宮中の物資管理改革で大きな成果を出した私──
「あー、またやっちゃった...」
手元の紙に水滴が落ちた。茶碗をひっくり返したかと思ったが、そうではない。どうやら私の涙だった。
「大丈夫ですか、勇姫さま?」小桃が心配そうに覗き込んでくる。
「ええ、ただの疲れよ」笑顔を作ってごまかす。「最近忙しくて...」
「無理しすぎですよ!」小桃は真剣な顔で言った。「勇姫さまがいなくなったら、宮中の改革が止まっちゃいます!」
「大げさねぇ」私は笑った。「私なんかいなくても...」
「違います!」小桃は珍しく強い口調で遮った。「勇姫さまの"頭の中の表"があるからこそ、みんなが助かってるんです!」
その言葉に胸が熱くなる。「ありがとう、小桃」
この世界に来て二ヶ月余り。前世では評価されなかったスプシの腕前が、ここでは「異能」として尊重され、人々の役に立っている。皮肉なものだ。
資料整理に戻ろうとした時、軽いノックの音がした。
「失礼します」
静かな声とともに入ってきたのは、白凌だった。彼の澄んだ瞳が一瞬で部屋の状況を把握する。
「勇姫、資料の準備は順調か?」
「はい、あともう少しで...」
「では邪魔はしない」彼は静かに頷いた。「だが、ひとつだけ知らせておきたいことがある」
「何でしょうか?」
白凌は部屋の中を見回し、声を潜めた。
「明日の報告には、
私の背筋に冷たいものが走った。
「玄碧様が...?」
「うむ」白凌の表情は穏やかだが、目に警戒の色が浮かんでいる。「物資横流しの件で名前が挙がった以上、彼女も弁明の機会を求めたのだろう」
これは想定外だった。私の報告書には、玄碧の侍女たちの名前が明記されている。それを玄碧本人の前で読み上げるということは...
「私...どうすれば...」
「恐れる必要はない」白凌は静かに言った。「事実を述べるだけだ。そなたの報告書は完璧な根拠に基づいている」
「でも、玄碧様は宮中で強い影響力を...」
「それは確かだ」白凌は認めた。「正妃候補筆頭として、多くの支持者がいる。だが...」
彼は一瞬口を閉じ、何かを決意したように続けた。
「勇姫、そなたの"頭の中の表"を見せてほしい」
「え?」思わず声が上ずる。「見せるといっても、どうやって...」
「そなたの視点から説明してほしい」白凌は真剣な眼差しで言った。「そなたが見ている世界を、私も理解したい」
これは瑞珂も言っていたことだった。私の脳内スプシを、他の人に共有することは可能なのだろうか?
「試してみます」
私は目を閉じ、脳内スプシを開く。物資管理の表が浮かび上がる。色分けされた項目、数値、関連性を示す線...
