「勇姫さまー!大変です!」
朝日が差し込み始めた清風院の廊下を、小桃が涙目で駆けてきた。声が震えている。いつもの明るい表情はどこにも見当たらない。
「どうしたの?」
慌てて尋ねると、小桃は泣きそうな顔で言った。
「わ、わたし...大失敗しちゃったんです...!」
「落ち着いて」私は小桃の肩に手を置いた。「何があったか教えて」
「あのっ...今日、
「うん」
小桃の言葉に、心臓がドキリと鳴る。皇帝への報告書となれば、極めて重要な書類だ。
「そ、それを...廊下で転んじゃって...」
「転んだ?」
「はい...」小桃の声がさらに小さくなる。「お茶を...こぼしちゃったんです...」
「まさか、報告書に?」
小桃はただうなずくだけだ。彼女の目に涙が溜まっている。
「どのくらい濡れたの?」
「ほ、ほとんど全部...」小桃は今にも泣き出しそうだった。「女官長に怒られて...も、もう内務女官を辞めさせられるかも...」
ここでの「辞めさせられる」は、単なる退職ではない。宮外追放を意味する。小桃にとっては生活の基盤を失うことになるのだ。
「見せて」
小桃が震える手で差し出したのは、茶色く染まった紙の束。確かに悲惨な状態だ。
「いつまでに提出?」
「今日の午前中...あと四時間です...」
時間がない。しかも、この報告書は宮中の各部署から集めたデータを女官長が集計したもの。作り直すとなると、膨大な時間がかかる。
「小桃、これから何をする予定だった?」
「女官長に言われたとおり、各部署を回って情報を再収集するつもりでした...でも、時間的に...」
そう、物理的に不可能だ。宮中は広く、各部署は離れている。すべてを回るだけでも半日はかかる。
「よし、私に任せて」
「え?」小桃が驚いた顔をする。
「記録の再作成なら、私ならできるかもしれない」
「でも、これだけの量を...」
「大丈夫」私は自信を持って言った。「私の"特技"を使えば」
小桃の顔に希望の表情が浮かんだ。
「勇姫さまの特技...!あの表のことですか?」
「そう」
実は私は尚書房の仕事の一環で、宮中全体の月次報告書にも目を通していた。そこで見た情報の多くは、脳内スプシに記録されている。すべてではないが、主要な数字は思い出せるはずだ。
「各部署の大まかな数字は覚えている。細かい部分は推測で補うしかないけど...」
「本当ですか!?」小桃の目が輝いた。「勇姫さま、天才です!」
「まだ成功したわけじゃないわ」苦笑する。「まずは尚書房に行こう。そこで清書するための道具がある」
二人は急いで尚書房へと向かった。朝早い時間だったため、まだ誰も来ていない。
「よし、始めよう」
机に座り、目を閉じる。脳内スプシを開き、先月見た月次報告書のデータを呼び出す。
「内務部...女官数58名、前月比-2名...」
「医務部...患者対応数122件、薬草使用量...」
「庶務部...消耗品補充数...」
次々と数字が浮かび上がる。すべては完璧には思い出せないが、おおよその数値は記憶している。
「小桃、紙と筆を用意して」
「はい!」
小桃が道具を並べる間に、私は頭の中で報告書の構成を組み立てていった。どの数字が必須で、どれが推測可能か、どれが省略しても問題ないか...
