「勇姫さま!勇姫さま!もう朝ですよー!」
「んん……まだ五分……」
会社の朝と同じ反応をしてしまう。そう、私は会社で倒れて、気づいたらこの異世界。今朝になっても状況はまったく変わっていなかった。
「だめですぅ!書記女官の初日に遅刻したら、
その一言で飛び起きた。前世(?)の社畜習慣が身に染みついている。上司の怒りは何よりも恐ろしい。
「わかった、起きる!」
部屋は昨日気づかなかったほど質素だった。木の寝台、小さな机と椅子、そして窓から差し込む朝日。小桃が準備してくれた衣装は、白い下着に藍色の上着、そして細長い帯。
「これが書記女官の服なんですね?」
「はい!藍色は知恵の色なんですよ。書記女官は宮中で一番頭がいいとされてます!」
小桃が嬉しそうに着付けを手伝ってくれる。彼女の指先は慣れた様子で、あっという間に私の体に服が馴染んでいく。
「小桃さんは何の女官なの?」
「あたしは内務女官見習いです。掃除や使い走りが主なお仕事。でも、勇姫さまと同じ清風院の東棟に住んでるから、朝のお手伝いをするよう言われました」
彼女は明るく笑う。まるで異世界に迷い込んだ私の状況など気にも留めていないようだ。
「あの……ちょっと聞きたいんだけど」
小桃の顔が真剣になる。「はい!」
「この世界のこと、教えてもらえないかな。私、記憶をなくしていて……」
小桃は大きく目を見開いた。
「あ!だから昨日あんなに混乱してたんですね!でも心配しないでください、あたしがバッチリ教えますよ!」
彼女は単純な子なのか、それとも私の言い訳を信じ込むほど純粋なのだろうか。
「えっとね、ここは
昨日会った美形の男性のことだ。
「後宮って……皇帝のお妃がいるところ?」
「そうですよ!正妃様が一人、側妃様が三人、侍妃以下がずらーっといます。女官はその方々に仕えたり、宮中の運営をするお仕事です」
なるほど。基本的な構図はつかめてきた。
「じゃあ、書記女官ってどんな仕事をするの?」
小桃は少し考えるように首を傾げた。
「書を記す……ですかね。文書を作ったり記録したり、あとは計算や管理もするみたいです。詳しいことは
急かされるように部屋を出ると、朝の光に照らされた回廊が広がっていた。
朱色の柱が並ぶ長い廊下を進む。小桃が先導してくれる。途中、様々な衣装を着た女性たちとすれ違った。彼女らはみな私たちに会釈する。私も慌てて頭を下げた。
「あの、小桃さん。書記女官って、地位が高いの?」
「うん!医務女官と並んで、内務女官より上です。だから、みんな勇姫さまに挨拶してるんですよ」
そう言われて少し気恥ずかしくなる。私はただの社畜だったのに。
尚書房に到着すると、そこには十人ほどの女性たちが忙しく働いていた。机の上には山積みの巻物や冊子。奥には大きな書棚。中央には大きな作業台があった。
「お、新入りか」
声の主は、三十代ほどの落ち着いた女性。黒髪を厳しくまとめ上げ、藍色の衣装に銀の刺繍が施されていた。
「はい!昨日選ばれた
深々と頭を下げる。ここでの第一印象は大事だと、社会人の勘が教えてくれた。
「私は
霜蘭の鋭い目が私を観察していた。まるで新入社員を値踏みする先輩のようだ。
「記録の経験はあるのか?」
「はい、前職では文書管理や資料作成を担当していました」
「前職?」霜蘭の眉が上がる。「おまえ、宮外から来たのか?」
小桃が横から口を挟んだ。「勇姫さま、記憶をなくされてるんです!」
「記憶喪失?」霜蘭が不思議そうに首を傾げた。「興味深い。だが、仕事に支障がなければいい。今日からおまえの担当は月次報告書だ」
大きな木製の箱を指差す霜蘭。中には何枚もの紙が無造作に詰め込まれていた。
「各部屋からの月次記録を整理し、一覧表にまとめる。前任者が急に辞めたので、少し溜まっている」
少し、ではなかった。ざっと見ただけでも数百枚はありそうだ。
「これを……手作業で?」
「当然だ。他にどうやるというのだ?」
そうか、ここにはパソコンもExcelもない。すべて手書きなのだ。胃が痛くなる感覚。
