あれ以来、SNSの投稿をするのに少しだけ、ためらいが生まれるようになった。
とはいえ、まったく止めてしまうほどの覚悟があるわけでもない。
それどころか、今の俺には、これをやめてしまったら空っぽになってしまうような、そんな不安すらあった。
──だからこそ、投稿は続けていた。
いつも通り、料理を作り、照明を少しだけ工夫して、角度を調整してシャッターを切る。
写真を整え、投稿文を書いて、タグをつけてツブヤイターにアップロードする。
【ラギのごはん】
今夜はしっとり鶏むねの香味ソテー。
にんにくと醤油、みりんで甘辛く仕上げました。
添えたのは紫玉ねぎのさっぱりマリネと、かぼちゃのほくほく煮です。
#ラギのごはん #おうちごはん #鶏むねレシピ
投稿ボタンを押したあと、ため息が漏れた。
以前ならもっと素直に、少しの高揚感があったはずなのに。
数時間後、いつものように通知を開いて、呆気に取られた。
《高校生ってこんな感じだっけ?プロの真似っこにしか見えない》
《見せることしか考えてなさそうw》
《最近の女子高生って承認欲求高すぎ》
冷ややかな文面が、スクロールするたびに目に飛び込んでくる。
もちろん、優しい言葉や「美味しそう!」「レシピ参考にしてます」といったコメントもあるにはある。
けれど、なぜか今日は、前者のほうばかりが視界に焼きついた。
(なんだよ、それ……)
柚木さんの言葉が、また脳裏で反芻される。
「そういうの、すごいね。人に見せるための料理って、どんな気持ちで作るんだろ。」
──どんな気持ち、だろうな。
わからない。いや、わかっていた。
誰かに認められたかった。
誰かに「おいしそう」って言ってほしかった。
けれど、それってそんなに悪いことだったのか。
あのとき、うまく返せなかった。
自分でもわからなかったから。
俺は、ただ料理が好きで、それを誰かに見てもらえることが楽しくて。
それだけだったはずなのに。
スマホの画面を閉じて、ベッドに倒れ込む。
目を閉じても、コメントの断片がノイズのように頭の中でぐるぐる回る。
「……うるさいな」
思わず、ぽつりと口に出た声に、自分でも驚いた。
琴葉がいたら、きっと笑い飛ばしてくれたかもしれない。
奈帆がいたら、「気にしすぎじゃん」って肩を叩いてくれたかもしれない。
咲良だったら、言葉少なくそっと寄り添ってくれていたかもしれない。
でも、今は誰もいない。
琴葉は昨日のメッセージで「今週末は親戚の結婚式でバタバタしてるの、ごめん!」と言っていた。
だから、今週末のバイトは休み。
咲良は学校の帰り道なら会えるけど、さすがに週末までは付き合わせられない。
俺は、1人だった。
* * *
バイトの帰り道、涙が止まらなかった。
何に泣いているのか、自分でもわからない。
悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、情けないのか。
ただ、止められなかった。
スマホの画面がにじんで、フォロワー数もコメントもぼやけていく。
「俺は……何がしたかったんだろうな」
ぽつりと漏れた言葉は、夜の風にあっさりと溶けていった。
* * *
家の扉を閉めて、鍵をかけた瞬間だった。
「……っ」
音もなく、膝が崩れた。
周りの音は聞こえない。耳が、ぼうっとしていた。
俺はその場にしゃがみこみ、額を膝に埋めるようにして泣き始めた。
声を出すことも、言葉にすることもできず、ただ――嗚咽だけが、自分の喉から零れ落ちていく。
頬を伝う涙は止まらず、メイクを施した目元を無惨に濡らしていく。
鏡なんて見たくない。
今の自分が、どんな顔をしているのかなんて。
「……やだ、なに……これ」
誰にも届かない独り言を吐きながら、俺は泣いた。
静かで、惨めで、どこまでも孤独で何も守れない泣き方だった。
* * *
翌朝。
目が覚めたとき、喉がひどく乾いていた。
ほとんど眠れていなかった。
体も重く、気持ちも底のように沈んだままだった。
遅刻だけはしたくない、と体を引きずるようにして準備を始めたが、指先が止まる。
鏡の前。メイクポーチを開いて、リップを手に取った瞬間。
「……誰に、見せるんだろ」
ぽつりとこぼしたその言葉は、空気に溶けていった。
下地を塗っても、アイラインを引いても、まるで意味を感じられない。
それでも、服に袖を通し、バイト先へと向かう。
身体は動いているのに、心が置き去りのままだった。
* * *
青葉珈琲に着いたのは、いつもより少し早い時間だった。
朝倉さんがまだ厨房にいて、軽く会釈を交わす。
「……おはようございます」
「あ、綾ちゃん。今日、顔色悪いね。大丈夫?」
「……はい、ちょっと寝不足で」
本当は、そんな言葉すら出したくなかった。
でも、いつも通りを装うには、それくらい言わないと不自然だった。
業務が始まってすぐ、やらかしに気づいた。
昨日の発注伝達をひとつ飛ばしていて、冷蔵庫にあるはずの食材がない。
ホールと厨房のやり取りにずれが生まれ、注文が通っていないこともあった。
中島さんが無言で動いてフォローしてくれた。
朝倉さんは、冷蔵庫の中を確認してから、やわらかい声で言った。
「綾ちゃん、今日さ……あんまり無理しないでね。できるとこだけやってくれたらいいから」
その優しさが、痛かった。
ちゃんとやれていないことを、やさしく包まれるほど、苦しくなる。
「……すみません」
それだけ絞るように言って、俺は深く頭を下げた。
午後の途中で朝倉さんが上がり、代わりに柚木さんが入ってきた。
厨房には、無口な中島と、言葉を選ばない柚木さん――そして俺。
無言の時間が続く。
* * *
閉店間際、厨房の掃除をしていた俺に、ぽつりと声が飛んできた。
「……何考えてるかわかんないけどさ」
柚木さんは洗い物をしながら、目線も合わさずに言う。
「今日はずいぶんミス多いし暗いね。料理って、もっと楽しいもんじゃなかったっけ?」
一瞬、心臓が止まったような感覚があった。
何気ない、軽口のはずだった。もしかしたら柚木さんなりの励ましだったのかもしれない。
でも俺には、その言葉が、真っ直ぐに突き刺さった。
(楽しい……?)
(――楽しいって、なんだ?)
自分は、誰のために料理をしていたんだろう。
SNSに載せるため? 誰かに見てもらうため?
評価されたいから? 認められたいから?
でもそれって――
「楽しい」とは、違う気がした。
震える手で、使い終わった調理器具をシンクに置く。
手元がぶれて、水が少し跳ねた。
だけど俺は、もう何も反応できなかった。
何かが、静かに崩れ落ちていく音がした。
* * *
帰宅後。
明かりを点けたキッチンは、いつもと変わらないのに、まるで違う場所に感じた。
鶏むね肉のストックがある。
じゃがいもも、人参も、玉ねぎも。
でも、なにも作りたくなかった。
手は動かない。
心が、もう動いていなかった。
スマホの画面が目に入る。
ツブヤイターの通知が点滅していた。
でも、開く気にはなれなかった。
動画も撮りたくない。
声を出すのも、しんどい。
椅子に腰かけて、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。
涙は出なかった。
代わりに、静かな、深く冷たい沈黙だけが、俺を包み込んでいた。
(――俺、何のために)