鏡の前でアイブロウペンシルを手に取ったとき、ふと気づいた。
もう手元が迷わなくなっている。
気分転換に、普段使ってるリップをほんの少し色味の強いものにしてみた。アイラインも、いつもより丁寧に引いてみる。
「……まあ、悪くないかも」
鏡越しに見える自分の顔は、いつもの“私”に少しだけ自信を持っているように見えた。
女としての生活に、俺は思っていた以上に馴染んでいる。最初の戸惑いが嘘みたいに、日常が自然と回っていることに、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
「……よし」
思わず口に出してそう呟いたのは、たぶん小さな確認だ。
あいかわらず俺の中身は“柊綾人”のままだが、それでもこの数ヶ月でずいぶん慣れた。最初は意識して行っていたケアも、今では生活のルーティンになっている。
目元を少しだけ丁寧に整え、ナチュラルに仕上げた。やりすぎず、でもきちんと女性らしく。女としての自分を「演じる」ことから、今では「整える」ことへと変わってきた感覚がある。
15時からのバイト。青葉珈琲での3回目の勤務だ。
土曜の午後ということで、店は忙しくなるだろう。
* * *
「あ、綾ちゃん。お疲れさま」
店の裏口から入った俺に声をかけたのは、朝倉さんだった。キッチンに立つ彼女は、いつものように落ち着いた笑みを浮かべている。
「お疲れさまです、今日もよろしくお願いします」
「今日は中島さんと一緒。いつも通りだから、無理せずついてきてね」
「はい」
厨房の空気は、平日のそれとはまったく違った。
ガスの熱気と食材の香り、次々と入るオーダーに対して的確に応じる音が、空間に緊張感を漂わせている。
中島さんは黙々と作業をこなしていた。目が合った瞬間、軽く頷かれた。それだけだ。でも、それで十分だった。
最初は厨房での作業に緊張していた俺も、今日はどこか冷静にこなせていた。仕込みの手伝い、野菜のカット、フライパンの温度管理。黙っていても手が動くのは、やっぱり料理が好きだからだろう。
* * *
17時を過ぎるころ、ホールからのオーダーが増え始めた。
「パスタ、もう一丁!」「オムライス入りました!」
ホールの坂田さんと砂原さんの声が厨房に響く。
フライパンに卵を流し込むと、ジュウッと軽快な音が返ってきた。オムライスの下ごしらえは朝倉さんがやってくれている。俺は仕上げに集中すればいい。
「柊さん、ナポリタンのプレートお願いできる?」
「はい、すぐに」
中島さんがチラリと俺の方を見た。無言の視線だったが、作業のテンポが噛み合っていることに気づいている表情だった。相変わらず言葉はないが、認めてくれているような空気が、少しだけ嬉しかった。
* * *
20時半。ピークが過ぎ、厨房の空気にも落ち着きが戻ってきた。
「今日もがんばったね、綾ちゃん」
朝倉さんがそう言って、俺にスポーツドリンクのペットボトルを渡してくれる。
「ありがとうございます」
「うん。最初の緊張した感じが、もうほとんど消えてるよ」
「……そう、ですか」
口に出すと、ほんの少し照れくさかった。
でもその一言が、きょう1日の疲れをふっと軽くしてくれる気がした。
* * *
バイトの終盤、21時を回る頃には店も落ち着き始め、俺たちはようやく厨房から離れて、まかないを食べる時間になった。
休憩スペースで、俺と朝倉さん、そして琴葉の3人が揃ってテーブルにつく。
「今日のまかない、和風ハンバーグらしいよ。うちのランチメニューのやつね!」と琴葉が目を輝かせる。
「へえ、楽しみ」と俺が言うと、朝倉さんがにこりと笑った。
「綾ちゃん、だいぶ手際良くなったよね。今日も動きスムーズだったし、ちょっとしたミスにもすぐ対応してたし」
「ほんとですよね〜!なんか最初のときより安心感あったし。あやっち、普通にプロじゃん?」
「いや……そんなことないです。まだまだわからないことだらけなので……」
俺は思わず目を伏せてしまったが、内心ではほんの少し、誇らしい気持ちが膨らんでいた。
「でも、ちゃんと見てると、そういうのって伝わるんだよ。綾ちゃん、SNSもやってるし、前から料理好きなんでしょ?」
朝倉さんの言葉に、俺は軽くうなずいた。
「……好きです。もともと、1人暮らししてからずっとやってたので」
「やっぱそうだよねー。なんか動きに無駄がない感じ、めっちゃ“やり慣れてます感”あるもん」
琴葉はあははと笑って、まかないのハンバーグをぱくっと頬張った。
その気楽な空気に、俺も思わず肩の力が抜けた気がする。
厨房に入って3回目。
最初は緊張しかなかったバイトも、今ではこうして少しだけ「居場所」のように感じられるようになってきていた。
* * *
まかないを食べ終わるころには、店内も静まり返っていた。
上着を羽織って、外に出ると夜風が肌をなでた。
街灯の光に照らされながら、俺は携帯を手に取り、時刻を確認する。
21時40分。バイト終了。
歩きながら思う。
――もう、3回目か。
最初は戸惑いと緊張ばかりだったこの場所も、いまでは俺にとって「ひとつの日常」になりつつある。
学校、友だち、SNS、動画、そしてこのバイト。
全部がいま、俺の“綾としての生活”を形づくっている。
少しずつ、だけど確実に。
俺の中に“綾”が根を張ってきている――そんな気がした。