「いつまでに必要ですか?」
「明後日の午前中には皇太子殿下に提出する」
「え?この量を二日で?」
霜蘭は薄く笑った。「できないならば、今すぐ内務女官に転属してもいいぞ。掃除は楽だがな」
プライドが傷ついた。前世では短納期の資料作りのプロだった私だ。負けるわけにはいかない。
「いえ、やります!きっと間に合わせます!」
「良い心がけだ。道具はそこの棚にある。質問があれば私に聞け」
そう言って霜蘭は自分の机に戻っていった。
小桃が耳元で囁いた。「がんばってくださいね!あたし、内務の仕事があるので行きますね」
彼女が去ると、私は天を仰いだ。
「また納期地獄か……」
笑えてくる。ブラック企業を抜け出したと思ったら、異世界のブラック後宮に転生するとは。
しかし、やるしかない。机に向かい、箱の中身を取り出す。様々な部屋や部署からの報告書。物品の使用状況、人員の配置、訪問者の記録……内容は多岐にわたっていた。
「これじゃ、整理するだけで一日かかる……」
そのとき、ふと思い出した。前世での私の密かな武器。
「そうだ、スプレッドシートの要領で整理すればいい!」
頭の中で表を作ってみる。縦軸に部署名、横軸に月日、そこに記入するのは物品名と数量……
「おや、もう作業を始めたのか」
見上げると、霜蘭が私の机の前に立っていた。
「はい。まずは全体を把握しようと……」
「ふむ。その前に、これを見せておこう」
霜蘭が取り出したのは、薄い冊子だった。
「女官の
冊子を受け取ると、霜蘭は再び立ち去った。
心得、つまりマニュアルだ。中を開くと、びっしりと文字が書かれていた。「書記女官は常に清廉であるべし」「記録は正確に丁寧に」「上官の指示に従い」……
基本的なことから始まり、細かい作法や手順まで。ページをめくるごとに私の表情は曇っていった。
「これ、全部覚えなきゃいけないの?」
特に問題だったのは文書整理の方法だ。誰が書いたか、いつ提出されたか、どこに保管するかが複雑に入り組んでいた。
「誰がどの帳簿を書いて、どこに提出して、いつまでに処理されるのか、誰も把握できてないじゃない!」
思わず声が大きくなり、周囲の女官たちがちらりと私を見た。恥ずかしくなって頭を下げる。
午後になると、さらに仕事が増えた。新たな報告書が次々と運び込まれる。古いものを整理する暇もないまま、積み上がっていく紙の山。
「勇姫、これも整理しておけ」
「勇姫さん、この記録も月次に入れてね」
「新人さん、ちょっとここの計算を手伝って」
次々と声をかけられる。私は必死に対応した。しかし、頭の中では別の作業が始まっていた。
『この非効率な作業フロー、なんとかならないかしら……』
社畜時代に鍛えられた業務改善の本能が目覚める。頭の中に、まるで表計算ソフトのような画面が浮かび上がった。
「まず、部署ごとに色分けして、提出日順に並べて……」
気づけば日が沈みかけていた。周囲の女官たちは次々と仕事を終え、帰っていく。
「勇姫、初日からそんなに遅くまで残るつもりか?」
霜蘭が声をかけてきた。彼女自身も帰る支度をしていた。
「すみません、まだ全体を把握できていなくて……」
「無理するな。明日も仕事はある。休息も仕事の一部だ」
意外にも優しい言葉。しかし、私の社畜魂は簡単に引き下がらない。
「あと少しで見通しがつきそうなんです。少しだけ残らせてください」
霜蘭はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「わかった。だが、あまり遅くならないように。門限を過ぎると、宦官に怪しまれるぞ」
「宦官?」
「宮中の警備や監視を担当する男性官吏だ。女官と違って……」霜蘭は少し言葉を選ぶように間を置いた。「特別な身体的特徴を持つ者たちだ」
なるほど、そういうことか。
「わかりました。長居はしません」
霜蘭が去った後、私は再び仕事に没頭した。頭の中の表がどんどん完成していく。
「これとこれは同じカテゴリーだから一緒に……」
