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第3話

「勇姫さま!もう朝ですよ!」


目を開けると、小桃の丸い顔がすぐそこにあった。昨日と同じように早起こしである。


「う、うん...起きるわ」


体を起こして伸びをしながら、フラッシュバックのように昨日の記憶が蘇る。転生、書記女官、そして山積みの仕事。


「今日も頑張ってくださいね!」


小桃が朝食の茶碗を差し出してくれた。中には白いかゆと、小さな漬物。質素だが腹にたまりそうだ。


「これが毎日の朝食なの?」


「はい!女官の朝食は粥と漬物です。でも、上級女官じょうきゅうにょかんになると果物も出るんですよ」


なるほど、ここにも階級制度かいきゅうせいどが。日本の会社と変わらないわね、と苦笑する。


「小桃さんは毎日こうして起こしに来てくれるの?」


「そうですよ!あたし、勇姫さまの担当内務女官ですから!」


「担当って...秘書みたいなもの?」


「秘書?」小桃が首を傾げる。「よくわかりませんが、身の回りのお世話をする係です!」


着替えを終え、尚書房へと向かう。今日は何としても月次報告書の整理を進めなければ。


***


「おはようございます」


尚書房に入ると、すでに数名の女官が仕事を始めていた。霜蘭の姿もある。


「勇姫、昨日の続きだ。今日中に草案を見せてくれ」


そう言って霜蘭は自分の仕事に戻った。彼女の机上には、私のとは比べものにならないほど多くの書類が積まれている。


『あの人も大変そうね』


自分の机に向かい、昨日整理した書類を広げる。今日は実際に集計表を作らなければならない。でも紙の上でどう整理すれば...