「今、頭の中に表が見えています」目を閉じたまま説明する。「縦には物資の種類、横には移動日時と移動先...」
「それを紙に描くことはできるか?」
「はい、でも完全に再現するのは難しいです。頭の中ではもっと立体的で、関連性がすぐに把握できて...」
「やってみてほしい」
白凌の声には珍しく切迫感があった。私は大きな紙を広げ、頭の中の表を可能な限り書き写していく。色鉛筆を使って色分けし、線で関連性を示す。
「こんな感じです...」
約一時間後、紙の上に複雑な図が完成した。物資の流れ、数量の変化、関与した人物...すべてが視覚化されている。
白凌はじっと図を見つめていた。しばらくの沈黙の後、彼の口から驚くべき言葉が漏れた。
「これは...武器になる」
「武器、ですか?」
「その通りだ」白凌の目が鋭く光った。「情報を整理し、真実を見抜く力は、刀剣よりも強力な武器になりうる」
彼の言葉に、私は自分の能力を別の角度から見直した。確かに情報の整理は、単なる効率化だけでなく、隠された問題を浮き彫りにする力を持っている。
「明日の報告では、この図も見せるべきだ」白凌はきっぱりと言った。「陛下も殿下も、視覚的に理解されれば、より強く心を動かされるだろう」
「でも玄碧様が...」
「恐れるな」白凌の声には自信があった。「この図は動かぬ証拠だ。玄碧様といえども、事実の前では沈黙せざるを得ない」
白凌が私の能力を「武器」と表現したことは、不思議なほど心強かった。前世では単なる「仕事のスキル」だったものが、この世界では政治的な力を持つのだ。
「わかりました」私は決意を固めた。「この図も含めて報告します」
白凌はうなずき、立ち去ろうとした。扉に手をかけたところで、彼は振り返った。
「勇姫、そなたの能力は宮中に変革をもたらす可能性を秘めている。だが同時に危険も伴う」
「危険...」
「殿下の側近として警告しておく」白凌の声は厳かだった。「武器を持つ者は、常にその矛先を向ける相手を選ばねばならない」
深遠な言葉だった。私の改革が進めば進むほど、敵も増えていく。その矛先を誰に向けるのか...そして誰を守るのか。
「肝に銘じておきます」
白凌は満足げに頷き、静かに部屋を出ていった。
◆◆◆
翌日、いよいよ報告の時が来た。
玄碧は美しかった。漆黒の髪に鮮やかな緑の衣装。凛とした佇まいに高貴さが漂う。しかし、その目には冷たい敵意が光っていた。
「勇姫、報告を始めるがよい」皇帝の声に促され、私は深く息を吸った。
「はい。物資管理改革の成果について報告いたします」
淡々と事実を述べていく。改革前の状況、導入した新システム、そして得られた成果...
「物資の紛失が84%減少、過剰発注が67%減少、探索時間が75%短縮されました」
数字を示すと、皇帝の目に関心の色が浮かんだ。
「なかなかの成果だな」皇帝は頷いた。「経費削減はどの程度か?」
「概算で年間約20%の経費削減が見込まれます」
玄碧がわずかに身じろぎした。彼女の表情には若干の動揺が見える。
「そして...」ここからが難しい部分だ。「改革の過程で、いくつかの不正行為が明らかになりました」
部屋の空気が一気に緊張した。玄碧の目が針のように私を刺す。
「具体的に述べよ」皇帝の声に威厳が込められた。
「はい。高級絹織物や香料などの貴重品が記録なく持ち出されるケースが7件発見されました」私は白凌の作った図を広げた。「これが物資の流れを示す図です」
全員が図に注目する。色分けされた線と項目が、物資の不自然な動きを明確に示していた。
「こちらが正規の流れ、そしてこちらが記録にない流れです」私は赤い線を指さした。「特に、
玄碧の顔が僅かに赤くなった。
「これは何を暗示しているのだ?」皇帝の声に鋭さがある。
「暗示ではなく事実でございます」私は勇気を振り絞った。「目撃情報と記録によれば、紫煙閣の侍女三名が関与しています」
「名前は?」皇帝が問うた。
私は恐る恐る玄碧を見た。彼女の目は氷のように冷たかった。
「
「いずれも玄碧の侍女だな?」皇帝が玄碧に向き直った。
「陛下」玄碧はゆっくりと立ち上がり、優雅に一礼した。「私の侍女たちが関わっていたとしても、それは私の指示ではありません」
「ほう?」皇帝の眉が上がる。
「侍女たちが独断で行った不正でしょう」玄碧は落ち着き払っていた。「厳しく罰するべきです」
彼女の冷静さに、私は驚いた。自分の侍女を簡単に見捨てるとは。