気づくと、机の上の書類が整然と並んでいた。まるでExcelの並べ替え機能を使ったかのように。
「明日は実際に集計表を作っていこう」
満足げに立ち上がり、部屋を出ようとした時だった。
「おや、まだ誰かいたのか」
低く落ち着いた男性の声。振り返ると、そこには白銀の衣装をまとった細身の男性が立っていた。凛とした顔立ちだが、どこか女性的な柔らかさも感じる。
「あ、すみません。新人の
「私は
その目が鋭く私を観察していた。まるでスキャナーのように。
「初日から熱心だな。書記女官は常に忙しい。倒れないように気をつけるといい」
「はい、ありがとうございます」
「ところで、おまえは何をしていた?」白凌が机の上の書類に目をやる。
「月次報告書の整理です。明後日までの提出なので」
「ほう、あの厄介な仕事か」白凌が少し興味を示した。「あれは通常、一週間かかる作業だぞ」
「え?一週間?」
「そうだ。前任者は毎回徹夜を重ねていたが、それでも間に合わず、先月ついに倒れて辞めてしまった」
まさに前世の私と同じ末路。背筋が寒くなる。
「でも、霜蘭さんは二日でと……」
「彼女は新人を試しているのだろう。無理だと判断すれば、他の仕事に回すつもりかもしれない」
なるほど、新人いびりか。それとも実力テスト?
「私なら、できます」
自信なさげに言ったが、心の中では決意していた。社畜時代の経験を活かして、この異世界でも生き残ってみせる。
白凌は薄く笑った。「興味深い。明日また見に来よう」
彼が立ち去ると、私はため息をついた。
「また上司と先輩に囲まれる日々が始まるのね……」
部屋を出て、廊下を歩いていると、月明かりに照らされた庭が目に入った。美しい池の周りに、見たこともない花が咲いている。
「きれい……」
「そうだろう?」
突然の声に驚いて振り向くと、昨日会った皇太子・瑞珂が立っていた。月光に照らされた彼の姿は、まるで絵画のように美しい。
「殿下!」
慌てて礼をする。瑞珂は軽く手を上げて制した。
「構わない。夜の散歩が好きでね」
「お忙しいのに?」
「政務に追われる日々だ。だからこそ、静かな時間が必要なのだ」
彼の言葉に、どこか共感を覚える。私も残業続きの日々に、たまの休憩を大切にしていた。
「勇姫、初日はどうだった?」
「はい、とても……充実していました」
言いかけた「大変」という言葉を飲み込む。愚痴を言うべき相手ではない。
「そうか」瑞珂は静かに微笑んだ。「明日からもそうであることを祈る」
「ありがとうございます」
彼は再び歩き始めた。数歩行ったところで振り返り、言った。
「勇姫、おまえには何か特別なものを感じる。期待しているぞ」
そして、闇の中に消えていった。
「特別?」
首を傾げながら清風院に戻る途中、私は自分の状況を整理していた。
『転生して書記女官になった。仕事は山積み。期限は明後日。しかも皇太子が何か期待している……』
部屋に着くと、小桃が待っていた。
「勇姫さま!大丈夫ですか?初日からとても遅いです!」
「ごめんね、心配させて。仕事が少し長引いちゃって」
「お食事、取っておきましたよ!」
小桃が指さした先には、簡素だが暖かそうな夕食が置かれていた。
「ありがとう、助かるわ」
食事をしながら、今日の出来事を小桃に話した。もちろん、転生の事実は伏せて。
「霜蘭さまは厳しいですけど、とても優秀な方なんですよ!」
「白凌さんはどんな人?」
「宦官長です!皇太子様の側近で、とっても頭がよくて、でも……」小桃は声を潜めた。「ちょっと怖いです」
「瑞珂殿下は?」
「殿下は優しいけど、少し世間知らず。でも皆から慕われています」
話を終えると、疲れが一気に押し寄せてきた。
「明日も早いから、もう寝るね」
「はい!おやすみなさい、勇姫さま!」
小桃が去った後、寝台に横たわり、天井を見つめる。
「表計算脳だけが頼りね……」
頭の中で再び表が浮かび上がる。色分けされたセル、並び替えられた数値、計算式……
「これが私の異世界チートスキル?」
苦笑しながら、私は明日への決意を胸に眠りについた。