「紙の質は?」
「最高級の
「なるほど...書式はどんな感じ?」
「えっと...」小桃が記憶を辿る。「最初に皇帝陛下への挨拶文があって、次に全体の要約、それから各部署ごとの詳細...」
「わかった」
私は筆を取り、書き始めた。脳内スプシを見ながら、数字を丁寧に紙に写していく。
「小桃、各部署の責任者の名前を覚えている?」
「はい!内務長は
小桃の情報と私の記憶を組み合わせ、報告書を再構成していく。
一時間後、基本的な枠組みができあがった。
「よし、これでだいぶ形になってきた」
「すごいです...」小桃が感嘆の声を上げた。「こんなに短時間で...」
しかし、完成には至っていない。いくつかの重要な数字が思い出せないからだ。
「小桃、わからない部分がいくつかある」
「どの部分ですか?」
「紫煙閣の消費物資と、玉梓殿の訪問者数」
「あ、それなら...」小桃が考え込む。「
「玲花さん?」
「はい、書記女官の方です。紫煙閣担当で...あ!」
小桃が扉の方を指さした。そこには、ちょうど入ってきたところの玲花がいた。
「おはよう、二人とも」玲花が不思議そうに首を傾げた。「こんな早くから何をしているの?」
「玲花さん!助けてください!」小桃が飛びつくように近づいた。
状況を簡単に説明すると、玲花は小さくため息をついた。
「茶をこぼしたの?それは大変ね...」
「紫煙閣と玉梓殿のデータを教えていただけませんか?」私が頼んだ。
「ええ、もちろん」玲花は快く応じてくれた。「紫煙閣の消費物資は、絹織物が32反、茶葉が18斤、化粧品が...」
玲花の記憶を頼りに、残りのデータも埋めていく。
「これで...完成!」
三時間の作業の末、報告書が完成した。見た目も内容も、元のものと遜色ない。むしろ、私の脳内スプシのおかげで、より整理された形になっている。
「すごい...女官長の字にそっくりです!」小桃が驚いた声を上げた。
確かに私は女官長の筆跡をよく観察していたので、似せることができた。偽造と言えば偽造だが、今は緊急事態だ。
「これで女官長に持っていこう」
「でも...」小桃が不安そうな顔をする。「ばれないでしょうか...?」
「大丈夫」私は自信を持って言った。「データは正確だし、形式も同じ。女官長自身、すべての数字を覚えているわけじゃないはず」
小桃はまだ不安そうだったが、頷いた。
「女官長の部屋に行くわよ」
◆◆◆
女官長の部屋の前で、小桃は震えていた。
「勇姫さま...やっぱり私一人で行きます」
「一緒に行くわ」私はきっぱりと言った。「責任は二人で取る」
「でも...」
「大丈夫」小桃の肩を軽く叩く。「最悪の場合は、私が作ったと白状するから」
小桃の目に涙が浮かんだ。「勇姫さま...」
扉をノックする。
「入れ」
厳しい声が返ってきた。ドキドキしながら部屋に入ると、女官長が厳かな表情で座っていた。
「小桃、新しい報告書はできたか?」
「は、はい!」小桃は震える手で報告書を差し出した。
女官長はそれを受け取り、じっくりと見ていく。私と小桃は固唾を呑んで見守った。
「ふむ...」
女官長の表情が変わらない。良い兆候か悪い兆候か、判断できない。
「これは...」女官長がついに口を開いた。「どうやって作り直した?」
「それは...」小桃が言いよどむ。
「私が手伝いました」私が一歩前に出た。
「勇姫?」女官長が驚いたように私を見た。「なぜ?」
「小桃が困っていたので」正直に答える。「尚書房のデータを使って再構成しました」
「尚書房のデータで...?」女官長の目に疑念が浮かぶ。「これほど詳細に?」
「はい」堂々と答える。「私は記憶力に自信があるので」
女官長はしばらく黙って私を観察していたが、やがて小さく頷いた。
「記憶力...霜蘭からも聞いている」
「霜蘭さんから?」
「そうだ」女官長は報告書を置いた。「彼女はそなたの"頭の中の表"について話していた」
思わず息を呑む。霜蘭が女官長に私のことを話していたとは。
「この報告書...」女官長が続けた。「私が作ったものとほぼ同じだ」
「本当ですか?」小桃が希望を込めて尋ねた。
「うむ」女官長はうなずいた。「だが、いくつか数字が違う」
「申し訳ありません」私は頭を下げた。「記憶が完全ではなかったようで...」
予想していた通りだ。すべてを正確に覚えているわけではないので、いくつかの数字は推測で補っていた。
「いや」女官長の声に意外な調子が混じる。「実はそなたの数字の方が正確だ」
「え?」驚いて顔を上げる。
「私の報告書には計算ミスがあった」女官長は静かに認めた。「医務部の集計で、小さな誤りがあったのだ」
「そ、そうだったんですか...」
正直なところ、私は報告書を作る際、医務部の数字がおかしいと感じて修正していた。単純な足し算の間違いだったのだ。
「これは使える」女官長は報告書を手に取り、再び目を通した。「むしろ、茶をこぼしたおかげで、誤りが修正された」
小桃の表情が明るくなった。
「つまり...」
「小桃」女官長は厳しい声に戻った。「不注意は許されないが、今回は結果的に良かった。今後は気をつけるように」
「はい!ありがとうございます!」小桃は深々と頭を下げた。
「勇姫」次に私に向き直った。「そなたの助けに感謝する。しかし...」
「はい?」
「そなたの能力は、もっと広く宮中のために使うべきだ」
「広く...?」
「人員配置の最適化以外にも、報告書の改善、データの整理...」女官長は続けた。「そなたの"頭の中の表"は、宮中にとって貴重な資産だ」
「ありがとうございます」
「女官長会議で、そなたの能力の活用法を議論することにしよう」女官長は決然と言った。「霜蘭とも相談する」
「はい...」
想像以上の展開に、少し戸惑う。私の能力が宮中全体に知られ、活用されるということか。それは良いことなのか、それとも危険なことなのか...
