い物をしながら、目線も合わさずに言う。


「今日はずいぶんミス多いし暗いね。料理って、もっと楽しいもんじゃなかったっけ?」


一瞬、心臓が止まったような感覚があった。


何気ない、軽口のはずだった。もしかしたら柚木さんなりの励ましだったのかもしれない。

でも俺には、その言葉が、真っ直ぐに突き刺さった。


(楽しい……?)


(――楽しいって、なんだ?)


自分は、誰のために料理をしていたんだろう。

SNSに載せるため? 誰かに見てもらうため?

評価されたいから? 認められたいから?


でもそれって――

「楽しい」とは、違う気がした。


震える手で、使い終わった調理器具をシンクに置く。


手元がぶれて、水が少し跳ねた。

だけど俺は、もう何も反応できなかった。


何かが、静かに崩れ落ちていく音がした。



* * *



帰宅後。


明かりを点けたキッチンは、いつもと変わらないのに、まるで違う場所に感じた。


鶏むね肉のストックがある。

じゃがいもも、人参も、玉ねぎも。


でも、なにも作りたくなかった。


手は動かない。

心が、もう動いていなかった。


スマホの画面が目に入る。

ツブヤイターの通知が点滅していた。

でも、開く気にはなれなかった。


動画も撮りたくない。

声を出すのも、しんどい。


椅子に腰かけて、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。

涙は出なかった。


代わりに、静かな、深く冷たい沈黙だけが、俺を包み込んでいた。


(――俺、何のために)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?