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第8話

「勇姫さまー!大変です!」


朝日が差し込み始めた清風院の廊下を、小桃が涙目で駆けてきた。声が震えている。いつもの明るい表情はどこにも見当たらない。


「どうしたの?」


慌てて尋ねると、小桃は泣きそうな顔で言った。


「わ、わたし...大失敗しちゃったんです...!」


「落ち着いて」私は小桃の肩に手を置いた。「何があったか教えて」


「あのっ...今日、女官長にょかんちょうが皇帝陛下に提出する月次報告げつじほうこくの運搬係だったんです」


「うん」


小桃の言葉に、心臓がドキリと鳴る。皇帝への報告書となれば、極めて重要な書類だ。


「そ、それを...廊下で転んじゃって...」


「転んだ?」


「はい...」小桃の声がさらに小さくなる。「お茶を...こぼしちゃったんです...」


「まさか、報告書に?」


小桃はただうなずくだけだ。彼女の目に涙が溜まっている。


「どのくらい濡れたの?」


「ほ、ほとんど全部...」小桃は今にも泣き出しそうだった。「女官長に怒られて...も、もう内務女官を辞めさせられるかも...」


ここでの「辞めさせられる」は、単なる退職ではない。宮外追放を意味する。小桃にとっては生活の基盤を失うことになるのだ。


「見せて」


小桃が震える手で差し出したのは、茶色く染まった紙の束。確かに悲惨な状態だ。


「いつまでに提出?」


「今日の午前中...あと四時間です...」


時間がない。しかも、この報告書は宮中の各部署から集めたデータを女官長が集計したもの。作り直すとなると、膨大な時間がかかる。


「小桃、これから何をする予定だった?」


「女官長に言われたとおり、各部署を回って情報を再収集するつもりでした...でも、時間的に...」


そう、物理的に不可能だ。宮中は広く、各部署は離れている。すべてを回るだけでも半日はかかる。


「よし、私に任せて」


「え?」小桃が驚いた顔をする。


「記録の再作成なら、私ならできるかもしれない」


「でも、これだけの量を...」


「大丈夫」私は自信を持って言った。「私の"特技"を使えば」


小桃の顔に希望の表情が浮かんだ。


「勇姫さまの特技...!あの表のことですか?」


「そう」


実は私は尚書房の仕事の一環で、宮中全体の月次報告書にも目を通していた。そこで見た情報の多くは、脳内スプシに記録されている。すべてではないが、主要な数字は思い出せるはずだ。


「各部署の大まかな数字は覚えている。細かい部分は推測で補うしかないけど...」


「本当ですか!?」小桃の目が輝いた。「勇姫さま、天才です!」


「まだ成功したわけじゃないわ」苦笑する。「まずは尚書房に行こう。そこで清書するための道具がある」


二人は急いで尚書房へと向かった。朝早い時間だったため、まだ誰も来ていない。


「よし、始めよう」


机に座り、目を閉じる。脳内スプシを開き、先月見た月次報告書のデータを呼び出す。


「内務部...女官数58名、前月比-2名...」

「医務部...患者対応数122件、薬草使用量...」

「庶務部...消耗品補充数...」


次々と数字が浮かび上がる。すべては完璧には思い出せないが、おおよその数値は記憶している。


「小桃、紙と筆を用意して」


「はい!」


小桃が道具を並べる間に、私は頭の中で報告書の構成を組み立てていった。どの数字が必須で、どれが推測可能か、どれが省略しても問題ないか...


