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第9話

皇帝への謁見の日が来た。


朝から緊張で胃がキリキリする。私──勇姫ゆうきは、着替えを手伝ってくれる小桃にため息をつきながら言った。


「小桃、やっぱり皇帝陛下に会うのは怖いわ…」


「大丈夫です!」小桃は元気よく答えた。「勇姫さまなら問題ないです!」


「でも、何を話せばいいのか…」


「ただありのままでいればいいんです!」小桃が真剣な表情で言った。「勇姫さまの"頭の中の表"の話をすれば、きっと陛下も興味を持たれます!」


「表のことを話すのは、ちょっと…」


私は躊躇した。脳内スプシの能力は、この世界では"異能"と見なされるかもしれない。必要以上に目立つのは危険だと、霜蘭も白凌も警告していた。


「それより、この衣装でいいのかしら?」


今日の私は、通常の書記女官の藍色の衣装ではなく、格式高い紫藍しらん色の正装を着ていた。小桃が女官長から特別に借りてきたものだ。


「完璧です!」小桃が満足げに頷いた。「勇姫さまにとても似合ってます!」


「本当?」


「はい!皇太子様もきっと見とれちゃいますよ~」


「も、もう!そんな冗談言わないで!」思わず顔が熱くなる。


「冗談じゃないですよ~」小桃はくすくす笑った。「皇太子様、いつも勇姫さまのこと特別な目で見てますもん」


「そんなことないわ」慌てて否定する。「殿下は皆に優しいだけよ」


「ふーん?」小桃は意味ありげな笑みを浮かべたが、それ以上は言わなかった。


着替えを終え、鏡に映る自分を見る。紫藍色の高級な絹の衣装は、確かに私を別人のように見せていた。前世では新入社員の頃、初めて着た高級スーツを思い出す。


「時間です、勇姫さま」小桃が静かに言った。「白凌様がお迎えに来られましたよ」


部屋の扉を開けると、厳かな表情の白凌が立っていた。


「勇姫」彼は軽く頭を下げた。「準備はよいか?」


「はい…できる限り」


「緊張する必要はない」白凌は珍しく優しい口調で言った。「陛下は厳格だが、公平な方だ」


「白凌様…」


「それに」彼は小声で付け加えた。「殿下がついておられる」


その言葉に、少し安心した。瑞珂が一緒なら、きっと大丈夫。


「行きましょう」


小桃に見送られ、白凌に導かれて宮中の中心部へと向かった。今まで見たことのない、より荘厳な建物群が見えてくる。


「あれが天輝殿てんきでん」白凌が指し示した。「陛下の居所だ」


巨大な朱色の柱が並ぶ神殿のような建物。屋根の瓦は純金で覆われ、太陽の光を反射して眩しいほどだ。


「あんなところに…」思わず足が止まりそうになる。


「恐れるな」白凌は静かに言った。「殿下が待っておられる」


天輝殿の前に到着すると、瑞珂が正装姿で立っていた。普段より一層威厳のある佇まい。藍と金の刺繍が施された高貴な衣装が、彼の気品を引き立てている。


「勇姫、来たか」瑞珂は穏やかな笑顔で迎えた。


「はい、殿下」緊張気味に答える。


「緊張しているようだな」瑞珂の目が優しさを湛えている。「そんなに恐れることはない。父上はそなたの才能に興味を持っているだけだ」


「でも…」


「私がついている」瑞珂はさりげなく私の肩に触れた。「自信を持つがよい」


その一瞬の接触に、心臓が高鳴った。しかし同時に、不思議な安心感も得られた。


