皇太子への月次報告書提出が終わって三日。
「勇姫、この食糧調達記録を整理してくれ」
霜蘭が私の机に新たな書類の束を置いた。その量は、前世のインド料理屋のメニュー表並みに分厚い。
「はい、わかりました」
やれやれと思いながらも、表情には出さない。ここに来て三日目にして、この職場にも上司のご機嫌を損ねてはいけないという鉄則があることを学んだ。
「食糧調達記録ですか。前にも似たような書類を見た気が...」
書類の束を手に取り、ぱらぱらとめくる。すると、昨日整理した
「あれ?」
もう一度確認する。間違いない。厨房記録にあった食材の個数と、この調達記録の数字が重複している。
私は脳内スプシを開き、両方のデータを並べてみた。
『米...100斤...同じ』
『豚肉...30斤...同じ』
『青菜...50把...同じ』
すべての項目が完全に一致している。
「霜蘭さん、すみません」
作業中の霜蘭に声をかける。彼女は筆を置き、冷静な目で私を見た。
「何だ?」
「この調達記録と、昨日整理した厨房記録、内容が同じなのですが...」
霜蘭はわずかに眉を寄せた。
「当然だ。厨房が受け取った食材と、調達部が発注した食材は同じものだからな」
「でも、それなら二度手間じゃないですか?同じデータを別々の帳簿で管理するなんて」
霜蘭の表情が変わった。驚きと警戒が入り混じっている。
「二度手間...?」彼女は言葉を反芻するように繰り返した。「これは宮中の伝統的な記録方法だ。調達部は発注記録を、厨房は受領記録を、それぞれ管理する」
「でも、同じ内容なら一つの帳簿にまとめて、調達と受領のチェック欄を作れば...」
「まとめるだとぉ?」
いつも冷静な霜蘭が声を荒げた。周囲の女官たちが一斉にこちらを見る。
「百年続く記録方法を、たった三日目の新人が変えようというのか?」
緊張が走る。だが、社畜時代に鍛えられた私のメンタルは簡単には折れない。
「伝統は大切です。でも効率も大切じゃないでしょうか」
霜蘭は深く息を吸い、そして吐いた。
「勇姫、ついてこい」
彼女は立ち上がり、部屋の隅にある小さな室へと向かった。私は不安を抱えながらも彼女に従う。
小部屋に入ると、霜蘭は扉を閉め、私をじっと見つめた。
「勇姫、おまえは確かに優秀だ。月次報告を一日で仕上げた手腕は認める」
「ありがとうございます」
「だが、」彼女は声を潜めた。「宮中の伝統に触れることは危険だ。特に記録の方法は、先代から受け継がれた
「でも、もっと効率的な方法があれば...」
「効率?」霜蘭は皮肉っぽく笑った。「宮中に効率を求めるのは、砂漠に雨を求めるようなものだ」
私はためらったが、言葉を続けた。
「霜蘭さん、あなたも毎日遅くまで残って仕事していますよね?もし業務を効率化できれば、みんな早く帰れるんです」
霜蘭の目に、一瞬、何かが浮かんだ。懐かしさ、それとも憧れだろうか。
「早く帰る...か」
「はい。無駄な書類を減らせば、皆さんの負担も減ります」
霜蘭は長い間黙っていた。ついに彼女は小さく頷いた。
「わかった。試しに、食糧記録の整理方法を変えてみるがいい。だが、」彼女は警告するように指を立てた。「正式な記録は今まで通り二つ作成すること。おまえの方法は、内部用の参考資料としてだ」
「ありがとうございます!」
霜蘭は扉に手をかけながら振り返った。
「本来改革がしたかったら、まずは出世してからにしろ。それと...この話は他言無用だ。特に
「わかりました」
小部屋を出ると、周囲の女官たちが好奇心いっぱいの目で見ていた。私は何事もなかったように自分の席に戻り、作業を再開した。
◆◆◆
次の日、私は新しい記録方式の
「これが私が考えた統合版です」
霜蘭に渡したのは、一枚の紙。そこには脳内スプシで作成した表が美しく描かれていた。
縦軸には日付、横軸には食材の種類。そして各マスには発注量と受領量の両方が記入できる仕組みだ。さらに右端には差異を記入する欄も設けた。
「なるほど...」霜蘭は真剣な表情で紙を見つめた。「これなら、発注と受領の差異がすぐにわかるな」
「はい。もし食材が足りなかったり、紛失したりしても、すぐに気づけます」
霜蘭はしばらく沈黙し、紙をじっくりと見つめていた。
「これを作るのに、どれくらいかかった?」
「一時間ほどです」