「紙の質は?」


「最高級の雪花紙せっかしです」小桃が答えた。「女官長はいつもこれを使います」


「なるほど...書式はどんな感じ?」


「えっと...」小桃が記憶を辿る。「最初に皇帝陛下への挨拶文があって、次に全体の要約、それから各部署ごとの詳細...」


「わかった」


私は筆を取り、書き始めた。脳内スプシを見ながら、数字を丁寧に紙に写していく。


「小桃、各部署の責任者の名前を覚えている?」


「はい!内務長は瑠璃るり様、医務長は翡翠ひすい様、庶書長は...」


小桃の情報と私の記憶を組み合わせ、報告書を再構成していく。


一時間後、基本的な枠組みができあがった。


「よし、これでだいぶ形になってきた」


「すごいです...」小桃が感嘆の声を上げた。「こんなに短時間で...」


しかし、完成には至っていない。いくつかの重要な数字が思い出せないからだ。


「小桃、わからない部分がいくつかある」


「どの部分ですか?」


「紫煙閣の消費物資と、玉梓殿の訪問者数」


「あ、それなら...」小桃が考え込む。「玲花れいかさんなら知ってるかも」


「玲花さん?」


「はい、書記女官の方です。紫煙閣担当で...あ!」


小桃が扉の方を指さした。そこには、ちょうど入ってきたところの玲花がいた。


「おはよう、二人とも」玲花が不思議そうに首を傾げた。「こんな早くから何をしているの?」


「玲花さん!助けてください!」小桃が飛びつくように近づいた。


状況を簡単に説明すると、玲花は小さくため息をついた。


「茶をこぼしたの?それは大変ね...」


「紫煙閣と玉梓殿のデータを教えていただけませんか?」私が頼んだ。


「ええ、もちろん」玲花は快く応じてくれた。「紫煙閣の消費物資は、絹織物が32反、茶葉が18斤、化粧品が...」


玲花の記憶を頼りに、残りのデータも埋めていく。


「これで...完成!」


三時間の作業の末、報告書が完成した。見た目も内容も、元のものと遜色ない。むしろ、私の脳内スプシのおかげで、より整理された形になっている。


「すごい...女官長の字にそっくりです!」小桃が驚いた声を上げた。


確かに私は女官長の筆跡をよく観察していたので、似せることができた。偽造と言えば偽造だが、今は緊急事態だ。


「これで女官長に持っていこう」


「でも...」小桃が不安そうな顔をする。「ばれないでしょうか...?」


「大丈夫」私は自信を持って言った。「データは正確だし、形式も同じ。女官長自身、すべての数字を覚えているわけじゃないはず」


小桃はまだ不安そうだったが、頷いた。


「女官長の部屋に行くわよ」


◆◆◆


女官長の部屋の前で、小桃は震えていた。


「勇姫さま...やっぱり私一人で行きます」


「一緒に行くわ」私はきっぱりと言った。「責任は二人で取る」


「でも...」


「大丈夫」小桃の肩を軽く叩く。「最悪の場合は、私が作ったと白状するから」


小桃の目に涙が浮かんだ。「勇姫さま...」


扉をノックする。


「入れ」


厳しい声が返ってきた。ドキドキしながら部屋に入ると、女官長が厳かな表情で座っていた。


「小桃、新しい報告書はできたか?」


「は、はい!」小桃は震える手で報告書を差し出した。


女官長はそれを受け取り、じっくりと見ていく。私と小桃は固唾を呑んで見守った。


「ふむ...」


女官長の表情が変わらない。良い兆候か悪い兆候か、判断できない。


「これは...」女官長がついに口を開いた。「どうやって作り直した?」


「それは...」小桃が言いよどむ。


「私が手伝いました」私が一歩前に出た。


「勇姫?」女官長が驚いたように私を見た。「なぜ?」


「小桃が困っていたので」正直に答える。「尚書房のデータを使って再構成しました」


「尚書房のデータで...?」女官長の目に疑念が浮かぶ。「これほど詳細に?」


「はい」堂々と答える。「私は記憶力に自信があるので」


女官長はしばらく黙って私を観察していたが、やがて小さく頷いた。


「記憶力...霜蘭からも聞いている」


「霜蘭さんから?」


「そうだ」女官長は報告書を置いた。「彼女はそなたの"頭の中の表"について話していた」


思わず息を呑む。霜蘭が女官長に私のことを話していたとは。


「この報告書...」女官長が続けた。「私が作ったものとほぼ同じだ」


「本当ですか?」小桃が希望を込めて尋ねた。


「うむ」女官長はうなずいた。「だが、いくつか数字が違う」


「申し訳ありません」私は頭を下げた。「記憶が完全ではなかったようで...」


予想していた通りだ。すべてを正確に覚えているわけではないので、いくつかの数字は推測で補っていた。


「いや」女官長の声に意外な調子が混じる。「実はそなたの数字の方が正確だ」


「え?」驚いて顔を上げる。


「私の報告書には計算ミスがあった」女官長は静かに認めた。「医務部の集計で、小さな誤りがあったのだ」


「そ、そうだったんですか...」


正直なところ、私は報告書を作る際、医務部の数字がおかしいと感じて修正していた。単純な足し算の間違いだったのだ。


「これは使える」女官長は報告書を手に取り、再び目を通した。「むしろ、茶をこぼしたおかげで、誤りが修正された」


小桃の表情が明るくなった。


「つまり...」


「小桃」女官長は厳しい声に戻った。「不注意は許されないが、今回は結果的に良かった。今後は気をつけるように」


「はい!ありがとうございます!」小桃は深々と頭を下げた。


「勇姫」次に私に向き直った。「そなたの助けに感謝する。しかし...」


「はい?」


「そなたの能力は、もっと広く宮中のために使うべきだ」


「広く...?」


「人員配置の最適化以外にも、報告書の改善、データの整理...」女官長は続けた。「そなたの"頭の中の表"は、宮中にとって貴重な資産だ」


「ありがとうございます」


「女官長会議で、そなたの能力の活用法を議論することにしよう」女官長は決然と言った。「霜蘭とも相談する」


「はい...」


想像以上の展開に、少し戸惑う。私の能力が宮中全体に知られ、活用されるということか。それは良いことなのか、それとも危険なことなのか...