「はい…ありがとうございます」


「行こうか」


瑞珂、白凌、そして私の三人は、巨大な扉の前に立った。衛兵たちが深々と頭を下げ、重厚な扉がゆっくりと開いていく。


中に入ると、息を飲むような光景が広がっていた。高い天井、金と翡翠で装飾された柱、絢爛豪華な調度品。そして正面の高台には、龍の彫刻が施された玉座があった。


玉座に座る男性は、瑞珂よりもさらに威厳があり、年の功を感じさせる。しかし、表情は意外にも穏やかだった。


「父上」瑞珂が進み出て、膝をついた。「参りました」


「瑞珂よ、立て」皇帝の声は低く、しかし温かみがあった。「そなたの連れてきた女官がその勇姫か?」


「はい、父上」


全身が震える思いで、私も進み出て膝をつき、深々と頭を下げた。


勇姫ゆうき、陛下の御前ごぜんに参りました」


「顔を上げよ」


恐る恐る顔を上げると、皇帝の鋭い目が私を見つめていた。


「女官長からそなたのことを聞いた」皇帝はゆっくりと言った。「記録を整理する特別な才があるとか」


「恐れ多くも…些細な能力にすぎません」


「謙遜は無用」皇帝の口調に威厳が感じられる。「実力のある者が謙り過ぎるのは、むしろ傲慢だ」


「は…はい」


「瑞珂」皇帝が息子に向き直った。「この者の才について、詳しく話してみよ」


瑞珂は一歩前に出た。


「父上、勇姫は尋常ならざる記憶力と整理能力を持っています。彼女の頭の中には、宮中のあらゆる情報が整然と並べられているのです」


「ほう…」皇帝の目に興味の色が浮かんだ。


「さらに」瑞珂は続けた。「彼女はそれらの情報を使い、業務の効率化、人員の最適配置、そして記録の改善を成し遂げました」


「たった一人の女官がか?」皇帝は少し驚いたように言った。


「はい、父上。彼女の改革により、多くの部署で作業時間が短縮され、正確性も向上しています」


皇帝はしばらく黙って考えているようだった。そして突然、私に質問を投げかけた。


「勇姫よ、そなたのその能力を見せてみよ」


「見せる…ですか?」


「うむ」皇帝は頷いた。「例えば、宮中の現在の人員配置を説明してみよ」


緊張しながらも、頭の中でスプシを開く。人員配置表の画面が浮かび上がる。


「現在、宮中の女官は全体で約160名。内務部門に60名、書記部門に20名、医務部門に15名、庶務部門に25名、その他の部門に40名ほどです」


「詳細は?」


「内務部門は東棟担当が12名、西棟担当が18名、北棟担当が10名、庭園係が5名、食堂係が8名、特別室担当が7名…」


次々と数字が頭から飛び出してくる。スプシを見ながら、正確な情報を淀みなく話す。


皇帝の表情が徐々に変わっていった。驚きから、興味深そうな表情へ。


「印象的だ…」皇帝が静かに言った。「これほど詳細に記憶しているとは」


「それだけではありません、父上」瑞珂が再び言葉を継いだ。「勇姫は、それらの情報から非効率な点を見つけ出し、改善案を提示することができるのです」


「例えば?」


瑞珂が私に目配せした。続けるようにという合図だ。


「はい…」私は少し勇気を出して話し始めた。「現在の人員配置では、同じ日に複数の場所に配置されている女官や、逆に誰も配置されていない場所があります。また、繁忙期と閑散期の区別がなく、常に同じ人数が配置されているため…」


