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第7話

皇太子の執務室整理が始まって一週間が経った。私──勇姫ゆうきは、昼は尚書房での業務改革、夕方は瑞珂の執務室整理という二重生活を送っていた。


「ふぅ...」


早朝の尚書房で、昨夜考えた人員配置案を清書していると、後ろから声がかかった。


「随分と熱心だな、勇姫」


振り返ると、そこには霜蘭が立っていた。彼女の鋭い眼差しが、私の書いていた書類に向けられている。


「おはようございます、霜蘭さん」


「おはよう」彼女は静かに頷いた。「最近、夕方になると姿が見えないと思ったら...特別な任務に就いているそうだな」


その言葉に、一瞬身構えた。瑞珂との作業は秘密のはずだが...


「特別な...任務ですか?」


「白凌から聞いた」霜蘭は淡々と言った。「皇太子殿下の個人的な依頼で、執務室の整理をしているそうだな」


「あ...はい」隠すことはできないと判断し、素直に認めた。「殿下の文書管理を手伝っています」


霜蘭は少し表情を緩めた。


「勇姫、気をつけなさい」


「え?」


「宮中での"特別"な関係は、諸刃の剣だ」霜蘭の声は穏やかだが、言葉には重みがあった。「味方も増えるが、敵も増える」


「敵...ですか?」


「皇太子に近づきすぎれば、嫉妬する者も現れる」彼女は窓の外を見ながら続けた。「特に、皇太子の側室候補たちは」


そうか、瑞珂には後宮の女性たちがいるのか。当然と言えば当然だが、なぜか胸がチクリと痛んだ。


「私はただ仕事を手伝っているだけです」弁解するように言った。「それ以上でも以下でもありません」


「そう言うだろうな」霜蘭は小さく笑った。「だが、周囲はそうは見ない」


「どういう意味ですか?」


「噂は既に広まっている」霜蘭の表情が真剣になった。「皇太子の"お気に入り"の女官が現れたと」


「え!?そんな...!」思わず声が上ずる。「違います!私はただの...」


「わかっている」霜蘭は手を上げて私を制した。「私はそなたを知っている。だが、知らない者たちは憶測で物事を判断する」


確かに前世でも、上司と頻繁に会議をしていただけで、「社長のお気に入り」と陰口を叩かれたことがあった。


「どうすれば...」


「身を守る方法は二つ」霜蘭は指を立てた。「一つは、目立たないこと。もう一つは、強力な味方を作ること」


「私の場合、もう目立ってしまっていますよね...」苦笑する。


「そうだな」霜蘭も少し笑った。「ならば後者だ。私や白凌は既にそなたの味方だが、それだけでは足りない」


「他に誰かいますか?」


女官長にょかんちょうの心証を良くしておくこと」霜蘭はきっぱりと言った。「彼女が味方になれば、多くの女官たちも従う」


「なるほど...」


「あと一つ、助言を」霜蘭は私の目をまっすぐ見た。「皇太子殿下に対しては、常に敬意を忘れるな。馴れ馴れしくなりすぎると、身を滅ぼす」


その言葉に、思わず顔が熱くなった。最近、瑞珂との会話が少しずつ打ち解けてきていたことを思い出す。


「気をつけます」


「よし」霜蘭は満足そうに頷いた。「私は敵ではない。そなたの才能は認めている。だからこそ助言するのだ」


「ありがとうございます」心から感謝した。


霜蘭は去り際に、もう一言付け加えた。


「それと、今日の午後、白凌があなたに会いたがっている。彼の部屋へ行くように」


「白凌さんが?」


「理由は言っていなかったが...おそらく皇太子に関することだろう」


そう言って霜蘭は去っていった。残された私は、複雑な思いで資料を見つめる。


「敵が増える...か」


前世でも仕事ができると妬まれたことはあったが、ここではもっと深刻なようだ。宮中の権力争いは命に関わることもある、と小桃から聞いたことがあった。


「もっと気をつけないと...」


◆◆◆


午後、白凌の部屋を訪ねた。彼の部屋は尚書房の近くにある小さな執務室だった。


「失礼します」扉をノックする。


「入りなさい」静かな声が返ってきた。


中に入ると、驚くほど整然とした空間が広がっていた。すべての物が完璧に配置され、一片の乱れもない。まるで脳内スプシを現実にしたような整理整頓だ。


「勇姫、来てくれたか」白凌は机から顔を上げた。


