日は落ちかけていた。
冬の空はもうすっかり乾いた色で、どこか他人行儀に広がっている。
「……一緒に帰りませんか?」
その声は、いつものように柔らかく、丁寧だった。
でも、どこか“迷い”を感じさせるほどに静かだった。
「……うん」
俺は、少しだけ間を置いてからうなずいた。
校門を抜けて、駅までの道を並んで歩く。
風は冷たくて、制服の裾がかすかに揺れる。
咲良はずっと黙ったまま歩いていた。無理に話しかけようともしない。
けれど、その沈黙が俺には心地よかった。
「綾さん、最近……少しだけ、顔が柔らかくなった気がします」
ぽつりと、咲良が言った。
「無理に笑ってるとかじゃなくて。少しだけ、呼吸が戻ってきたみたいな」
「……呼吸?」
「はい。冬の空気って、ちょっと痛いじゃないですか。
でも、深く吸い込んだときに、なんか“生きてるな”って思えるような」
俺はふと、笑ってしまいそうになった。
でも、それはどこか懐かしくて、優しい笑いだった。
「……咲良、詩人?」
「いえいえ、そんな……でも、そう感じたんです。今日の綾さんを見て」
2人の歩幅が、自然とぴたりと揃っていた。
「……ねえ」
俺が、小さく声を出した。
「……もし、また何か作ったら。食べてくれる?」
咲良は驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。
「もちろん、です。喜んで」
その言葉は、まるでお守りのようだった。
“誰かのため”じゃない。
でも、“誰かが喜んでくれるかもしれない”――
その想像だけで、ほんの少しだけ前を向ける気がした。
俺は小さく息を吸い込む。
確かに、冬の空気は痛い。でも、ちゃんと深く、肺の奥まで入ってくる。
(……そろそろ、作ってみようかな)
そんな言葉が、心のなかにそっと浮かんだ。
* * *
「でね、それでブロックしちゃったの、即」
「うち、そういうとこだけは潔いから」
琴葉の話は、相変わらずテンポがよくて飽きない。
奈帆が笑いながらツッコみ、俺も小さく微笑んだ。
「それ正解かもね。変な人に絡まれると面倒だし」
「でしょでしょ~? あ、ほらあやっちも!反応してくれるようになった〜!」
琴葉がぱっと顔を綾に向ける。
その視線に、綾は少しだけ照れくさそうに目をそらした。
「……そんなに最近、反応してなかった?」
「してなかったよー!てか前、あやっちずっと黙って食べてたし」
「うん……ちょっとね」
素直に認める綾に、奈帆が優しく笑った。
「でも、今日の綾はなんか、ちょっと安心する」
「そうそう!顔色いいし。やっぱりさ、笑ってるあやっちのほうがいいよ。
無理してるとかじゃなく、ちゃんと戻ってきた感じ」
「……戻ってきた?」
その言葉を俺が小さく反芻したとき、咲良の言っていた「呼吸が戻った」って言葉が頭をよぎった。
もしかしたら、自分でも気づかないうちに、少しずつ前を向いていたのかもしれない。
「……ありがとう、二人とも」
そう呟いたとき、奈帆が満面の笑みを浮かべて言った。
「綾、なんか作ったら絶対持ってきてね。女子トモ限定の試食会!」
「うち、スイーツ担当ね?あやっちの作るやつマジでうまいから!」
「……そんなにハードル上げないでよ」
言葉ではそう返したけれど、そのやりとりのひとつひとつが、胸の奥にぽたぽたと優しく落ちていく。
(……この空気、久しぶりかも)
何気ない昼休みの笑い声と、ちょっとした気遣いと、優しい視線。
そんな小さなものたちが、俺の中の空白を少しずつ埋めてくれていた。
* * *
夜。
部屋の明かりをつけたあと、俺はなんとなくキッチンのほうへと歩いていた。
特に目的があったわけじゃない。
ただ、目に入ったシンクのステンレスが、思ったよりも綺麗に磨かれていたのが目について、ふと足を止めた。
(……そういえば)
なるみん、スイートポテト作るの楽しみにしてたよな。
そのことをふと思い出した瞬間、何かがほんの少し、動いた気がした。
冷蔵庫を開けると、買ってあったさつまいもが1本。
きっと、前にコラボ試作用に買ったまま忘れていたやつだ。
(……やってみるか)
心のどこかで、ずっと避けていた場所に、また足を踏み入れる。
キッチンの照明が、いつもより少しだけ暖かく感じられた。
さつまいもを洗って、ラップで包んで、レンジに入れる。
電子音が鳴るまでの間、なんとなく手持ち無沙汰で、指先を撫でながら時間を待った。
「……あ」
取り出したとき、少し熱しすぎて皮が破けていた。
芋の甘い香りが広がる中、思わず苦笑いする。
(前は、もっとちゃんとできたのに)
それでも、皮を丁寧に剥きながら、手が自然と動く。
砂糖、バター、牛乳。材料を測るときの感覚が、体に戻ってくる。
ボウルの中で、スプーンが芋を潰す音がやけに心地いい。
レシピは頭に入っているのに、気がつけばもう一度スマホで調べていた。
(あのときは、どういう風に絞ってたっけ)
記憶を辿りながら、ゆっくりと生地を絞り袋に詰めていく。
焼き上がりの形を想像して、並べ方を少し工夫してみたり。
オーブンをセットして、待つ間。
俺はふと、シンクに映った自分の顔を見た。
表情は、特別なにかが変わったわけじゃない。
でも――少しだけ、目が生きている気がした。
(作ってるときって、やっぱり……)
“楽しい”とまではまだ思えなかった。
でも、“嫌じゃない”と思えるくらいには、戻ってきている。
そんな気がした。
タイマーの音が鳴り、オーブンを開ける。
ほのかに甘い香りと、ほんのり焼き色のついたスイートポテトが顔をのぞかせた。
「……まあ、悪くない」
自分で自分にそう呟いて、スマホを手に取る。
写真を1枚だけ、撮った。
そして、何も加工せずに、そのままツブヤイターを開く。
⸻
《久しぶりに作ってみました。スイートポテト。まだ調整中だけど、ちょっとずつ試してます》
⸻
投稿ボタンを押すと、少しだけ手が震えた。
でも、不思議と、怖くはなかった。
数字が気になるわけでもなく、反応を期待しているわけでもない。
ただ、「作った」と言いたくなっただけ。
投稿を終えて、ふぅと息を吐いたとき、
スマホにポン、と新しい通知。
なるみんからだった。
⸻
なるみんみーる:
《うわ〜〜〜〜ラギ!めっちゃ美味しそう!!》
⸻
そのテンションのままの文面を見て、俺は思わず笑ってしまった。
小さく、短く、でも確かに漏れた声だった。
(また……作ろう)
ぽつりと心の中で呟いた言葉は、
思っていたよりも、ちゃんと自分の声になっていた。