「ただし」玄碧が続けた。「この勇姫という女官の報告は、すべて真実とは限りません」
「どういうことだ?」皇帝が問うた。
「彼女の"頭の中の表"なるものは、私たちには見えません」玄碧の声には皮肉が滲んでいた。「彼女の作った図は、いかようにも操作できるのでは?」
なるほど、そういう攻撃か。私の能力自体を疑問視することで、報告全体の信頼性を揺るがす作戦だ。
「陛下」瑞珂が静かに口を開いた。「勇姫の報告は、すべて物証に基づいています。彼女の作成した記録システムは、多くの女官が共同で運用しているもの。彼女一人で操作できるものではありません」
瑞珂の援護に、心の中で感謝した。
「さらに」白凌も加わった。「目撃証言も複数あります。老香女官をはじめ、五名の証言が一致しています」
玄碧の表情が硬くなった。彼女は作戦の変更を余儀なくされたようだ。
「では...」彼女は優雅に言葉を選んだ。「私の不明を恥じます。侍女たちの監督不行届きでした」
見事な手のひら返しだ。自分自身の関与は完全に否定し、侍女たちの責任にすることで身を守る。
「陛下」玄碧は深々と頭を下げた。「侍女たちを厳正に処罰し、二度とこのようなことが起きないよう努めます」
皇帝はしばらく黙って考えていたが、やがて厳かに言った。
「玄碧、そなたの侍女たちは厳罰に処す。だが、主人としての責任も忘れるな」
「はい、陛下」
「勇姫」皇帝が私に向き直った。「そなたの改革は成功している。物資管理の新システムは全宮中に広げるものとする」
「ありがとうございます」深く頭を下げる。
「さらに」皇帝は続けた。「そなたの次の改革案も聞きたい」
「はい!」心の中で小さくガッツポーズ。「次は宮中の情報伝達システムの改革を考えております」
「ほう?」皇帝の目に興味が浮かんだ。
「現在、情報は口頭や個別の書簡で伝えられており、伝言ゲームのように歪んだり遅延したりします。これを標準化された伝達様式と定期報告制度に変えることで...」
説明を続ける間、瑞珂の目が私を温かく見守っていた。彼の支持が心強い。
会議が終わり、私は大きく息を吐いた。玄碧との対決は緊張したが、何とか切り抜けた。
「よくやった、勇姫」廊下で瑞珂が声をかけてきた。
「殿下!ご支援ありがとうございました」
「当然だ」瑞珂は微笑んだ。「そなたの報告は完璧だった。特にあの図が効果的だったな」
「白凌さんのアドバイスで...」
「そうか」瑞珂は静かに頷いた。「彼も信頼しておるよ」
「ただ...」私は心配を口にした。「玄碧様は敵になってしまいました」
「覚悟していたことだろう?」瑞珂の目が真剣だ。「宮中の改革には、必ず抵抗がある」
「はい...」
「だが、恐れることはない」瑞珂の声には力があった。「そなたの武器があれば、どんな敵にも立ち向かえる」
「武器...」白凌と同じ表現だ。
「そうだ」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたの"頭の中の表"という武器で、宮中を変えていくのだ」
瑞珂が去った後、もう一人の人影が近づいてきた。白凌だ。
「言ったとおりだろう?」彼は静かに言った。「そなたの能力は武器になった」
「はい...」
「今日の報告で、多くの人々の目が開かれた」白凌の口元に微かな笑みが浮かぶ。「改革への支持が広がるだろう」
「玄碧様は敵になりましたが...」
「彼女は元から敵だった」白凌は冷静に言った。「ただ、今日からは表立って敵対するだけのことだ」
なるほど。表と裏。宮中政治の複雑さを改めて感じる。
「これからどうすればいいでしょう?」
「進み続けるのだ」白凌は静かに言った。「そなたの武器を磨き、使い続ける。殿下のためにも、宮中のためにも」
「はい!」
「ただし...」白凌が最後に警告した。「玄碧様は簡単には負けを認めない。今後、様々な妨害が予想される。用心するように」
「わかりました」
白凌が去った後、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「武器になる...か」
前世では単なる事務スキルだったスプシ脳が、この世界では権力者たちの命運を左右する武器になるなんて。
人生とは皮肉なものだ。しかし、この武器を正しく使う責任も感じる。誰のために、何のために使うのか。
その答えは、すでに心の中にあった。
「瑞珂殿下のために。そして、宮中で働く全ての人々のために」
私は静かに決意を固め、次の改革に向けて歩き出した。