「一時間?」霜蘭は驚いた声を上げた。「通常、新しい記録様式を作るには数日かかるぞ」
「頭の中でイメージしてから書いたので...」
「またしても頭の中か」霜蘭は怪訝な表情を浮かべた。「おまえの頭の中は、いったいどうなっているんだ?」
「普通ですよ」と笑顔で答える。「ただ、表を思い浮かべるのが得意なだけです」
「ふむ...」霜蘭はまだ疑念を抱いているようだったが、それ以上は追求しなかった。「では、これを使ってみよう。一週間試して、効果を確かめる。昨日も伝えたが、改革がしたかったら、出世しろ。」
「ありがとうございます!」
その日から、食糧記録は私の統合版を使って管理することになった。もちろん、公式な記録は従来通り二種類作られるが、実務上は私の表が使われる。
三日後、思わぬ効果が表れた。
「勇姫、ちょっと来てくれ」
霜蘭に呼ばれ、彼女の机に向かう。そこには私の統合版食糧記録表があった。
「この表のおかげで、面白いことが発見できた」
彼女が指さした箇所を見ると、発注量と受領量に差異がある項目がいくつかあった。
「
「本当だ...」私も驚いて見つめる。「これって...」
「横流しか、盗難か」霜蘭の声は冷ややかだった。「この問題は以前から噂されていたが、証拠がなかった」
「でも、この表があれば明確に...」
「そうだ」霜蘭はうなずいた。「これで調達部と厨房の両方に説明を求められる」
彼女の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「勇姫、おまえの"効率化"は、思わぬ効果をもたらしたな」
「はい...」私も嬉しくなった。「これからも、改善できる部分を見つけていきたいです」
「ただし、」霜蘭は注意深く言葉を選んだ。「あまり大きな波は立てるな。宮中には様々な
「わかっています」
「この茶葉の件も、私から
霜蘭はさらに声を潜めた。
「それと、この表のことは、おまえが作ったとは言わないでおく」
「それは構いませんが、どうしてですか?」
「おまえの身を守るためだ」霜蘭の目は真剣だった。「新人が古い慣習を変え、誰かの不正を暴いたとなれば、敵を作る」
なるほど、宮廷政治の怖さだ。前世の会社の派閥争いとは比べものにならない。
「でも、誰が作ったことにするんですか?」
「私だ」霜蘭はきっぱりと言った。「副責任者の特権で試験的に導入したということにする」
「霜蘭さん...」
「礼を言うな」彼女は手を振った。「私も楽になるなら、悪い話ではない」
その夕方、私が仕事を終えて帰ろうとしていると、普段より早く仕事を切り上げた霜蘭が声をかけてきた。
「今日は一緒に帰らないか?」
「え?はい、喜んで」
尚書房を出て、美しい夕焼けに染まる回廊を二人で歩く。
「勇姫、実を言うと私も以前は業務の効率化に興味があった」
「本当ですか?」
霜蘭はうなずいた。「五年前、私が新人だった頃、先代の責任者に改善案を出したことがある」
「それで?」
「一蹴された」彼女の声は少し苦い。「改革を望む者は、必ず抵抗にあう」
「でも、あなたは私の案を聞いてくれました」
霜蘭は遠くを見つめた。
「民間出身の私は、宮中の古い慣習に疑問を持っていた。だが、年月が経つにつれ...」
「慣れてしまったんですね」
「そうだ」彼女は素直に認めた。「人は環境に適応する生き物だ。抵抗し続けるのは疲れる」
分かる気がした。前世の会社でも、最初は改革しようと意気込んでいたのに、徐々に諦めていった自分がいた。
「でも、諦めなくていいんですよ」
「ほう?」
「小さな改善を積み重ねれば、大きな変化になります」
「小さな...改善...」霜蘭は言葉を反芻した。
「はい。一度にすべてを変えようとしないで、少しずつ。誰かが気づいたときには、すでに当たり前になっている...そんな改革です」
霜蘭は思わず笑みを浮かべた。
「おまえは面白い女だな、勇姫」
「ありがとうございます」
「だが、油断するな」彼女の表情が引き締まる。「茶葉の横流しに関わっていた者たちが、すでに動き始めている」
「え?」
「表が作られた翌日から、尚書房を監視する者がいる。気づいていないか?」
確かに、ここ二日ほど、見慣れない宦官や女官が頻繁に出入りしていた。書類を届けるふりをして、私たちの様子を窺っているような...
