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迷いの色

第49話:はじまりの違和感

「今日は、新しい子が来る日でしたね」


午後4時半。青葉珈琲の厨房は、いつもの仕込みを終えた落ち着いた時間帯だった。カウンター越しには、ホールの坂田さんと店長の佐伯さんが静かに会話している声が聞こえる。


「もうすぐ来るはずだけど……あ、来た」


入り口のドアベルが鳴り、制服姿ではない1人の女性が入ってきた。黒に近いチャコールグレーのジャケットに、シンプルな白いインナー。薄化粧で、どこか飾り気のない印象――なのに、視線を向けた瞬間、妙に鋭さを感じた。


「こんにちは、柚木芹ゆずきせりです。朝倉から話聞いてると思いますが、今日からお世話になります。よろしくお願いします」


低めの声で、あっさりとした挨拶だった。目元は伏せがちなのに、視線は真っすぐ。なんだろう、この空気。


「店長の佐伯です、改めてよろしくね、柚木さん」


「よろしく〜、厨房担当だから柊さん、案内してあげてね」

坂田さんが俺に声をかける。


「あ、はい。よろしくお願いします、柊綾です。案内しますね」


いつものように――というには少し硬い笑顔を浮かべて、俺は言った。芹さんは軽く頷くだけで、それ以上何かを言うでもなく、奥に案内された。


「芹は、うちの大学の同期。昔からこういう感じなの。悪気はないよ」


朝倉さんが小声で耳打ちしてきた。その口調は冗談めいていたけれど、どこか本気のような気配も混じっている。


「芹は真面目で、少し口が悪くてぶっきらぼうなところあるけど、ちゃんとした子だから、気にしなくて大丈夫だよ」


……そう言われても、俺の中で何故か少しだけ引っかかっていた。


「これ、レモンケーキ?見た目は綺麗だけど、バター弱そうに見えるね?」


突然、柚木さんが俺の作っていた焼き菓子を覗き込み、そう言った。言い方は、淡々としていた。まるで評価しているように。


「あ、はい……もう少し重めの風味でもいいかなとは私も思ってたんですけど……」


「見映えはすごくいいんだろうけどね。SNSとかには良さそうで」


――SNS。俺の胸が一瞬、ざわついた。


「……そうですね、ちょっと見映えを意識したかもしれません」


「まぁ、それも一つの方向性だと思う。でも、あたしは味優先派なんだ。承認欲求に振り回されると、料理ってつまらなくなるから」


「芹いきなり評価する癖やめて!バイト初日に何言ってるの!ごめんね、綾ちゃん」

朝倉さんは苦笑いしながらツッコミを入れている。聞いていた通り、独特な雰囲気で少し変わっているように見える。


言葉そのものには、トゲはなかった。でも、不思議と胸の奥をぐっと押されたような感覚だけが残った。


(承認欲求……つまらなくなる……)


今の俺は、まさに“誰かに見てほしい”という思いで、料理を作っている。SNSの投稿だって、誰かの「美味しそう」が欲しくてやっていたはずだ。


「……それでも、楽しめていれば、いいんじゃないかなって思います」


小さく返した俺の言葉に、柚木さんは少しだけ視線を向けた。


「……」


柚木さんは何もなかったように厨房の奥へ向かった。俺の言葉を受け取ったのか、受け流したのか、その背中からは何も読み取れない。


その日――厨房に立ちながら、俺はずっと、自分の料理と、その「意味」を考えていた。


厨房の空気は、淡々と静かだった。

柚木さんは必要最低限しか喋らず、手元の仕事は驚くほど早い。まるで、何年もこの店にいたかのような手際。俺より後に入ったはずなのに、最初から「ここでの立ち位置」が決まっているような、そんな自然さがあった。


「……あの、レモンケーキって、前にどこかで作ってたんですか?」


自然に話しかけてみたつもりだった。でも、柚木さんはこちらを見ることなく、冷蔵庫から材料を取り出しながらぽつりと答えた。


「うん。実家、ケーキ屋だからね」


「あ、そうなんですね……」


たしかに。手の動きや配分の正確さは、普通の大学生には見えない。それでも、だからこそ、俺はもう少しだけ言葉を重ねてみたかった。


「じゃあ、そういうのってSNSとかで紹介したりとか……?」


「しない。あたしはそういうのやらないし、見るだけならいいけど」


きっぱりとした否定だった。

トーンに怒気はない。ただ、どこまでもフラット。でもその冷たさが、逆に俺の胸を締めつけた。


「あたしは昔から、『味が全て』って教えられてる。写真だけをみて美味しそうって言われるの、ちょっと違うなって思ってるから」


その言葉は、まるで俺の活動を真っ向から否定されたみたいで、思わず返す言葉に困った。


「……でも、たとえば、それで誰かが料理に興味持ったり、作ってみたいって思ってくれるなら、それも意味があるんじゃ……」


「それって、誰のための料理?」


少しだけ、柚木さんの視線がこちらに向いた。今までの無関心な視線とは違う、少しだけ射抜くような鋭さ。

俺は答えられなかった。たしかに、見栄えのいい料理を作って、褒められたくて投稿したことはある。

でもそれだけじゃなくて、もっと…もっと何かあったはずなのに。


「別に、否定してるわけじゃない。そういうのが楽しい人もいるし。それはそれで、自由だから」


フォローのようにも聞こえたけれど、その言葉はどこか遠くに置かれたような距離感があった。


(なんだろう、この人……)


俺と違いすぎる。話し方も、料理への向き合い方も。


でも――きっと悪い人ではない。

ただ、価値観があまりにも違っていて、それが「正しさ」や「間違い」の話じゃないからこそ、戸惑う。



* * *



気づけば、閉店時間が近づいていた。客足が落ち着いたホールから、坂田さんの「お疲れさまです」の声が聞こえる。


厨房も片付けに入る頃合いだった。中島さんが手早く器具を洗いながら、「今日はありがとうな」と声をかけてくれる。柚木さんは黙って片づけを進めていた。


「……あの、お疲れさまでした」


俺が軽く頭を下げると、柚木さんは手を止めずに言った。


「お疲れさま。明日もいるから、またよろしく頼むね」


あくまで仕事上の一言。その中に敵意はないけれど、親しさもない。


それでも――俺は思っていた。


(この人と一緒に仕事するの、けっこう……しんどいかもしれない)


そう思ってしまう自分に、小さな罪悪感がわいた。だけど、気づけば胃のあたりが重く、知らず知らずのうちに、肩に力が入っていた。


着替えを終えて店を出ると、外の空気はもう冬の匂いを帯びていた。夜風が頬に冷たくて、深呼吸しても胸のもやは晴れない。


(SNSのこと、あれでよかったのかな……)


歩きながら、スマホでツブヤイターを開こうとして、結局そのままポケットにしまった。


今は、まだ見たくなかった。


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