「最新_修正版_narumi_リテイク(8).docx……」
会議室に山積みされた資料の頂上に、またひとつ紙の束を置いた。深夜0時を回る社内は静まり返っている。電気代節約のため薄暗い蛍光灯の下、私──
「部長から言われた修正点、全部入れたはず……」
目の奥がズキズキと痛み、画面から目を離すと天井がグルグル回る。カレンダーはすでに月が変わっていて、私はこの会議室に丸二日も詰めていることになる。
「あれ?私、シャワーいつ浴びたっけ?」
シャツの袖を嗅いでみると、間違いなく二日目の匂いだった。28歳にして、女子力とやらはとうに使い果たしていた。そして体力も。
「あと少し休めば……」
大きな会議テーブルに頬を押し付け、仮眠を取るつもりだった。あくまで仮眠のはずだった。
「もう限界……」
意識が沈んでいく。後ろめたさと疲労が渦巻く中、最後に浮かんだのは「今度こそ転職しよう」という、過去三年毎日思い続けてきた誓いだった。
◆◆◆
「お目覚めですか?」
甘い香りが鼻をくすぐる。何かの花だろうか。思わず深呼吸してしまう。
「お目覚めになられましたか?」
聞き慣れない丁寧な日本語で、誰かが呼びかけてくる。
「うぅん……あと五分……」
「おや、この方は清語を解するのか?」
「
清語?殿下?
重たい瞼を無理やり開くと、そこは見知らぬ豪華な部屋だった。桃色の柱には金色の龍が絡みつき、天井には色鮮やかな鳥や花が描かれている。足元には分厚い絨毯……いや、よく見れば純金の糸を織り込んだ絹の敷物だった。
「ここ……どこ?」
目の前には、まるで絵から抜け出してきたような美形の男性と、うつむいた若い女性が立っている。男性は金の刺繍が施された藍色の長衣をまとい、女性は白と薄紅色の簡素な装いだった。
「これは華やかなご冗談ですな。」男性が口を開く。「ここが
「え?煌玉……?紫霞宮?」
???という顔をしていると、うつむいた女性が小さな声で言った。
「新人様、試験の時間です。急いでくださいませ」
試験?何のことやら。頭がまだ働かず、私は自分の服装に気がついた。紙のように薄い白い下着のようなものと、その上に薄藍色の長い上着を羽織っている。
「あの、すみません。ここはどこなんでしょう?私、確か会社の会議室で……」
男性と女性が顔を見合わせる。
「殿下、やはりこの娘は記憶を失くしているようです。試験に間に合いますでしょうか?」
「構わんよ。その状態でも試験は受けられる。むしろ面白いではないか」男性──どうやら「殿下」と呼ばれている人物は薄く笑った。「私は
「
「なるみ……ゆき?」瑞珂が首を傾げる。「珍しい名だな。しかし、」
彼は大きく息を吸うと、まるで詩を詠むように言った。
「勇ましい姫と書いて、
「え?ちょっと待って、私の名前は──」
腕を掴まれた。うつむいていた女性が突然動き、私を引っ張り始めた。
「お願いします!試験に遅れたら私たち、先任女官に厳しく叱られます!」
「ちょ、ちょっと!私、どこにいるのかも分からないし、この服も見慣れないし──」
どうやら紙のように薄い白い下着のようなものと、その上に薄藍色の長い上着を羽織っているようだった。
「勇姫、行くといい」皇太子と名乗った瑞珂が静かに言った。「そなたの行く末は、今日の試験にかかっている」
「お願いします!」女性の声が震えている。
仕方なく立ち上がると、すぐに頭がクラクラした。どうやら激しい貧血だ。昨日……いや、今日……いつだかの徹夜が祟っているのかもしれない。
「わかった、わかった。でも、ゆっくり行こうよ」
女性の手を借り、よろよろと歩き出した私は、窓の外に広がる光景に息を呑んだ。
金色の瓦屋根が連なる巨大な宮殿群。そこかしこに立つ朱色の柱。空には雲ひとつない青空が広がり、庭には見たこともない花が咲き乱れていた。
「これは……中国?いや、違う。こんな建物、現実には……」
まさか映画のセットか何か?でも、あまりにも大規模すぎる。
「時間がありません!」女性が私の背中を小突いた。
廊下を急ぐ間、頭の中はパニックに陥っていた。
『これはどういうこと?私は確かに会社で倒れたはず。それが、どうしてこんな……』
長い廊下を曲がると、突然、美しい衣装に身を包んだ女性たちの群れに出くわした。二十人はいるだろうか。みな同じような装いで、腰に細長い布を下げ、ところどころには小さな
「遅刻でございます!」
女性たちの中で最も年長に見える人物が、厳しい目で私たちを見つめていた。
「申し訳ございません!新人がなかなか起きず──」
「言い訳は無用!さあ、試験を始めます!」
年長の女性が手を叩くと、周囲の女性たちが素早く二列に並び、正面には巨大な屏風が置かれた。
「新人たちよ!今日は女官選抜試験。合格した者だけが紫霞宮での奉公を許される。おまえたちの中から書記女官、医務女官、内務女官を選ぶ!」
「え、待って、私は受けるつもりはないんですけど──」
無視された。年長の女性は私に冷たい視線を送ると、続けた。
「では、まず書道の試験から!」
何がなんだかわからないまま、私の手には筆が握らされ、前には巨大な紙が置かれていた。
『これは……夢?そうよね、きっと夢に違いない。なら、目が覚めるまでつきあってみよう』
そう自分に言い聞かせ、私は筆を持った。学生時代の習字の経験を思い出しながら、お手本を見て「奉公」と書いてみる。
「おや、筆遣いが独特ですね」
横から別の女性が覗き込んだ。「でも丁寧。書記向きかも」
次々と試験が続く。香りを嗅ぎ分けたり、草花の名を答えたり、複雑な儀式の手順を暗記したり。最後には、奇妙な形の木製の箱を目の前に置かれた。
「これは宮廷記録箱です。何名分の記録が収められるか、一目見て答えなさい!」
箱には小さな仕切りがあり、紙が整然と立てられるようになっていた。
『これって、昔の書類ケースじゃない?』
オフィスワークの経験から感覚的に答えた。「50人分、各10枚ずつで500枚の記録が入ります」
周囲がシーンと静まり返った。
「正解だ!しかも瞬時に!」
年長の女性が驚いた表情で私を見つめる。「おまえ、以前はどこかで記録係をしていたのか?」
「いえ、まあ、事務職ではありましたけど……」
「決まりました!
拍手が沸き起こる中、私はまだ頭がクラクラしていた。
『待って、これって……』
もしかして私は、過労死して、異世界に転生してしまったの?
しかも中国風の宮廷?後宮?
「よかったですね、勇姫様!」さっきまで私を引っ張っていた女性が小さく喜んでいる。「私は
「あの、これは本当に……」
小桃が私の耳元で囁いた。「勇姫様、みんなの前では質問しないほうがいいです。女官長、怒りますから」
仕方なく、私は口を閉じた。
その日の晩、与えられた簡素な部屋のベッドに横たわり、天井を見つめながら、私はようやく現実を受け入れ始めていた。
「まだ夢から覚めない……ということは、これは現実なの?私、本当に異世界転生?」
ため息をつく。
「転職どころか、転生しちゃったよ……」