「少し気づきましたが...」
「宮中では、情報は命より重い」霜蘭は真剣な表情で言った。「これからは私の指示に従え。表向きは従来通りの仕事をしながら、内部で少しずつ改革を進める」
「はい!」
その夜、清風院に戻ると、珍しく小桃がいなかった。代わりに一枚の紙が置かれていた。
『勇姫様へ
白凌様から呼び出しがありました。明朝、早めに尚書房へお越しください。
小桃』
何だろう?茶葉の件だろうか。それとも...
寝台に横になりながら、脳内スプシを開く。今日の出来事を整理し、明日に備える。
「小さな改善が大きな変化に...」
霜蘭の言葉を思い出す。宮中を変えるには、地道な努力が必要だ。でも、私にはスプシという武器がある。
「明日も頑張ろう」
そう呟きながら、私は目を閉じた。
◆◆◆
翌朝、尚書房に向かうと、白凌が待っていた。彼の横には、いつもと違う堂々とした雰囲気の霜蘭の姿もある。
「おはようございます」
「勇姫、座れ」白凌が椅子を指した。
二人の真剣な表情に、緊張が走る。
「何かありましたか?」
「茶葉の横流しについて、皇太子殿下にご報告した」白凌が静かに言った。「そして、その発見のきっかけとなった新しい記録方式についても」
「あ...」
目で霜蘭を見るが、彼女は微動だにしない。
「皇太子殿下は、大変興味を持たれた」白凌の声に、わずかに温かみが混じる。「特に、記録の効率化という発想に」
「それで、殿下からの命令だ」霜蘭が言葉を継いだ。「この食糧記録の方式を、他の記録にも応用せよとのこと」
「え?」
「つまり、勇姫」白凌が言った。「おまえの考案した方法が、正式に採用されたのだ」
一瞬、言葉が出なかった。
「でも、伝統的な...」
「心配するな」霜蘭が微笑んだ。「従来の記録方法も並行して続ける。だが、内部管理は新方式で行う」
「そして、この新方式の責任者として...」白凌が言葉を続けた。「勇姫、おまえを指名する」
「え?私ですか?」
「霜蘭が推薦した」白凌は霜蘭を見た。「彼女自身が責任者になることもできたが、おまえを選んだ」
霜蘭がうなずいた。
「私よりもおまえの方が適任だ。この方式を考えたのは、おまえだからな」
私は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとうございます...本当に」
「感謝するのはまだ早い」白凌が冷静に言った。「これからが本当の挑戦だ。宮中の根深い慣習と戦うことになる」
「でも、皇太子殿下がご支持くださるなら...」
「それでも反発はある」霜蘭が言った。「年配の女官たちや、利権を持つ者たちはな」
「だが、恐れることはない」白凌が続けた。「われわれがついている」
その言葉に、心強さを感じた。
「頑張ります!」
その日から、私の改革は公式なものとなった。もちろん、表向きは「霜蘭考案の新方式」という名目だが、実質的には私が中心となって進めることになった。
最初の一週間で、食糧記録以外にも、衣料調達、灯油配給、宿直管理など、様々な記録方式を統合版に改めていった。
そして驚くべきことに、作業時間は大幅に短縮された。
「信じられないわ...」翠葉が驚きの声を上げた。「今までなら一日かかっていた照合作業が、半時間で終わったよ」
「本当に便利だな」他の女官も口々に言う。「これなら残業せずに済む」
私は内心喜びながらも、冷静さを保った。まだ始まったばかりだ。抵抗も徐々に現れ始めていた。
「あの新方式は複雑すぎる」年配の女官がぼやく声が聞こえる。「昔ながらのやり方の方が安心だ」
「霜蘭様も若いからこそ、無謀な改革に走るのだ」別の女官が噂話をしていた。
だが、一方で実感できる効果もあった。
「勇姫、見てみろ」
ある日、霜蘭が私を呼んだ。彼女の手元には、最近の退勤時間を記録した表があった。
「統合方式を導入してから、女官たちの平均退勤時間が早くなっている」
「本当ですね!」
「これが目に見える効果だ」霜蘭は満足げだった。「年配女官たちも、徐々に認めざるを得なくなるだろう」