「お呼びとのことで」


「座りなさい」彼は向かいの椅子を指さした。


椅子に座ると、白凌は一瞬私を観察してから、静かに話し始めた。


「皇太子殿下の執務室整理、進捗はどうかね?」


「はい、だいぶ整理できました」答える。「書類を種類別、緊急度別に分類し、処理の流れも確立しました」


「ほう」白凌は少し驚いたように見えた。「たった一週間でそこまで...」


「基本的な仕組みができれば、あとは維持するだけですから」


「そうか...」白凌はしばらく沈黙した後、突然話題を変えた。「勇姫、そなたは殿下をどう思う?」


予想外の質問に、一瞬言葉に詰まる。


「どう、とは...?」


「率直な印象を聞きたい」白凌の目は穏やかだが、何かを探るような鋭さがあった。


「殿下は...」言葉を選びながら。「とても誠実な方だと思います。宮中の改革を真剣に考えられていて...」


「そう」白凌は静かに頷いた。「殿下は生まれながらの改革者だ。先代の皇太子とは違う」


「先代の...?」


「殿下の兄だ」白凌の表情が少し暗くなった。「三年前に亡くなった」


初めて聞く話だった。


「殿下には兄がいらしたんですね...」


「うむ」白凌は目を細めた。「賢く、強く、完璧な皇太子だった。だが...」


「だが?」


「民に愛されることはなかった」


白凌の言葉に、重みを感じた。


「なぜですか?」


「彼は冷徹だった」白凌は遠い目をして言った。「効率と秩序を重んじるあまり、人の心を置き去りにした」


それはまるで、前世の私の会社の社長のようだ。数字だけを追い求め、社員を消耗品のように扱う経営者。


「瑞珂様は違うんですね」


「そう、全く違う」白凌の声に温かみが混じる。「殿下は人の心を大切にする。だからこそ、改革の方法に悩んでおられる」


「効率と人の心を両立させたいと...」


「その通り」白凌が私をじっと見つめた。「そしてそれは、そなたの目指すところでもあるだろう?」


はっとした。確かに私は、単に効率化するだけでなく、女官たちの生活をより良くするための改革を考えていた。


「はい...そうです」


「だから殿下は、そなたに共感されているのだ」白凌は静かに言った。「そなたの中に、殿下の理想を見ておられる」


その言葉に、胸が熱くなった。


「私はただ...」


「謙遜は不要だ」白凌は微笑んだ。「勇姫、そなたの能力は特別だ。前世...いや、以前の経験から得た知恵なのか、それとも異能いのうなのかは知らないが」


「!」思わず息を呑む。白凌は私の転生に気づいているのだろうか。


「驚く必要はない」白凌は手を振った。「私は詮索しない。重要なのは、そなたの力が宮中のためになるということだ」


少し安心する。


「ところで、なぜこのような話を?」


「警告するためだ」白凌の表情が引き締まった。「殿下の力になればなるほど、そなたは危険にさらされる」


「霜蘭さんも同じことを...」


「霜蘭も言ったか」白凌はうなずいた。「当然だ。彼女もこの宮中の仕組みをよく知っている」


「具体的に、どんな危険が?」


「まず、玄碧げんぺきに警戒せよ」


「玄碧...?」聞き覚えのない名前だ。


「正妃候補筆頭だ」白凌は冷静に説明した。「貴族の娘で、高い教養と美貌を持つ。そして何より、伝統を重んじる」


「つまり、改革に反対?」


「そうだ」白凌は言った。「彼女にとって、伝統こそが自らの価値。それを脅かす者は敵だ」


「でも私は単に仕事の方法を変えているだけで...」


「彼女の目には、それも伝統への挑戦に映る」白凌の声は冷静だが厳しかった。「特に、そなたが殿下に近づいていることが気に入らないだろう」


なるほど、霜蘭の言っていた「敵」の正体だ。


「どうすれば...」


「身を守る方法は二つ」白凌は霜蘭と同じことを言った。「目立たないか、強力な味方を作るか」


「霜蘭さんも全く同じことを...」思わず笑みがこぼれる。


「そうか」白凌も少し表情を緩めた。「彼女も心配しているのだな」


「強力な味方...女官長を味方にすべきだと霜蘭さんは」


「正しい」白凌はうなずいた。「しかし、それだけでは不十分だ」


「他には?」


「皇太子の側近の宦官かんがんたちを味方につけることだ」白凌は言った。「私を含め、彼らは殿下の耳に直接届く存在だ」