「無駄が生じているということか」皇帝が言葉を引き取った。


「はい」


「それで、どのような改善策を?」


「三交代制の導入と、繁忙度に応じた変動配置です」私は自信を持って答えた。「これにより、全体の必要人数を約20%削減しつつ、個々の女官の負担も軽減できます」


皇帝は感心したように眉を上げた。


「20%の削減とな…」


「それは宮中の経費削減にもつながります」私は付け加えた。「さらに…」


言いかけて、自分が皇帝を前に熱弁を振るっていることに気づき、慌てて口を閉じた。


「続けよ」皇帝は意外にも優しい声で促した。


「はい…さらに、女官たちの時間的余裕が生まれることで、より質の高いサービスが提供できるようになります」


皇帝はしばらく黙って考え込んだ。そして、白凌に向かって言った。


「白凌、そなたはどう思う?」


「陛下」白凌は一歩前に出た。「勇姫の提案は理にかなっています。実際、既に試験的に導入した部署では、効果が出始めています」


「そうか…」皇帝は満足げに頷いた。「瑞珂」


「はい、父上」


「そなたがこの女官を高く評価する理由がわかった」皇帝は穏やかな表情で言った。「彼女の才は、確かに宮中にとって貴重だ」


瑞珂の表情が明るくなる。「ありがとうございます、父上」


「勇姫よ」皇帝が私に向き直った。「そなたの改革を、宮中全体に広げることを許可する」


「はっ…!」思わず息を呑む。「恐れ多くも、ありがとうございます!」


「だが」皇帝は一つ条件をつけた。「急激な変化は混乱を招く。段階的に進めるように」


「はい、かしこまりました」


「それと」皇帝はさらに続けた。「月に一度、進捗を報告せよ。私自身が見届けたい」


これは予想外の展開だった。皇帝直々に月次報告を求められるとは。


「光栄です…必ず」


「瑞珂」皇帝は息子に向き直った。「彼女の才を見出したそなたの慧眼も評価するぞ」


「ありがとうございます、父上」瑞珂は謙虚に頭を下げた。


「共に宮中の改革を進めるがよい」皇帝は二人を見比べた。「朕は、その成果に期待する」


「はい!」瑞珂と私は同時に答えた。


「下がってよい」


深々と頭を下げ、私たちは退出した。天輝殿を出ると、瑞珂が大きく息を吐いた。


「うまくいった…!」


「はい…」緊張から解放され、私もようやく息ができるようになった。「思ったより、陛下は優しい方でした」


「父上は厳格だが、理にかなったことには耳を傾ける人だ」瑞珂は嬉しそうに言った。「そなたの才を認めてくれたようだ」


「殿下のおかげです」


「いや」瑞珂はきっぱりと言った。「それはそなた自身の功績だ」


白凌も珍しく笑みを浮かべていた。


「見事だった、勇姫」


「ありがとうございます」


「宮中改革がいよいよ本格的に始まる」白凌は静かに言った。「これからが本当の挑戦だ」


「私、頑張ります」


「私たちで頑張ろう」瑞珂が優しく訂正した。


その言葉に、心が温かくなった。


◆◆◆


謁見から数日後、私は瑞珂の執務室で遅くまで資料整理をしていた。皇帝からの許可を得て、改革計画を具体化する作業だ。


「勇姫、もう遅いぞ」瑞珂が心配そうに言った。「今日はここまでにしたらどうだ?」


「あと少しで…この計画表を完成させたいんです」


「そうか…」瑞珂は私の横に座った。「手伝おうか?」


「いえ、大丈夫です。でも…」


「なんだ?」


「殿下に見ていただきたいものがあります」


「ほう?」


「これを…」


脳内スプシで作成していた宮中改革の全体計画を紙に描いたものを見せる。縦軸に時間、横軸に部署を配置し、改革の進捗を視覚的に表現した図だ。


「これは…」瑞珂は驚いたように図を見つめた。「すべての改革計画が一目でわかる…」


「はい。この図があれば、今どの部署がどの段階にあるか、次に何をすべきかが明確になります」


「素晴らしい…」瑞珂の目が輝いた。「こんな図を、どうやって思いついた?」


「私の頭の中では、いつもこんな風に情報が整理されているんです」率直に答える。


「頭の中?」瑞珂が不思議そうに私を見た。「そなたは、頭の中でこのような図を見ているのか?」


「はい…」少し恥ずかしくなり、視線を伏せる。「変だと思われるかもしれませんが…」


「いや」瑞珂は静かに言った。「それ、見えるのか...?」


「え?」


「そなたの頭の中の…表や図が、実際に見えるのか?」瑞珂の表情は真剣だった。


「はい、閉じた目の裏に、まるで本物の表のように浮かぶんです」


瑞珂はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて静かに言った。


異能いのうだな…」


「異能、ですか?」


「うむ」瑞珂はうなずいた。「宮中には時折、特別な才を持つ者が現れる。薬草の知識を持つ者、未来を少しだけ予知できる者…そしてそなたのような、頭の中に表を見る者」


「私が特別だなんて…」


「否定する必要はない」瑞珂は優しく言った。「そなたの才は、宮中を変える力を持っている」


彼の言葉に、改めて身の引き締まる思いがした。


「殿下…」


「私もそなたを認めている」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたの"異能"も、そなた自身も」