「二人とも下がってよい」女官長は手を振った。「私はこれから陛下に報告書を提出する」


「ありがとうございました!」


小桃と私は部屋を出た。廊下に出ると、小桃が私に飛びついた。


「勇姫さま!ありがとうございます!」彼女の目には嬉しさのあまりの涙が浮かんでいる。「勇姫さまのおかげで助かりました!」


「良かったね」心から笑顔で答える。「それに、女官長もあなたを許してくれたわ」


「はい!それに...」小桃が少し声を潜めた。「女官長が勇姫さまの能力を認めてくれました!これは大きいです!」


「そうね...」


確かに白凌も霜蘭も、女官長を味方につけることの重要性を説いていた。その点では良い展開だったかもしれない。


「勇姫さまって、本当にすごいですね...」小桃が尊敬の眼差しで私を見上げた。「あんな複雑な報告書を頭の中に記憶していて...」


「そんなに大したことじゃないわ」恥ずかしくなり、言葉を濁す。「ただの仕事のコツよ」


「でも、誰もできないことです!」小桃は熱心に言った。「勇姫さまが来てから、宮中が変わり始めています。みんなそう言ってますよ」


その言葉に、少し誇らしさを感じた。前世では、どれだけ頑張っても会社は変わらなかった。ここでは、少しずつでも変化が起きている。


「ありがとう、小桃」心から笑顔で答える。「でも、これは私一人の力じゃないわ。あなたのような協力者がいるからこそ」


小桃の頬が赤くなった。「それじゃ、私、お礼に勇姫さまの部屋の掃除、特別念入りにしますね!」


「ありがとう」


その日の午後、尚書房に戻ると、霜蘭が私を呼び止めた。


「勇姫、聞いたぞ」


「何をですか?」


「小桃の失敗を救ったこと」霜蘭は小さく微笑んだ。「見事な働きだったようだな」


「まあ...」


「それに女官長の心証を良くした」霜蘭は満足げに言った。「あの頑固な女官長が、そなたの能力を認めたのだから」


「女官長は思ったより理解のある方でした」


「彼女は保守的だが、実力は認める人だ」霜蘭は説明した。「彼女の支持を得たことで、そなたの改革はより進めやすくなる」


「それは良かった」


「だが、気をつけるように」霜蘭の表情が引き締まった。「そなたの能力が広く知られるほど、注目も集まる」


「玄碧のような方々からも?」


「そうだ」霜蘭はうなずいた。「特に、計算ミスを指摘したことは、両刃の剣だ」


「どういうことですか?」


「女官長は受け入れたが、プライドの高い者の中には、過ちを指摘されることを恨む者もいる」


なるほど。前世の会社でも、上司の間違いを指摘して恨まれたことがあった。


「気をつけます」


「それと...」霜蘭はもう一つ付け加えた。「白凌から聞いたが、皇太子殿下が今日、そなたを呼ぶそうだ」


「殿下が?」心臓が早鐘を打つ。


「うむ。どうやら女官長から話を聞いたらしい」


「そうですか...」


「勇姫」霜蘭が真剣な目で私を見た。「そなたの能力は、皇太子殿下の大きな助けになっている。だが...」


「距離を忘れるなと?」


「そう」霜蘭はうなずいた。「私はそなたを信頼している。だからこそ忠告する」


「ありがとうございます」心から感謝した。「霜蘭さんは、本当に私の味方ですね」


「当然だ」霜蘭は少し照れたように視線をそらした。「そなたの改革は、私も望んでいたものだからな」


その言葉に、温かいものを感じた。


◆◆◆


夕方、瑞珂の執務室に向かうと、彼はいつもより明るい表情で私を迎えた。


「勇姫、聞いたぞ」


「何をですか?」


「小桃の失敗を見事に救ったこと」瑞珂は嬉しそうに言った。「そして、女官長の計算ミスまで正したとか」


「は、はい...」少し恥ずかしくなる。「運が良かっただけです」


「運ではない」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたの能力だ」


「でも、私がすべての数字を正確に覚えていたわけではなくて...」


「結果が全てだ」瑞珂は微笑んだ。「そなたのおかげで、完璧な報告書が父上に届いた」


「それは良かったです」


「勇姫」瑞珂が少し表情を引き締めた。「父上がそなたのことを聞きたがっている」


