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第50話:静かな揺らぎ

「お疲れさまです」


青葉珈琲の裏口をくぐった瞬間、吐く息が白く浮かんだ。夕方からの冷え込みが、じわりと肌を刺す。制服の上に羽織った黒のコートの襟元を軽く押さえながら、俺は厨房の入り口に向かった。


琴葉は今日は用事があり休み。放課後、一人で制服のまま駅に向かい、電車を乗り継いで店に着いた。一人でバイトに向かうことに少しは慣れたつもりだったけど、入り口のドアノブに手をかけたとき、緊張で手が冷たくなっているのに気づいた。


中に入ると、厨房にはすでに中島さんの姿。背中越しに「よろしく」と短く言われて、俺は「お願いします」と返す。静かな空気が漂うなか、タイミングを計るように柚木さんが現れた。


「……こんばんは」


「……よろしく」


軽い挨拶。柚木さんは今日も変わらず淡々としていて、視線も合わさないまま、手を洗って自分の持ち場に入った。まるで、昨日のことなんて何もなかったかのように。


――だけど俺は、覚えてる。


昨日、柚木さんと初めて顔を合わせたときのことも。

厨房で言葉少なに作業していたときの距離も。

ほんの些細な、けれど鋭い視線も。


それでも仕事は仕事だ。自分に言い聞かせながら、注文票を確認し、必要な材料を取り出す。冷蔵庫の扉を閉めると、その隙間から柚木さんが静かに包丁を研いでいる姿が見えた。


「……」


無言。

俺も黙って作業に戻る。


中島さんは相変わらず寡黙で、必要なことしか言わない。だから厨房は、言葉の少ない空気に包まれていた。


けれど、昨日までと違うのは――その沈黙の中に、俺の心の中だけが妙にざわついていることだった。


何度か深呼吸しながら、時間が流れるのを待った。



* * *



閉店作業も終わり、厨房を簡単に片付けたあと。

タイミングを計ったように、店長が厨房の奥に顔を出す。


「中島くん、今度さ、スイーツ系の新作メニュー出すつもりなんだけど、ちょっと相談していい?」


「ああ、いいですよ」


「柊さんも、SNSやってるんもんね? 料理の。写真とか上手いし、参考にしてるんだよ。ちょうど投稿するイメージ探してたから、柊さんのツブヤイターちょっと見せてもらえない?」


「え、あ、はい……!」


思わぬところで名前を出されて、俺は少しだけ肩をすくめる。ツブヤイターでの活動について、職場の人と話すのは妙にこそばゆい感覚だった。


スマホを取り出して、アカウントを見せる。

店長は「これいいな」「この構図、使えるかも」と楽しそうに言っていた。


一方で柚木さんは、その会話を黙って聞いていた。


そのときは、何も言わなかった。



* * *



「それじゃ、あとは頼んだよー」と店長が去り、中島さんも先に更衣室へ向かった。


残ったのは、俺と柚木さんの2人だけ。


静かに厨房の手洗い場を片付けていたとき、不意に柚木さんの声がした。


「……SNS、やってるんだ」


「……はい。料理の写真とか、投稿してます」


「ふーん」


柚木さんは手を拭きながら、ちらりとこちらに視線を寄こす。けれど、その表情に感情はほとんど浮かんでいなかった。


「なんか、昨日も今日も思ってたけど……」


少し間があってから、柚木さんはぽつりと言った。


「そういうの、すごいね。人に見せるための料理って、どんな気持ちで作るんだろ」


一瞬、意味がつかめなかった。


けれど、その言葉の裏にある棘のようなものが、じわりと刺さる。


「……え」


「あたし、食べる人のために作る料理が好きだから。見栄えばっか気にして作ってるのって、なんか、違うなって思うだけ」


口調は淡々としていたけど、確かにそこには線引きがあった。

「あなたはあたしと違う」と、はっきり言われたような気がして。


「……そう、ですか」


それ以上は言えなかった。

返した言葉は、あまりに情けなくて、自分でも嫌になるほどだった。


柚木さんはそれきり黙って、更衣室に向かっていった。

俺はただ、その背中をぼんやりと見つめていた。



* * *



家に帰って、ドアを閉めた瞬間。

ため息が漏れた。


いつものルーティンで料理をしようとして、冷蔵庫の前に立ったけど、手が動かなかった。


スマホを見ても、何も開く気になれなかった。

ツブヤイターの通知がいくつか光っていたけれど、それを確認する勇気すらなかった。


自分がしていることは、ただの見栄なんだろうか。


誰かのためじゃなくて、誰かに見られるための料理。


そんなの、意味があるんだろうか。


いつの間にか、目元が熱くなっていた。


静かな部屋で、ただひとり――

俺は声を立てることもできず、そっと、涙をこぼした。


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