その言葉に、胸がいっぱいになった。前世では認められることのなかった能力が、ここでは価値あるものとして尊重されている。


「ありがとうございます…」


「勇姫」瑞珂が突然、真剣な表情で言った。「約束してほしい」


「はい?」


「そなたの才を、宮中のために使ってほしい」瑞珂の目に決意が浮かんでいる。「そして、私の側にいてほしい」


「殿下の…側に?」心臓が早鐘を打つ。


「うむ」瑞珂は静かに頷いた。「私には、そなたの力が必要だ。そなたがいれば、宮中を、そして国を変えられる」


大げさな言葉に聞こえるかもしれないが、瑞珂の目に映る真摯さを見れば、彼が本気であることがわかった。


「約束します」迷いなく答える。「私の力が役に立つのであれば…殿下の望むように」


「ありがとう、勇姫」瑞珂は珍しく柔らかな笑顔を見せた。「そなたとなら、どんな困難も乗り越えられる気がする」


窓の外では、満月が宮殿を照らしていた。二人の影が、月光に長く伸びている。


「勇姫」瑞珂が静かに言った。「そなたの頭の中の表…いつか私にも見せてくれないか?」


「見せる…ですか?」


「うむ」瑞珂はうなずいた。「そなたが見ている世界を、私も見てみたい」


「それは…」難しいことのように思えた。でも、瑞珂の真剣な表情を見ていると、試してみたいという気持ちが湧いてきた。「できるかどうかわかりませんが、努力してみます」


「それで充分だ」瑞珂は優しく微笑んだ。「さあ、今日はもう遅い。休もう」


「はい…」


その夜、清風院に戻る道すがら、瑞珂の言葉を思い返していた。


「私の異能…か」


前世では単なる仕事のスキルだったものが、この世界では特別な力として認められる。そして何より、瑞珂に認められたことが、心の奥深くで嬉しかった。


部屋に戻ると、小桃が待っていた。


「勇姫さま!どうでしたか?」彼女は興奮した様子で尋ねた。「改革計画は進んでますか?」


「うん、順調よ」笑顔で答える。「それに…」


「それに?」


「殿下が、私の能力を"異能"だと言ってくれたの」


「わぁ!」小桃の目が輝いた。「やっぱり勇姫さまは特別な方なんですね!」


「そんなことないよ」恥ずかしくなり、言葉を濁す。「ただの頭の整理術さ」


「いいえ!」小桃はきっぱりと言った。「勇姫さまが来てから、宮中が変わり始めています。みんなが言ってますよ!」


「みんなが?」


「はい!」小桃はうなずいた。「『あの書記女官のおかげで、仕事が楽になった』って」


その言葉に、心が温かくなった。少しずつだが、確かに変化は起きている。


「そう言ってもらえると嬉しいわ」


「それに...」小桃が意味深な笑みを浮かべた。「殿下も随分とお優しそうですね?」


「も、もう!そういう冗談はやめてよ!」思わず顔が熱くなる。


「冗談じゃないですよ~」小桃はくすくす笑った。「殿下、勇姫さまのことを特別扱いしてますもん。白凌様も言ってましたよ?」


「白凌さんが?」


「はい!『皇太子様は勇姫という女官に特別な眼差しを向けておられる』って」


「そんな...」


言葉に詰まる。確かに瑞珂との関係は、単なる主従を超えた何かがあるように感じていた。でも、それは改革への共感であって、それ以上のものではないはず。


「まあいいじゃないですか」小桃は優しく言った。「二人で素敵な宮中を作ってください。あたしも応援してますから!」


「小桃...ありがとう」


そして寝台に横になり、天井を見つめる。


「異能...か」


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