「二人とも下がってよい」女官長は手を振った。「私はこれから陛下に報告書を提出する」
「ありがとうございました!」
小桃と私は部屋を出た。廊下に出ると、小桃が私に飛びついた。
「勇姫さま!ありがとうございます!」彼女の目には嬉しさのあまりの涙が浮かんでいる。「勇姫さまのおかげで助かりました!」
「良かったね」心から笑顔で答える。「それに、女官長もあなたを許してくれたわ」
「はい!それに...」小桃が少し声を潜めた。「女官長が勇姫さまの能力を認めてくれました!これは大きいです!」
「そうね...」
確かに白凌も霜蘭も、女官長を味方につけることの重要性を説いていた。その点では良い展開だったかもしれない。
「勇姫さまって、本当にすごいですね...」小桃が尊敬の眼差しで私を見上げた。「あんな複雑な報告書を頭の中に記憶していて...」
「そんなに大したことじゃないわ」恥ずかしくなり、言葉を濁す。「ただの仕事のコツよ」
「でも、誰もできないことです!」小桃は熱心に言った。「勇姫さまが来てから、宮中が変わり始めています。みんなそう言ってますよ」
その言葉に、少し誇らしさを感じた。前世では、どれだけ頑張っても会社は変わらなかった。ここでは、少しずつでも変化が起きている。
「ありがとう、小桃」心から笑顔で答える。「でも、これは私一人の力じゃないわ。あなたのような協力者がいるからこそ」
小桃の頬が赤くなった。「それじゃ、私、お礼に勇姫さまの部屋の掃除、特別念入りにしますね!」
「ありがとう」
その日の午後、尚書房に戻ると、霜蘭が私を呼び止めた。
「勇姫、聞いたぞ」
「何をですか?」
「小桃の失敗を救ったこと」霜蘭は小さく微笑んだ。「見事な働きだったようだな」
「まあ...」
「それに女官長の心証を良くした」霜蘭は満足げに言った。「あの頑固な女官長が、そなたの能力を認めたのだから」
「女官長は思ったより理解のある方でした」
「彼女は保守的だが、実力は認める人だ」霜蘭は説明した。「彼女の支持を得たことで、そなたの改革はより進めやすくなる」
「それは良かった」
「だが、気をつけるように」霜蘭の表情が引き締まった。「そなたの能力が広く知られるほど、注目も集まる」
「玄碧のような方々からも?」
「そうだ」霜蘭はうなずいた。「特に、計算ミスを指摘したことは、両刃の剣だ」
「どういうことですか?」
「女官長は受け入れたが、プライドの高い者の中には、過ちを指摘されることを恨む者もいる」
なるほど。前世の会社でも、上司の間違いを指摘して恨まれたことがあった。
「気をつけます」
「それと...」霜蘭はもう一つ付け加えた。「白凌から聞いたが、皇太子殿下が今日、そなたを呼ぶそうだ」
「殿下が?」心臓が早鐘を打つ。
「うむ。どうやら女官長から話を聞いたらしい」
「そうですか...」
「勇姫」霜蘭が真剣な目で私を見た。「そなたの能力は、皇太子殿下の大きな助けになっている。だが...」
「距離を忘れるなと?」
「そう」霜蘭はうなずいた。「私はそなたを信頼している。だからこそ忠告する」
「ありがとうございます」心から感謝した。「霜蘭さんは、本当に私の味方ですね」
「当然だ」霜蘭は少し照れたように視線をそらした。「そなたの改革は、私も望んでいたものだからな」
その言葉に、温かいものを感じた。
◆◆◆
夕方、瑞珂の執務室に向かうと、彼はいつもより明るい表情で私を迎えた。
「勇姫、聞いたぞ」
「何をですか?」
「小桃の失敗を見事に救ったこと」瑞珂は嬉しそうに言った。「そして、女官長の計算ミスまで正したとか」
「は、はい...」少し恥ずかしくなる。「運が良かっただけです」
「運ではない」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたの能力だ」
「でも、私がすべての数字を正確に覚えていたわけではなくて...」
「結果が全てだ」瑞珂は微笑んだ。「そなたのおかげで、完璧な報告書が父上に届いた」
「それは良かったです」