「よし、ここは頭の中でスプレッドシートを作るしかない」


目を閉じ、深呼吸。スプレッドシートというか、スプシで考えよう。


すると不思議なことが起きた。


閉じた目の裏に、まるで本物のスプレッドシートが浮かび上がったのだ。セルの区切り線、列のヘッダー、数式を入力できる場所まで。


『これは...幻覚?それとも転生特典?』


恐る恐る、頭の中でセルをクリックし、タイトルを入力してみる。


月次報告集計表げつじほうこくしゅうけいひょう


びっくりするほど鮮明だ。いま、確かに頭の中でセルに文字が入った。ずっと使っていた表計算ソフトと同じように操作できる。


「これは...使えるかも!」


早速、頭の中のスプシに情報を入力していく。


「まず部署名を縦軸に...内務部・医務部・庶務部、書記部...」


「月日を横軸に...1日から30日まで...」


「各項目は...人員数、消耗品使用量、特記事項...」


頭の中だけで表が完成していく。途中で複数の表を参照しながら、クロス集計も実行。前世の経験が存分に活きる瞬間だ。


「勇姫、調子はどうだ?」


霜蘭の声にはっとして目を開ける。彼女は私の机の前に立っていた。


「あ、はい...整理の途中です」


「ずいぶん集中していたな。目を閉じて黙想でもしていたのか?」


「いえ、頭の中で整理していただけです」


霜蘭は怪訝な顔をしたが、それ以上は問わなかった。


「午後には中間報告を頼む」


彼女が去ると、再び目を閉じて脳内スプシに没頭した。


この不思議な能力のおかげで、次々と書類を整理していく。普通なら日単位で進む作業が、時間単位で片付いていく。


「これを紙に起こせばいいんだけど...」


目の前に白紙と筆がある。しかし、頭の中の表をそのまま再現するのは難しい。


「そうだ、要約版を作ればいいんだ」


頭の中でピボットテーブルへんかんひょうを作り、重要なデータだけを抽出。その結果だけを紙に書き出す。


お昼になる頃には、主要な集計が終わっていた。


「ふう、これでかなり見通しがついたわ」


「勇姫、もう昼食だぞ」


同僚の女官が声をかけてくれた。彼女の名は翠葉すいよう、年齢は私より少し若そうだ。


「ありがとう、翠葉さん。でも、もう少し集計を...」


「ダメよ。初日から倒れたら、前任者と同じになるわ」


そう言われて、ようやく席を立つ。脳内作業は精神的に疲れる。実際、額に汗をかいていた。


「あなた、すごく真剣な顔して仕事してたわね」翠葉が笑う。「でも、この仕事、無理しても終わらないわよ」


「でも、明日までに...」


「霜蘭様はいつも新人に無理な仕事を振るの。あなたが頑張りすぎると、次も無茶振りされるわよ」


なるほど、前世の会社と同じ構図だ。一度頑張ると、それが当たり前になってしまう。


「それに、午後には紫煙閣しえんかくからの追加依頼も来るはずだから」


「紫煙閣?」


「上級妃たちの住まい。毎月この時期は追加の物品請求が来るの」


心の中でため息をつく。追加の仕事か...


昼食は女官たちが集まる食堂でとった。大きな部屋に長いテーブルが並び、女官たちが身分ごとに座っている。書記女官のテーブルは窓際の良い場所だった。


「勇姫様、お噂はかねがね」


隣に座った年配の女官が声をかけてきた。


「昨日の試験で記録係の適性を見抜かれたそうですね」


「いえ、たまたま...」


勇姫ゆうきという名前も、皇太子様が直々につけられたと?」


「え?そんな噂まで?」


どうやら宮中の噂話は早い。社内の噂話と同じだ。


「あの、お名前は?」


玲花れいかと申します。書記室統括補佐です」


「統括補佐?霜蘭さんの上司ですか?」


「いいえ、平行ですわ。霜蘭様は月次担当、私は日次担当。あの方は皇太子様直属ですが、私は宮務総監の下です」


なるほど、部署も複雑に分かれているのか。まるで大企業の組織図のようだ。


「玲花様、この月次報告書のフォーマットって、前からこの形式なんですか?」


「ええ、百年以上続く様式です。先代の先代から変わっていないと聞きます」


「とても...非効率に見えるのですが」


玲花は小さく笑った。


「勇姫様、宮中で"効率"を求めるのは難しいことです。伝統と体面が最優先されますから」


その言葉に心当たりがあった。前世の会社も、無駄な慣習が多かった。


「でも、もっとシンプルな形にすれば、みんな楽になると思うんです」


「そうですかね」玲花は懐疑的な表情を浮かべた。「試してみるのもいいでしょう。ただ、上からの反発は覚悟してくださいね」


昼食を終え、尚書房に戻ると、案の定、新たな書類の山が机に積まれていた。


「これが紫煙閣からの追加依頼?」


「そうだ」霜蘭が答える。「全て月次報告に含めなければならない」


「でも、すでに計算は...」


「再計算だ」霜蘭の口調は冷たい。「宮中で最も大切なのは正確さだ。抜け漏れは許されない」


「わかりました」


再び席に着き、脳内スプシを開く。今度は追加データを組み込む列を作り、計算式も更新。


「これで...あれ?」


不思議なことに、脳内スプシは前の状態を完全に記憶していた。まるで本物のファイルのように、閉じても開けば続きから編集できる。


「これはかなり便利...!」


午後も作業は続く。脳内スプシを駆使して集計を進める一方、重要な数値だけを紙に書き写していく。


「勇姫、その紙は何だ?」


突然、背後から声がした。振り返ると、白凌が立っていた。


「白凌様!これは...月次報告の集計表です」


彼は私の紙を覗き込む。そこには部門横断の数値が整然と並んでいた。


「面白い書き方だな。通常の様式とは違うが...」


「まだ下書きです。正式な報告書は正しい様式で作ります」


「ふむ...」白凌は興味深そうに紙を見ていた。「だが、この形式の方が一目で全体が把握できるな」


少し驚いた。本来の様式に固執しない人もいるのだ。


「私も、情報は整理された方が理解しやすいと思って...」


「整理された情報は力になる」白凌はうなずいた。「皇太子殿下も、そのようなものをお求めだ」


彼は去り際に言い添えた。


「勇姫、明日の提出はうまくいきそうか?」


「はい、なんとか間に合いそうです」


「それは楽しみだ」


彼が去った後、私は急いで作業に戻った。しかし、頭の中ではもう別のことを考えていた。


『この脳内スプシの能力...もっと活用できるはず』


文書だけでなく、宮中の業務フロー全体を効率化できないだろうか。誰がいつ何の書類を書き、誰に提出し、誰が承認するのか...それを整理すれば。


「あっ!」


思わず声が出た。周囲の女官たちがちらりと見る。


『脳内スプシに業務フロー図を作れるかも...』


目を閉じて集中すると、スプシだけでなく、フローチャートやガントチャートも作れることに気づいた。まるで統合された業務管理ぎょうむかんりソフトのように。


「これで業務の全体像が見えるわ...」


宮中の業務体系を脳内でモデル化していく。書記部門、内務部門、医務部門...各部署の関係性、文書の流れ、承認手順。これまで断片的にしか把握できなかった情報が、一つの図として可視化された。