「でも、宦官の方々とどうやって...」


「心配するな」白凌は珍しく笑みを浮かべた。「私がそなたのことを伝えておこう。だが...」


「はい?」


「そのためには、私がそなたのことをもっと知る必要がある」


「私のこと...?」


白凌は椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。


「勇姫、そなたの"頭の中の表"について、もう少し詳しく教えてほしい」


緊張が走る。脳内スプシのことだ。転生の秘密に関わることを、どこまで話すべきだろうか。


「それは...」


「恐れることはない」白凌は優しい声で言った。「殿下のためになる情報なら、私は味方だ」


深呼吸し、できる限り正直に、しかし転生のことは言わずに説明することにした。


「私の頭の中では、情報が表のように整理されるんです。縦と横の軸があって、そこに様々なデータを配置できる」


「ほう...」白凌は興味深そうに聞いている。


「その表を使って、計算をしたり、関連性を見つけたり...」


「そなたは、その表を視覚的に"見て"いるのか?」


「はい、閉じた目の裏に浮かぶんです」


白凌は少し驚いたように目を見開いた。


「驚くべき能力だ...」


「でも、私だけの特別な能力というわけではなくて...」言い訳しようとする。


「いや」白凌は静かに首を振った。「それは確かに特別だ。だが、恐れることはない。むしろ、その力を自覚し、活かすべきだ」


「活かす...」


「勇姫」白凌は真剣な表情で言った。「そなたの能力は、宮中を変える力を持っている。そして、殿下はそれを必要としている」


その言葉に、使命感のようなものを感じた。


「分かりました」決意を込めて答える。「私にできることなら」


「ひとつ助言を」白凌は最後に言った。「人員最適化の案には、玄碧の侍女たちへの配慮も入れておくといい」


「どういうことですか?」


「彼女の力を削ぐのではなく、彼女も改革の恩恵を受けられることを示せば、敵対されにくくなる」


「なるほど...」


「何事も、直接的な対立は避けるべきだ」白凌は静かに言った。「宮中では、表立った勝利より、静かな浸透の方が効果的だ」


その言葉に、前世のオフィスポリティクスを思い出した。確かに、露骨に対立するより、相手も得をする形で改革を進める方が抵抗は少ない。


「ありがとうございます、白凌様」心から感謝した。「とても参考になります」


「そなたの成功は、殿下の成功でもある」白凌は静かに言った。「私はそれを願っているだけだ」


話を終え、白凌の部屋を出る時、彼が最後にこう言った。


「勇姫、もうひとつ。殿下との時間を大切にするように」


「え?」振り返る。


「殿下は、そなたとの会話を楽しんでおられる」白凌の口元に小さな笑みが浮かんだ。「それは殿下にとって、貴重な時間だ」


言葉に詰まり、ただ頷くしかなかった。


◆◆◆


夕方、瑞珂の執務室に向かう途中、霜蘭との会話、白凌との会話を思い返していた。


二人とも私を警戒しながらも、応援してくれている。そして二人とも、瑞珂と私の関係について何か感じているらしい。


「気のせいよね...」


自分に言い聞かせるように呟いた。皇太子と一介の女官。身分が違いすぎる。


執務室に着くと、瑞珂が窓際で何かを考え込んでいた。


「殿下、失礼します」


「ああ、勇姫」瑞珂が振り返り、柔らかな笑顔を見せた。「来てくれたか」


「今日も書類の整理を続けましょうか?」


「うむ...だが、その前に」瑞珂は少し間を置いた。「今日は白凌と会ったそうだな?」


「え?」驚いて目を見開く。「はい、午後に...」


「彼から報告を受けた」瑞珂は静かに言った。「そなたの能力について、より詳しく知ったと」


「あ...はい」


「勇姫」瑞珂が一歩近づいた。「そなたの"頭の中の表"...本当に不思議な才能だ」


「そんな大げさなものでは...」恥ずかしくなり、言葉を濁す。


「いや」瑞珂はきっぱりと言った。「それは貴重な才能だ。宮中にとっても、私にとっても」


瑞珂が「私にとっても」と言ったことに、心臓が早鐘を打つ。


「...それで」話題を変えようと急いで言った。「今日はどの書類から整理しましょうか?」


