空は少しずつ色を変え、肌寒い風が校舎を抜けていく。教室の窓際で制服の袖をさすりながら、俺はいつも通りの朝を迎えていた。
起きて、朝食を作り、着替えて、軽くメイクをして、家を出る。バイトにも慣れてきてから、生活がさらに潤いを増してきた。それは目立った成功とか、称賛とか、そういう派手なものじゃない。ただ、気の合う友人やバイト仲間、SNSで繋がった人たちと一緒の時間を過ごす——それだけのことが、思った以上に心を満たしてくれているのだと思う。
4限目が終わり、昼休みになった。俺は鞄から昼食を取り出して、奈帆たちがいるいつもの机に向かう。あの4人のグループは、もうすっかり俺の日常に組み込まれていた。
「やっほー、あやっち〜! お待たせ〜!」
琴葉が弁当を片手にやってくる。続いて奈帆もいつも通りのテンポで現れ、咲良も小さく会釈しながら席についた。
「今日も昼食、綾さん手作りですか?」
「うん。簡単なやつだけど」
「えー、おいしそう。うち、コンビニのサンドイッチ〜」
琴葉が嘆くように言って、パッケージを破る。俺はいつも通りに箸をつけた。話題は自然と、最近のバイトの話へと移っていった。
「てか、綾ってもうバイト結構慣れた感じ?」
「……うん、まあ。それなりに」
「えっへへ〜、あやっちが働いてる姿かっこいいんだよ〜!」
琴葉がにやにや笑いながら顔を覗き込んでくる。
「綾って、最初はめっちゃ静かだったのに、今じゃちゃんと働いてて……ちょっと感動なんだけど?」
「……なんか言い方、親みたい」
「ふふっ、でもすごいですよね。きちんとSNSも続けてるし。私も尊敬してます」
咲良が控えめにそう言って、俺は少しだけ箸を止めた。やっぱりこの子は、どこか見てるところが細かい。言葉はいつもやわらかくて、でもちゃんと芯がある。たまにドキッとするくらい、こっちの内側を見透かしてる気がする。
「……ありがと」
口にしたそれは、小さくても本心だった。
「でもさ、バイトって本当に慣れるんだね〜。最初あんなに緊張してたのに」
「うん。最初の勤務、終わったあとのあやっち、めちゃめちゃ疲れてたもんね」
琴葉が笑って言うと、俺は苦笑して頷いた。
「……慣れたって言っても、まだ全然覚えることあるけど」
「ちゃんとやれてるなら十分でしょ〜。つーかさ、そういえば朝倉さん言ってたよ。来週さ、新しく厨房に入るバイトが来るって」
「……ああ、聞いたかも」
思い出す。数日前、まかないを食べているときに、朝倉さんがふと話していたこと。
『次、ひとり入ってくれる予定なんだよね。私の知り合いで、ちょっと変わってる子だけど、手は確かだから』
その時は特に気に留めなかったが、今思い返すと、少し引っかかる言い方だった。
「どんな人なんだろうな……」
ふとこぼした呟きに、奈帆が笑って答える。
「綾がちゃんと対応すれば大丈夫っしょ。意外と誰とでも合わせられるしさ」
俺はその言葉に、小さく「……そうだといいけど」と返した。
昼休みの鐘が鳴って、教室に生徒が戻ってくる。俺たちも席を立ち、次の授業に備える。
* * *
その帰り道——。
「今日バイトないんですよね?駅まで一緒にどうですか?」
咲良が俺の横に来て、声をかけてきた。
「うん。いいよ」
校門を抜けて、夕暮れに染まり始めた通学路を並んで歩く。
「……最近、楽しいですか?」
「楽しい……?」
「はい。バイトとか、SNSとか。さっき話してて、なんか綾さんが前よりも柔らかい感じになったなって思って……すみません、変なこと言って」
「……別に、変じゃない」
足元を見ながら答える。確かに最近、ちょっとだけ笑う回数が増えた気がする。
「バイトも、投稿も……なんか楽しいなって。誰かに見てもらえるの、嬉しいし」
「それってすごく充実してるってことですよね」
咲良はそう言って、ふわりと笑った。
「でも……ちょっと、怖くなるときもある」
「……どうしてですか?」
「人の目、気にしすぎてるのかもって。誰かのためにやってるはずなのに、いつの間にか、評価ばかり見てる気がして」
「……わかります。私も、絵を描くのが好きだったんですけど、誰かから反応があると、嬉しい反面、怖くなったことがありました」
「え、咲良も?」
「はい。でも、それでも……やっぱり続けたくて。最近また絵を描いてるんです。だから、綾さんも……無理しないでほしいなって」
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
「……ありがとう」
「ふふっ、いえ。駅、もうすぐですね」
そう言って咲良が手を差し出すように示し、俺たちはまた歩き出す。
変わらない日々の中で、少しずつ、俺も、周りも変わっていく。そんな微細な変化が、今は少しだけ心地よく感じられる。
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これにてバイト編は終わりです。どんどん綾のコミュニティは広がっていきます。
次回からは綾のSNS投稿を揺るがす迷いの描写になります。ややシリアスな雰囲気になりますのでご注意ください。