「お疲れさまです」
青葉珈琲の裏口をくぐった瞬間、吐く息が白く浮かんだ。夕方からの冷え込みが、じわりと肌を刺す。制服の上に羽織った黒のコートの襟元を軽く押さえながら、俺は厨房の入り口に向かった。
琴葉は今日は用事があり休み。放課後、一人で制服のまま駅に向かい、電車を乗り継いで店に着いた。一人でバイトに向かうことに少しは慣れたつもりだったけど、入り口のドアノブに手をかけたとき、緊張で手が冷たくなっているのに気づいた。
中に入ると、厨房にはすでに中島さんの姿。背中越しに「よろしく」と短く言われて、俺は「お願いします」と返す。静かな空気が漂うなか、タイミングを計るように柚木さんが現れた。
「……こんばんは」
「……よろしく」
軽い挨拶。柚木さんは今日も変わらず淡々としていて、視線も合わさないまま、手を洗って自分の持ち場に入った。まるで、昨日のことなんて何もなかったかのように。
――だけど俺は、覚えてる。
昨日、柚木さんと初めて顔を合わせたときのことも。
厨房で言葉少なに作業していたときの距離も。
ほんの些細な、けれど鋭い視線も。
それでも仕事は仕事だ。自分に言い聞かせながら、注文票を確認し、必要な材料を取り出す。冷蔵庫の扉を閉めると、その隙間から柚木さんが静かに包丁を研いでいる姿が見えた。
「……」
無言。
俺も黙って作業に戻る。
中島さんは相変わらず寡黙で、必要なことしか言わない。だから厨房は、言葉の少ない空気に包まれていた。
けれど、昨日までと違うのは――その沈黙の中に、俺の心の中だけが妙にざわついていることだった。
何度か深呼吸しながら、時間が流れるのを待った。
* * *
閉店作業も終わり、厨房を簡単に片付けたあと。
タイミングを計ったように、店長が厨房の奥に顔を出す。
「中島くん、今度さ、スイーツ系の新作メニュー出すつもりなんだけど、ちょっと相談していい?」
「ああ、いいですよ」
「柊さんも、SNSやってるんもんね? 料理の。写真とか上手いし、参考にしてるんだよ。ちょうど投稿するイメージ探してたから、柊さんのツブヤイターちょっと見せてもらえない?」
「え、あ、はい……!」
思わぬところで名前を出されて、俺は少しだけ肩をすくめる。ツブヤイターでの活動について、職場の人と話すのは妙にこそばゆい感覚だった。
スマホを取り出して、アカウントを見せる。
店長は「これいいな」「この構図、使えるかも」と楽しそうに言っていた。
一方で柚木さんは、その会話を黙って聞いていた。
そのときは、何も言わなかった。
* * *
「それじゃ、あとは頼んだよー」と店長が去り、中島さんも先に更衣室へ向かった。
残ったのは、俺と柚木さんの2人だけ。
静かに厨房の手洗い場を片付けていたとき、不意に柚木さんの声がした。
「……SNS、やってるんだ」
「……はい。料理の写真とか、投稿してます」
「ふーん」
柚木さんは手を拭きながら、ちらりとこちらに視線を寄こす。けれど、その表情に感情はほとんど浮かんでいなかった。
「なんか、昨日も今日も思ってたけど……」
少し間があってから、柚木さんはぽつりと言った。
「そういうの、すごいね。人に見せるための料理って、どんな気持ちで作るんだろ」
一瞬、意味がつかめなかった。
けれど、その言葉の裏にある棘のようなものが、じわりと刺さる。
「……え」
「あたし、食べる人のために作る料理が好きだから。見栄えばっか気にして作ってるのって、なんか、違うなって思うだけ」
口調は淡々としていたけど、確かにそこには線引きがあった。
「あなたはあたしと違う」と、はっきり言われたような気がして。
「……そう、ですか」
それ以上は言えなかった。
返した言葉は、あまりに情けなくて、自分でも嫌になるほどだった。
柚木さんはそれきり黙って、更衣室に向かっていった。
俺はただ、その背中をぼんやりと見つめていた。
* * *
家に帰って、ドアを閉めた瞬間。
ため息が漏れた。
いつものルーティンで料理をしようとして、冷蔵庫の前に立ったけど、手が動かなかった。
スマホを見ても、何も開く気になれなかった。
ツブヤイターの通知がいくつか光っていたけれど、それを確認する勇気すらなかった。
自分がしていることは、ただの見栄なんだろうか。
誰かのためじゃなくて、誰かに見られるための料理。
そんなの、意味があるんだろうか。
いつの間にか、目元が熱くなっていた。
静かな部屋で、ただひとり――
俺は声を立てることもできず、そっと、涙をこぼした。