「勇姫」瑞珂が少し表情を引き締めた。「父上がそなたのことを聞きたがっている」
「え?」思わず声が上ずる。「皇帝陛下が?」
「うむ」瑞珂はうなずいた。「女官長から、驚くべき才能を持つ女官がいると聞いたそうだ」
緊張が走る。まさか皇帝本人に会うことになるとは。
「私のような者が...」
「恐れることはない」瑞珂は優しく言った。「父上は厳格だが、才能は認める人だ」
「いつ...?」
「明日の午後だ」瑞珂は言った。「私も同席する」
その言葉に少し安心する。瑞珂がいれば、なんとかなるかもしれない。
「わかりました」
「恐縮する必要はないぞ」瑞珂は励ますように言った。「そなたの才能は、宮中の宝だ」
「ありがとうございます」
作業を続ける間も、明日の謁見のことが頭から離れなかった。皇帝に会うとは。前世では社長に会うだけでも緊張したのに、この世界の最高権力者に会うなんて。
「勇姫、どうした?」瑞珂が心配そうに尋ねる。「落ち着きがないようだが」
「すみません...明日のことを考えてしまって」
「心配するな」瑞珂は微笑んだ。「私がついている」
「ありがとうございます」
作業が終わり、帰る支度をしていると、瑞珂が静かに言った。
「勇姫、そなたは本当に特別だ」
「そんな...」
「いや、本当だ」瑞珂の声には真摯さがあった。「そなたが来てから、多くのことが変わり始めている。私自身も...」
「殿下も...?」
「うむ」瑞珂は少し言いよどんだ。「そなたと話すと、心が軽くなる。緊張から解放される」
その言葉に、心が温かくなった。
「それは...嬉しいです」
「明日も頼むぞ」瑞珂は優しく微笑んだ。「そなたの力を」
「はい!」
清風院に戻る道すがら、この一日の出来事を振り返っていた。小桃のミスから始まり、女官長の認知、そして皇帝との謁見の話まで。すべてが急速に展開している。
部屋に着くと、小桃が待っていた。
「勇姫さま!」彼女は嬉しそうに飛び上がった。「お礼を言いに来ました!」
「もう言ってくれたでしょ?」笑いながら答える。
「でも足りないです!」小桃は真剣な顔で言った。「勇姫さまは私の命の恩人です!」
「命の恩人って...大げさよ」
「大げさじゃないです!」小桃の目に熱が籠もる。「宮中から追放されたら、私、生きていけませんから...」
その言葉に、小桃の境遇を思い出す。彼女は宮中で働く以外に行き場がないのだ。
「小桃...」
「だから!」小桃は両手を握りしめた。「これからは勇姫さまの忠実な下僕として仕えます!」
「下僕なんて言わないで」慌てて制する。「友達でいてくれたほうが嬉しいわ」
「友達...?」小桃の目が丸くなった。「勇姫さまのような偉い方と、私のような下っ端女官が?」
「私だって元は...」言いかけて止まる。前世のことは言えない。「私も以前は、あなたと同じような立場だったのよ」
「そうなんですか?」小桃は不思議そうに首を傾げた。
「そう。だから友達でいましょう。お互い助け合って」
「は、はい!」小桃の表情が明るくなる。「友達...嬉しいです!」
彼女の無邪気な笑顔に、心が癒される。
「ところで、勇姫さま」小桃が少し声を潜めた。「噂では、明日皇帝陛下に会うとか...?」
「うわ、もう噂になってるの?」驚く。
「はい!宮中では、噂の伝わるスピードは光より速いですから!」
「そうみたい...」苦笑する。「でも、どうすれば良いか分からなくて...」
「大丈夫です!」小桃は力強く言った。「勇姫さまなら問題ないです!それに...」
「それに?」
「皇太子様が一緒なんでしょう?」小桃がにやりと笑った。「二人で力を合わせれば怖くないです!」
「ちょ、ちょっと!」思わず顔が熱くなる。「私と殿下は、そういう...」
「ふふふ」小桃はくすくす笑った。「勇姫さま、顔赤いですよー?」
「もう!からかわないでよ!」
軽口を叩きながらも、心はほんのり温かかった。こんな風に冗談を言い合える友人ができたことが、なによりの幸せだった。
寝台に横になり、明日の謁見のことを考える。緊張するけれど、瑞珂が一緒なら...