「おや、勇姫、まだ仕事をしているのか」


ハッとして目を開けると、霜蘭が立っていた。外はすでに日が傾いていた。


「はい...集計がほぼ終わりました」


「本当か?」彼女は驚いた様子で私の机に近づいた。「見せてくれ」


脳内スプシから抽出した数値表を渡す。霜蘭はじっくりと目を通していった。


「これは...かなり綺麗にまとまっているな」


「ありがとうございます」


「どうやってこれだけの量を一日で...?」霜蘭の目に疑念が浮かぶ。


「頭の中で整理してから書き出したんです」


「頭の中で?」霜蘭は半信半疑だった。「普通、こういう集計は何日もかかるぞ」


「前職でも似たような仕事をしていたので...」


霜蘭はさらに数値を確認していく。


「だが、これでは本来の様式になっていない。明日までに正式な形式で清書できるか?」


「はい、できます」


「そうか...」彼女は小さくため息をついた。「ならば、明日の午前中には見せてくれ。問題がなければ、午後に皇太子殿下へ提出となる」


「わかりました」


霜蘭は去り際に振り返った。


「勇姫、おまえは...異能いのうを持っているのか?」


「異能?」


「この宮中には、特別な力を持つ者がわずかにいる。占いに長けた者、薬草の知識を持つ者...そして、記録の才に恵まれた者も」


「いいえ、ただの努力家です」


半分は嘘、半分は本当。この脳内スプシが異能かどうかは自分でもわからない。


霜蘭は納得していないようだったが、それ以上は追求せず立ち去った。


部屋には私一人になった。疲れはあったが、達成感もあった。


「明日の午前中に清書して、午後には提出...」


もう一度脳内スプシを開き、正式様式の雛形を作成。明日はこれを基に清書するだけだ。


「よし、これで今日は終わり」


尚書房を出ると、外はすっかり暗くなっていた。月明かりだけが廊下を照らしている。


「勇姫さま!」


遠くから駆けてくる小さな影。小桃だ。


「こんな遅くまで仕事してたんですか?心配しましたよ!」


「ごめんね、でも仕事がかなり進んだわ」


「すごいです!」小桃は目を丸くした。「前任の方は毎日泣いてましたよ」


「泣くほどじゃないけど...大変な仕事ではあるわね」


清風院に戻りながら、小桃にスプシのことは言わず、仕事の話をした。


「明日、皇太子様に報告書を提出することになってるの」


「えっ!?」小桃が驚いて立ち止まる。「皇太子様の前に出るんですか?」


「そうみたい。緊張するわ」


「うわぁ...勇姫さまって、本当にすごいです」


部屋に着くと、またしても小桃が食事を用意してくれていた。


「今日は特別に肉饅頭にくまんじゅうも用意しました!」


「どうやって?」


「台所のばあさんに頼んだんです。勇姫さまが頑張ってるって言ったら、特別にくれました!」


心温まる気遣い。思わず目頭が熱くなる。


「ありがとう、小桃」


食事を終え、小桃が去った後、私は寝台に横たわった。天井を見つめながら、今日の発見を整理する。


「脳内スプシか...これが私の異世界チートというわけね」


でも、ただデータを整理するだけでは、本当の改革はできない。


「このスキルを使って、後宮の仕事を効率化できないかしら...」


さまざまなアイデアが浮かんでくる。文書のテンプレート化、業務の標準化、承認プロセスの簡略化...


「社畜時代の経験が、こんなところで役に立つなんて」


皮肉な笑みを浮かべながら、私は眠りについた。明日は大きな節目になるだろう。

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