「え?」思わず声が上ずる。「皇帝陛下が?」


「うむ」瑞珂はうなずいた。「女官長から、驚くべき才能を持つ女官がいると聞いたそうだ」


緊張が走る。まさか皇帝本人に会うことになるとは。


「私のような者が...」


「恐れることはない」瑞珂は優しく言った。「父上は厳格だが、才能は認める人だ」


「いつ...?」


「明日の午後だ」瑞珂は言った。「私も同席する」


その言葉に少し安心する。瑞珂がいれば、なんとかなるかもしれない。


「わかりました」


「恐縮する必要はないぞ」瑞珂は励ますように言った。「そなたの才能は、宮中の宝だ」


「ありがとうございます」


作業を続ける間も、明日の謁見のことが頭から離れなかった。皇帝に会うとは。前世では社長に会うだけでも緊張したのに、この世界の最高権力者に会うなんて。


「勇姫、どうした?」瑞珂が心配そうに尋ねる。「落ち着きがないようだが」


「すみません...明日のことを考えてしまって」


「心配するな」瑞珂は微笑んだ。「私がついている」


「ありがとうございます」


作業が終わり、帰る支度をしていると、瑞珂が静かに言った。


「勇姫、そなたは本当に特別だ」


「そんな...」


「いや、本当だ」瑞珂の声には真摯さがあった。「そなたが来てから、多くのことが変わり始めている。私自身も...」


「殿下も...?」


「うむ」瑞珂は少し言いよどんだ。「そなたと話すと、心が軽くなる。緊張から解放される」


その言葉に、心が温かくなった。


「それは...嬉しいです」


「明日も頼むぞ」瑞珂は優しく微笑んだ。「そなたの力を」


「はい!」


清風院に戻る道すがら、この一日の出来事を振り返っていた。小桃のミスから始まり、女官長の認知、そして皇帝との謁見の話まで。すべてが急速に展開している。


部屋に着くと、小桃が待っていた。


「勇姫さま!」彼女は嬉しそうに飛び上がった。「お礼を言いに来ました!」


「もう言ってくれたでしょ?」笑いながら答える。


「でも足りないです!」小桃は真剣な顔で言った。「勇姫さまは私の命の恩人です!」


「命の恩人って...大げさよ」


「大げさじゃないです!」小桃の目に熱が籠もる。「宮中から追放されたら、私、生きていけませんから...」


その言葉に、小桃の境遇を思い出す。彼女は宮中で働く以外に行き場がないのだ。


「小桃...」


「だから!」小桃は両手を握りしめた。「これからは勇姫さまの忠実な下僕として仕えます!」


「下僕なんて言わないで」慌てて制する。「友達でいてくれたほうが嬉しいわ」


「友達...?」小桃の目が丸くなった。「勇姫さまのような偉い方と、私のような下っ端女官が?」


「私だって元は...」言いかけて止まる。前世のことは言えない。「私も以前は、あなたと同じような立場だったのよ」


「そうなんですか?」小桃は不思議そうに首を傾げた。


「そう。だから友達でいましょう。お互い助け合って」


「は、はい!」小桃の表情が明るくなる。「友達...嬉しいです!」


彼女の無邪気な笑顔に、心が癒される。


「ところで、勇姫さま」小桃が少し声を潜めた。「噂では、明日皇帝陛下に会うとか...?」


「うわ、もう噂になってるの?」驚く。


「はい!宮中では、噂の伝わるスピードは光より速いですから!」


「そうみたい...」苦笑する。「でも、どうすれば良いか分からなくて...」


「大丈夫です!」小桃は力強く言った。「勇姫さまなら問題ないです!それに...」


「それに?」


「皇太子様が一緒なんでしょう?」小桃がにやりと笑った。「二人で力を合わせれば怖くないです!」


「ちょ、ちょっと!」思わず顔が熱くなる。「私と殿下は、そういう...」


「ふふふ」小桃はくすくす笑った。「勇姫さま、顔赤いですよー?」


「もう!からかわないでよ!」


軽口を叩きながらも、心はほんのり温かかった。こんな風に冗談を言い合える友人ができたことが、なによりの幸せだった。


寝台に横になり、明日の謁見のことを考える。緊張するけれど、瑞珂が一緒なら...


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