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閑話集①

side talk:紫霞宮巡礼~勇姫と小桃の裏道散歩

 勇姫ゆうき芙蓉ふよう帝国の紫霞宮しかきゅうで女官として働き始めて一月が経ったある晴れた午後のことだ。公務が早めに終わり、記録閣きろくかくの窓から差し込む金色の日差しが床を照らしていた。前世では総務部のOLだった彼女は、この異世界の後宮での仕事を脳内「スプシ」の力でどんどん効率化していた。その日は久しぶりに空いた時間で、彼女は宮殿の地理をもっと把握しておきたいと思っていた。


ゆうさーん!今日は早く終わったんですねー!」


 元気な声と共に飛び込んできたのは、桃色の髪をした小柄な少女、小桃しゃおたおだった。薄桃色の女官服は袖が長すぎて手首が隠れている。丸い顔に大きな杏色の瞳が印象的で、いつも笑顔を絶やさない。


「ええ、今日は早く片付いたわ。小桃ちゃんはどう?仕事は終わった?」


 勇姫は墨色に近い深い藍色の髪を軽く撫でつけながら応えた。彼女の書記女官としての制服は青と銀を基調としており、動きやすさを重視したシンプルなデザインだ。


「はい!あたしもさっき終わったところです!ねえねえ、ゆうさん、せっかくだから宮殿のあんまり行かないところ、案内しますよ!」


 勇姫は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「そうね。確かに公務ではいつも同じ道しか通らないから、他のルートも知っておきたいわ」


「やったー!それじゃあ、あたしの秘密の抜け道ツアー、始めましょう!」


 小桃は嬉しそうに両手を叩くと、勇姫の手を取って廊下へと飛び出した。


◆◆◆


 最初に訪れたのは、宮殿の東側にある翠星門すいせいもんからやや北に位置する小さな庭園だった。正規のルートからは見えず、細い脇道を二度曲がった先にある。


「ここは桃花園とうかえんって言うんです。あんまり偉い人は来ないから、下級女官たちの秘密の休憩所なんですよ」


 庭園は小ぶりながらも趣があり、桃の木が数本植えられている。石のベンチが配置され、小さな池には睡蓮が浮かんでいた。


「なるほど。確かに公式の地図には載ってないわね」


 勇姫は脳内のスプシに新たな地点を記録しながら言った。


「でしょー?あたし、こういう裏道とか抜け道とか、得意なんです!」


 小桃は誇らしげに胸を張った。


「お次はどこ?」


「次は...ふふん、白凌びゃくりょうさんも知らない場所かも!」


◆◆◆


 二人は宮殿の西側へと向かい、香炉廊こうろろうの裏手にある狭い通路を通った。通路の壁は青い瓦で覆われ、時折風鈴のような音が聞こえる。


「ここを抜けると...じゃじゃーん!雲燈台うんとうだいの裏口です!」


 そこには静謐な雰囲気の小さな広場があり、その先には細い階段が雲燈台うんとうだいへと続いていた。高さ三階ほどの塔は白い壁と青い屋根で構成され、上部には風見鶏のような装飾が取り付けられている。


「この塔、霜蘭そうらんさんがよく本を読みに来るところなんですよ。でも表からだと結構遠回りになるから、こっちの道を使うとすごく近いんです」


「へえ、霜蘭さんの隠れ家か...」


 勇姫は銀白の髪を持つ孤高の上級妃を思い浮かべた。いつもは寡黙で冷たい彼女だが、このような静かな場所で本を読む姿は想像できる。


「あっ、でも入っちゃダメですよ!霜蘭さん、誰かが入ってくると怒るから...」


「もちろん、プライバシーは尊重するわ」


◆◆◆


 次に二人が向かったのは、宮殿の中央部から少し離れた建物群だった。


「ここが尚書房しょうしょぼうの裏側なんです。あそこに見える小さな門、実は文政局ぶんせいきょくへの近道なんですよ」


 勇姫の職場である文政局分室ぶんせいきょくぶんしつへと続く隠れた通路は、普段の道より半分の時間で到着できそうだった。


「これは便利ね。急ぎの書類がある時に使えそう」


「でしょ?あと、ここを通ると...」


 小桃は小走りに前進し、垣根の間の小さな隙間を指さした。


「こっから覗くと、御書房ぎょしょぼうが見えるんです。瑞珂ずいか殿下がよく夜遅くまで書類を読んでる場所...」


 勇姫は思わず身を乗り出して覗き込んだ。確かに栗色の髪を持つ皇太子がよく執務する部屋の窓が見える。淡い金と白の装飾が施された広間で、瑞珂が山積みの書類に囲まれている姿が時々見られるという場所だ。


「ここは...覚えておくわ」


 勇姫の頬がかすかに赤くなった。


「えへへ、ゆうさん、瑞珂殿下のこと気になってるんですよね?」


「そ、そんなことないわよ!単に...公務の観点から把握しておきたいだけよ」


 小桃はくすくすと笑った。


◆◆◆


 最後に二人が訪れたのは、紫霞宮の最も北にある月見の庭つきみのにわだった。


「ここはね、公式には存在するんだけど、実はこっちの小道を通ると、誰にも会わずに行けるんです」


 日が傾き始め、庭園は柔らかな薄紫色の光に包まれていた。石の小道が蛇行し、池には月を映す準備をするかのように水面が静かに揺れている。周囲には白い花が咲き、かすかな香りが漂っていた。


「とても美しいわね...」


「ここはね、昔の皇帝が愛した妃のために作ったんだって。だから恋人たちの聖地なんですよ」


 勇姫は月見台と呼ばれる小さな丘に立ち、宮殿全体を見渡した。遠くに天輝殿てんきでんの金色の屋根が夕日に輝いている。


「小桃ちゃん、ありがとう。今日は色々教えてくれて」


「いえいえ!あたし、勇さんと一緒に過ごせて嬉しかったです!」


 小桃の笑顔は夕暮れの中でも輝いていた。勇姫は静かに微笑み、脳内スプシに今日巡った場所を全て記録する。そしてひとつ、「月見の庭:要再訪」とメモし、小さく付け足した—「できれば瑞珂と」。


 二人は黄昏時の紫霞宮しかきゅうを、秘密の小道を通って戻り始めた。明日からの公務にも、この知識がきっと役立つはずだ。


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