目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第53話:静かな灯火

日は落ちかけていた。

冬の空はもうすっかり乾いた色で、どこか他人行儀に広がっている。




「……一緒に帰りませんか?」


その声は、いつものように柔らかく、丁寧だった。

でも、どこか“迷い”を感じさせるほどに静かだった。


「……うん」


俺は、少しだけ間を置いてからうなずいた。




校門を抜けて、駅までの道を並んで歩く。

風は冷たくて、制服の裾がかすかに揺れる。

咲良はずっと黙ったまま歩いていた。無理に話しかけようともしない。

けれど、その沈黙が俺には心地よかった。




「綾さん、最近……少しだけ、顔が柔らかくなった気がします」


ぽつりと、咲良が言った。


「無理に笑ってるとかじゃなくて。少しだけ、呼吸が戻ってきたみたいな」


「……呼吸?」


「はい。冬の空気って、ちょっと痛いじゃないですか。

 でも、深く吸い込んだときに、なんか“生きてるな”って思えるような」


俺はふと、笑ってしまいそうになった。

でも、それはどこか懐かしくて、優しい笑いだった。


「……咲良、詩人?」


「いえいえ、そんな……でも、そう感じたんです。今日の綾さんを見て」




2人の歩幅が、自然とぴたりと揃っていた。




「……ねえ」


俺が、小さく声を出した。


「……もし、また何か作ったら。食べてくれる?」


咲良は驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。


「もちろん、です。喜んで」


その言葉は、まるでお守りのようだった。




“誰かのため”じゃない。

でも、“誰かが喜んでくれるかもしれない”――

その想像だけで、ほんの少しだけ前を向ける気がした。


俺は小さく息を吸い込む。

確かに、冬の空気は痛い。でも、ちゃんと深く、肺の奥まで入ってくる。




(……そろそろ、作ってみようかな)


そんな言葉が、心のなかにそっと浮かんだ。



* * *



「でね、それでブロックしちゃったの、即」


「うち、そういうとこだけは潔いから」


琴葉の話は、相変わらずテンポがよくて飽きない。

奈帆が笑いながらツッコみ、俺も小さく微笑んだ。



「それ正解かもね。変な人に絡まれると面倒だし」


「でしょでしょ~? あ、ほらあやっちも!反応してくれるようになった〜!」


琴葉がぱっと顔を綾に向ける。

その視線に、綾は少しだけ照れくさそうに目をそらした。


「……そんなに最近、反応してなかった?」


「してなかったよー!てか前、あやっちずっと黙って食べてたし」


「うん……ちょっとね」


素直に認める綾に、奈帆が優しく笑った。


「でも、今日の綾はなんか、ちょっと安心する」


「そうそう!顔色いいし。やっぱりさ、笑ってるあやっちのほうがいいよ。

 無理してるとかじゃなく、ちゃんと戻ってきた感じ」


「……戻ってきた?」


その言葉を俺が小さく反芻したとき、咲良の言っていた「呼吸が戻った」って言葉が頭をよぎった。


もしかしたら、自分でも気づかないうちに、少しずつ前を向いていたのかもしれない。


「……ありがとう、二人とも」


そう呟いたとき、奈帆が満面の笑みを浮かべて言った。


「綾、なんか作ったら絶対持ってきてね。女子トモ限定の試食会!」


「うち、スイーツ担当ね?あやっちの作るやつマジでうまいから!」


「……そんなにハードル上げないでよ」


言葉ではそう返したけれど、そのやりとりのひとつひとつが、胸の奥にぽたぽたと優しく落ちていく。




(……この空気、久しぶりかも)


何気ない昼休みの笑い声と、ちょっとした気遣いと、優しい視線。

そんな小さなものたちが、俺の中の空白を少しずつ埋めてくれていた。



* * *



夜。

部屋の明かりをつけたあと、俺はなんとなくキッチンのほうへと歩いていた。


特に目的があったわけじゃない。

ただ、目に入ったシンクのステンレスが、思ったよりも綺麗に磨かれていたのが目について、ふと足を止めた。




(……そういえば)


なるみん、スイートポテト作るの楽しみにしてたよな。


そのことをふと思い出した瞬間、何かがほんの少し、動いた気がした。


冷蔵庫を開けると、買ってあったさつまいもが1本。

きっと、前にコラボ試作用に買ったまま忘れていたやつだ。




(……やってみるか)


心のどこかで、ずっと避けていた場所に、また足を踏み入れる。

キッチンの照明が、いつもより少しだけ暖かく感じられた。




さつまいもを洗って、ラップで包んで、レンジに入れる。

電子音が鳴るまでの間、なんとなく手持ち無沙汰で、指先を撫でながら時間を待った。


「……あ」


取り出したとき、少し熱しすぎて皮が破けていた。


芋の甘い香りが広がる中、思わず苦笑いする。


(前は、もっとちゃんとできたのに)


それでも、皮を丁寧に剥きながら、手が自然と動く。

砂糖、バター、牛乳。材料を測るときの感覚が、体に戻ってくる。




ボウルの中で、スプーンが芋を潰す音がやけに心地いい。

レシピは頭に入っているのに、気がつけばもう一度スマホで調べていた。


(あのときは、どういう風に絞ってたっけ)


記憶を辿りながら、ゆっくりと生地を絞り袋に詰めていく。

焼き上がりの形を想像して、並べ方を少し工夫してみたり。




オーブンをセットして、待つ間。

俺はふと、シンクに映った自分の顔を見た。


表情は、特別なにかが変わったわけじゃない。


でも――少しだけ、目が生きている気がした。




(作ってるときって、やっぱり……)


“楽しい”とまではまだ思えなかった。

でも、“嫌じゃない”と思えるくらいには、戻ってきている。


そんな気がした。




タイマーの音が鳴り、オーブンを開ける。


ほのかに甘い香りと、ほんのり焼き色のついたスイートポテトが顔をのぞかせた。


「……まあ、悪くない」


自分で自分にそう呟いて、スマホを手に取る。


写真を1枚だけ、撮った。

そして、何も加工せずに、そのままツブヤイターを開く。





《久しぶりに作ってみました。スイートポテト。まだ調整中だけど、ちょっとずつ試してます》



投稿ボタンを押すと、少しだけ手が震えた。

でも、不思議と、怖くはなかった。


数字が気になるわけでもなく、反応を期待しているわけでもない。

ただ、「作った」と言いたくなっただけ。




投稿を終えて、ふぅと息を吐いたとき、

スマホにポン、と新しい通知。


なるみんからだった。



なるみんみーる:

《うわ〜〜〜〜ラギ!めっちゃ美味しそう!!》



そのテンションのままの文面を見て、俺は思わず笑ってしまった。


小さく、短く、でも確かに漏れた声だった。




(また……作ろう)


ぽつりと心の中で呟いた言葉は、

思っていたよりも、ちゃんと自分の声になっていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?