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第47話:慣れてきたバイト

鏡の前でアイブロウペンシルを手に取ったとき、ふと気づいた。

もう手元が迷わなくなっている。


気分転換に、普段使ってるリップをほんの少し色味の強いものにしてみた。アイラインも、いつもより丁寧に引いてみる。


「……まあ、悪くないかも」


鏡越しに見える自分の顔は、いつもの“私”に少しだけ自信を持っているように見えた。

女としての生活に、俺は思っていた以上に馴染んでいる。最初の戸惑いが嘘みたいに、日常が自然と回っていることに、ほんの少しだけ胸が温かくなった。


「……よし」


思わず口に出してそう呟いたのは、たぶん小さな確認だ。

あいかわらず俺の中身は“柊綾人”のままだが、それでもこの数ヶ月でずいぶん慣れた。最初は意識して行っていたケアも、今では生活のルーティンになっている。


目元を少しだけ丁寧に整え、ナチュラルに仕上げた。やりすぎず、でもきちんと女性らしく。女としての自分を「演じる」ことから、今では「整える」ことへと変わってきた感覚がある。


15時からのバイト。青葉珈琲での3回目の勤務だ。

土曜の午後ということで、店は忙しくなるだろう。




* * *




「あ、綾ちゃん。お疲れさま」


店の裏口から入った俺に声をかけたのは、朝倉さんだった。キッチンに立つ彼女は、いつものように落ち着いた笑みを浮かべている。


「お疲れさまです、今日もよろしくお願いします」


「今日は中島さんと一緒。いつも通りだから、無理せずついてきてね」


「はい」


厨房の空気は、平日のそれとはまったく違った。

ガスの熱気と食材の香り、次々と入るオーダーに対して的確に応じる音が、空間に緊張感を漂わせている。


中島さんは黙々と作業をこなしていた。目が合った瞬間、軽く頷かれた。それだけだ。でも、それで十分だった。


最初は厨房での作業に緊張していた俺も、今日はどこか冷静にこなせていた。仕込みの手伝い、野菜のカット、フライパンの温度管理。黙っていても手が動くのは、やっぱり料理が好きだからだろう。




* * *




17時を過ぎるころ、ホールからのオーダーが増え始めた。

「パスタ、もう一丁!」「オムライス入りました!」

ホールの坂田さんと砂原さんの声が厨房に響く。


フライパンに卵を流し込むと、ジュウッと軽快な音が返ってきた。オムライスの下ごしらえは朝倉さんがやってくれている。俺は仕上げに集中すればいい。


「柊さん、ナポリタンのプレートお願いできる?」


「はい、すぐに」


中島さんがチラリと俺の方を見た。無言の視線だったが、作業のテンポが噛み合っていることに気づいている表情だった。相変わらず言葉はないが、認めてくれているような空気が、少しだけ嬉しかった。



* * *



20時半。ピークが過ぎ、厨房の空気にも落ち着きが戻ってきた。


「今日もがんばったね、綾ちゃん」


朝倉さんがそう言って、俺にスポーツドリンクのペットボトルを渡してくれる。


「ありがとうございます」


「うん。最初の緊張した感じが、もうほとんど消えてるよ」


「……そう、ですか」


口に出すと、ほんの少し照れくさかった。

でもその一言が、きょう1日の疲れをふっと軽くしてくれる気がした。



* * *



バイトの終盤、21時を回る頃には店も落ち着き始め、俺たちはようやく厨房から離れて、まかないを食べる時間になった。

休憩スペースで、俺と朝倉さん、そして琴葉の3人が揃ってテーブルにつく。


「今日のまかない、和風ハンバーグらしいよ。うちのランチメニューのやつね!」と琴葉が目を輝かせる。


「へえ、楽しみ」と俺が言うと、朝倉さんがにこりと笑った。


「綾ちゃん、だいぶ手際良くなったよね。今日も動きスムーズだったし、ちょっとしたミスにもすぐ対応してたし」


「ほんとですよね〜!なんか最初のときより安心感あったし。あやっち、普通にプロじゃん?」


「いや……そんなことないです。まだまだわからないことだらけなので……」


俺は思わず目を伏せてしまったが、内心ではほんの少し、誇らしい気持ちが膨らんでいた。


「でも、ちゃんと見てると、そういうのって伝わるんだよ。綾ちゃん、SNSもやってるし、前から料理好きなんでしょ?」


朝倉さんの言葉に、俺は軽くうなずいた。


「……好きです。もともと、1人暮らししてからずっとやってたので」


「やっぱそうだよねー。なんか動きに無駄がない感じ、めっちゃ“やり慣れてます感”あるもん」


琴葉はあははと笑って、まかないのハンバーグをぱくっと頬張った。

その気楽な空気に、俺も思わず肩の力が抜けた気がする。


厨房に入って3回目。

最初は緊張しかなかったバイトも、今ではこうして少しだけ「居場所」のように感じられるようになってきていた。



* * *



まかないを食べ終わるころには、店内も静まり返っていた。


上着を羽織って、外に出ると夜風が肌をなでた。

街灯の光に照らされながら、俺は携帯を手に取り、時刻を確認する。


21時40分。バイト終了。


歩きながら思う。

――もう、3回目か。


最初は戸惑いと緊張ばかりだったこの場所も、いまでは俺にとって「ひとつの日常」になりつつある。


学校、友だち、SNS、動画、そしてこのバイト。

全部がいま、俺の“綾としての生活”を形づくっている。



少しずつ、だけど確実に。

俺の中に“綾”が根を張ってきている――そんな気がした。


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