白凌も時折、様子を見に来ては頷いていく。
「勇姫、殿下もおまえの功績を認めている」ある日、彼はそっと教えてくれた。「もうすぐ、直接褒めの言葉があるだろう」
嬉しさで胸がいっぱいになる。前世では、どれだけ頑張っても上司の評価はいつも「普通」だった。ここでは、努力が認められる。
そして、一ヶ月が過ぎた頃──
「勇姫、急ぎの呼び出しだ」
霜蘭が息を切らして尚書房に駆け込んできた。
「皇太子殿下が、すぐに
「え?今ですか?」
「そうだ、急げ!」
心臓が高鳴る。これが白凌の言っていた「褒めの言葉」の時だろうか。
私は急いで身支度を整え、霜蘭に導かれて皇太子の居室へと向かった。
「勇姫」霜蘭が扉の前で立ち止まった。「おまえの改革は、宮中に大きな変化をもたらし始めている。恐れず、堂々としていなさい」
「はい...」
扉が開き、中へと通された。
豪華な調度品に囲まれた部屋の中央に、瑞珂が座っていた。彼の周りには何人かの宦官と、見覚えのない数名の文官たち。
「
深々と頭を下げる。
「抬頭せよ」瑞珂の声は澄んでいた。「勇姫、おまえの功績について聞いた」
「恐れ多くも...」
「一月前に始まった記録方式の改革」瑞珂は続けた。「女官たちの負担を大幅に減らし、不正の発見にも役立った」
「はい...」
「さらに興味深いのは、」瑞珂は少し身を乗り出した。「他の部署からも、同様の方式を採用したいという申し出が来ていることだ」
「他の部署からも?」
「そうだ」瑞珂はうなずいた。「医務室や内務房も、おまえたちの効率的な記録方法に興味を持っている」
これは予想外の展開だった。私の改革が、尚書房を超えて広がりつつあるのだ。
「勇姫」瑞珂が宣言するように言った。「そなたに特別な任務を与える」
「は...はい」
「宮中記録全体の改革を進めよ。霜蘭を補佐官とし、白凌が監督する」
「宮中記録全体...ですか?」
「そうだ」瑞珂の口元に笑みが浮かぶ。「そなたの"小さな改善"が、もはや止められない大きな流れとなっている」
私は思わず霜蘭の言葉を思い出した。「小さな改善が大きな変化に...」
「恐れ多くも、その任を賜りました」
深々と頭を下げる私に、瑞珂は最後にこう言った。
「勇姫、宮中では新しい風を吹かせるのは難しい。だが、そなたはそれをやってのけた。期待しているぞ」
尚書房に戻ると、霜蘭と女官たちが待っていた。
「どうだった?」
「宮中記録全体の改革を任されました...」
歓声が上がった。
「やったわね!」
「勇姫様、すごいです!」
「これで私たちも楽になるわ!」
驚いたことに、年配の女官たちも笑顔だった。
「私も若い頃は、改革を夢見たものよ」年配の女官が言った。「あなたが実現してくれるなんて...」
「みんなのおかげです」私は心から言った。「特に霜蘭さん、支えてくれてありがとうございます」
霜蘭は珍しく照れた様子で首を振った。
「私は道を開いただけだ。走り出したのはおまえだ」
その夜、清風院に戻ると、小桃が飛びついてきた。
「勇姫さま!噂を聞きましたよ!皇太子様から直々のお褒めの言葉だって!」
「うん、なんだか夢みたいだよ」
「でも当然です!勇姫さまの表はすごいんですもの!」
小桃は目を輝かせた。
「あたしも使わせてもらってるんですよ。内務女官の掃除当番表も、勇姫さまの方式で作り直しました!」
「え?小桃も?」
「はい!これなら誰がどこを掃除したか一目でわかるし、重複も防げます!」
なんと、私のスプシ方式は、すでに小桃たち内務女官の間にも広がっていたのだ。
「小桃...ありがとう」
「何がですか?」
「私の方式を広めてくれて」
「だって便利なんですもの!」小桃は無邪気に笑った。「宮中のみんな、時間に追われてるんです。少しでも早く仕事が終われば、その分自分の時間が増えますから」
確かにその通りだ。効率化は、単に業務の速度を上げるだけでなく、人々の生活の質を高める。
「そうだね。これからも頑張るよ」
寝台に横になり、天井を見つめる。
「スプシが人を救う...か」