瑞珂は少し笑みを浮かべ、大きな箱を指さした。


「あれは過去五年分の会計記録だ。どうにか整理できないだろうか」


「五年分...ですか?」


「難しいだろうか?」瑞珂が心配そうに尋ねる。


「いえ、やってみます」


仕事に集中すれば、この奇妙な動悸も収まるだろう。私は箱に向かい、中身を取り出し始めた。


瑞珂は私の傍らに座り、作業を見守っている。その視線を感じながら、私は脳内スプシを展開し、記録の分類を始めた。


しばらく黙々と作業を続けていると、瑞珂が突然言った。


「勇姫、今日は表情が少し硬いな。何かあったのか?」


鋭い。「いえ、その...」


「隠さなくていい」瑞珂の声は優しかった。「私は気になるのだ」


「実は...」迷った末に正直に話すことにした。「霜蘭さんと白凌さんから、警告を受けたんです」


「警告?」瑞珂の眉が寄った。


「はい。宮中での立ち位置について...」


「なるほど」瑞珂はすぐに理解したようだった。「私と近すぎることの危険について、だな」


「はい...」


瑞珂はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「彼らの忠告は正しい。宮中は危険な場所だ」


「私も気をつけます」


「だが...」瑞珂は真剣な目で私を見た。「だからといって、距離を置くつもりはない」


「え?」


「そなたの才能が必要だ」瑞珂はきっぱりと言った。「そして...」


言葉が途切れた。


「そして?」


「...何でもない」瑞珂は少し照れたように視線をそらした。「仕事に戻ろう」


不思議に思いながらも、私は会計記録の整理に戻った。


作業を続ける中、ふと気づいた。記録の中に、定期的に支出されている謎の項目があった。


「殿下、この"臨時賓客費"というのは...?」


瑞珂が覗き込む。「どれだ?」


「五年前から、毎月同じ金額が支出されています。でも、詳細の記載がありません」


瑞珂の表情が曇った。「見せてくれ」


書類を渡すと、瑞珂は眉を寄せて見つめた。


「これは...兄の時代から続いている支出だ」


「先代の皇太子様...ですか?」


「うむ」瑞珂は書類を置いた。「詳細は知らされていない。父上の命令だと言われた」


「皇帝陛下の...?」


「勇姫」瑞珂が真剣な表情になった。「この件については、今は触れないでおこう」


「はい...」なぜか不穏な空気を感じた。


「改革は少しずつだ」瑞珂は静かに言った。「すべてに一度に踏み込むことはできない」


「わかりました」


その後、私たちは黙々と作業を続けた。しかし頭の片隅では、その謎の支出のことが気になっていた。


宮中には、まだ私の知らない多くの秘密があるようだ。


「勇姫」


作業が一段落した頃、瑞珂が静かに呼びかけた。


「はい?」


「そなたが来てくれるようになってから、この執務室が変わった」


「整理ができてよかったです」


「いや、それだけではない」瑞珂は真剣な表情で言った。「この部屋の空気が...そなたがいると、明るくなる」


思わず顔が熱くなった。


「そんな...大げさな」


「事実だ」瑞珂は微笑んだ。「そなたの存在そのものが、この宮中に新しい風を運んでいる」


言葉に詰まる。瑞珂の真摯な眼差しに、心が揺さぶられる。


「...ありがとうございます」やっと絞り出した言葉。


「感謝するのは私の方だ」瑞珂は優しく言った。「今後も、そなたの力を貸してほしい」


「はい、喜んで」


そう答えながら、霜蘭と白凌の警告を思い出す。危険な道かもしれない。でも、今はそれを考えたくなかった。


帰り際、瑞珂がもう一言付け加えた。


「明日も来てくれるな?」


「もちろんです」笑顔で答えた。


清風院に戻る道すがら、複雑な思いに包まれていた。宮中の警戒すべき人々、謎の支出、そして瑞珂との不思議な親近感。


「何が正しいんだろう...」


前世では明確だった「正しい」「間違い」の境界線が、この世界では曖昧に感じる。ただ一つ確かなのは、瑞珂の改革を手伝いたいという気持ちだけだった。


「私にできることをするだけ...」


そう自分に言い聞かせながら、夜の宮廷を歩いていった。


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