尚書房での成功に気を良くした私──
「これはひどい...」
目の前に広がる倉庫は、まるで
「どうした、勇姫?」
振り返ると、霜蘭が心配そうに立っていた。この倉庫視察に同行してもらっていたのだ。
「これでは、何がどこにいくつあるのか、まったくわかりません」
霜蘭は小さくため息をついた。
「この混乱は数十年続いている。物資の管理は
「だからこそ改革が必要なんです」私は決意を固めた。「まずは在庫の把握から始めましょう」
霜蘭の眉が上がる。「全部か?それは気が遠くなるほどの作業だぞ」
「大丈夫です」私は自信を持って答えた。「私の"脳内スプシ"があります」
その日から、私は物資の
「勇姫さま、こちらの布は全部で32反ありました!」小桃が元気よく報告する。
「わかったわ」
私は目を閉じ、脳内スプシに情報を入力していく。
「絹織物...藍色系...32反...保管場所は北倉庫第二区画...」
翠葉が不思議そうな顔で見ていた。
「勇姫さん、いつも目を閉じて何をしているんですか?」
「ええと...」一瞬言葉に詰まる。「頭の中で表を作っているのよ」
「頭の中で表?」彼女の目が丸くなった。「それって
小桃が割り込んだ。
「そうなんですよ!勇姫さまは特別なんです!頭の中でスプ...なんとかができるんです!」
「スプシよ、小桃」思わず笑みがこぼれる。「スプレッドシートの略」
もちろん、この世界には「スプレッドシート」という言葉は存在しないはずだが、なぜか小桃は理解してくれる。彼女の純粋さが心地よい。
三日間の調査の結果、倉庫内の全物資を把握することができた。脳内スプシには膨大なデータが蓄積されている。
「次は、このデータを紙に起こさなきゃ」
尚書房に戻り、大きな紙に表を描き始めた。品名、数量、保管場所、担当者、最終確認日...必要な情報を整然と並べていく。
「これは...見事だな」
振り返ると、白凌が静かに立っていた。いつの間に入ってきたのだろう。
「白凌さん!」思わず声が上ずる。「お久しぶりです」
「うむ」彼は小さく頷いた。「皇太子殿下が、そなたの進捗を気にしておられる」
「殿下が...」胸がほんの少しだけときめいた。
「陛下への中間報告が近いからな」白凌は静かに言った。「これが次の改革というわけか?」
「はい」私は力強く頷いた。「在庫管理の混乱を解消します」
「興味深い」白凌の鋭い目が表に向けられた。「だが、物資管理には複雑な利権が絡んでいる。慎重に進めるように」
「利権...ですか?」
白凌は周りを見回し、声を潜めた。
「特に高級品や希少品には、様々な人物の思惑が交錯している。単なる物流の問題ではないのだ」
前世の会社でも、備品管理には意外な権力構造があった。パソコンやコピー機の調達権限が、部署間の力関係を示していたものだ。この宮中でも同じことなのだろう。
「アドバイスありがとうございます。気をつけます」
白凌は軽く頷くと、立ち去っていった。
◆◆◆
翌日、私は「物資移動記録表」なるものを作成した。誰が、いつ、何を、どこから、どこへ、どれだけ移動させたのかを記録するシステムだ。
「これからは、物資を移動させる際には必ずこの表に記入してください」
内務部と庶務部の担当者たちに説明する。彼らの表情は様々だった。
「めんどくさそうだなぁ...」若い女官がぼやいた。
「でも、これなら探し物がすぐに見つかりそうね」別の女官が期待を込めて言う。
それに対し、年配の管理者
「こんな面倒な手順、誰が守るというのだ?」彼女は鼻で笑った。「物を使うたびに記録なんて、時間の無駄だ」
「でも、老香様」私は丁寧に説明した。「現状では物資の紛失や重複発注が多発しています。それによる経費の無駄は相当なものです」
「ふん!」老香は不機嫌そうに腕を組んだ。「若い者は理屈ばかり...」
議論は平行線をたどりそうだったが、そこに思わぬ援軍が現れた。
「老香、陛下は経費削減を望んでおられる」
振り返ると、霜蘭が厳しい表情で立っていた。
「陛下が...」老香の表情が変わる。
「そうだ」霜蘭はきっぱりと言った。「勇姫の改革は、陛下と皇太子殿下のご意向だ。反対するならば、直接陛下にお伝えするといい」
それを聞いた老香は、しぶしぶと頷いた。
「わかった...やってみよう」
実際に運用が始まると、予想していた混乱が起きた。多くの女官たちが記録を忘れ、あるいは面倒くさがって省略した。物資はまた行方不明になり始める。
「どうすればいいでしょう...」
頭を抱えていると、小桃が明るい声で提案してきた。
「勇姫さま!『物資移動係』を作ってはどうですか?」
「物資移動係?」
「はい!」小桃が目を輝かせる。「物資を動かすのは指定された人だけにして、その人が必ず記録する。そうすれば間違いが減りますよね?」
「なるほど!」私は膝を打った。「小桃、それは素晴らしいアイデアよ!」
小桃の頬が赤くなる。「ほ、ほんとですか?」
「ええ!物資の移動を職務として明確にすれば、責任が分散せずに済むわ」
早速、「物資移動係」を設置することにした。各部署から一名ずつ選出し、彼女たちだけが物資の出し入れを担当する。すべての移動は記録され、定期的にチェックされる。
「あら、これは面白そうね」
内務部の若い女官
「私、やってみたいわ。この混沌とした倉庫が整理されるなんて、見てみたいもの」
「ありがとう、翡翠さん!」私は嬉しくなった。「あなたのような協力者がいると心強いわ」
一方、老香は今でも懐疑的だった。
「まあ、若い者の遊びだと思って見ていよう」彼女は肩をすくめた。「長続きするとは思えんがな」
◆◆◆
物資移動係の設置から一週間後、予想外の効果が出始めた。
「勇姫さま、大変です!」
小桃が慌てた様子で駆け込んできた。
「どうしたの?」
「倉庫で不思議なことが起きているんです!」
私は小桃に連れられて倉庫へ急いだ。そこには数人の女官が集まり、何かを見つめていた。
「これは...」
目を疑う光景だった。高級絹織物の束が、明らかに減っている。昨日まで32反あったはずなのに、今は25反しかない。
「移動記録表には何も書いてありません」翡翠が報告した。「なのに減っている...」
私は脳内スプシを開き、データを確認する。確かに記録上は32反のはずだ。
「誰かが無断で持ち出したのね...」
翡翠が小声で言った。
「勇姫様、これはつまり...横流しということでしょうか?」
宮中物資の横流し──それは重大な問題だ。だが、それを証明するには証拠が必要。
「まだ断定はできないわ」私は慎重に答えた。「他の可能性も考えましょう」
だが心の中では、これこそが白凌の言っていた「利権」の一端なのだろうと察していた。
翡翠の目が輝いた。
「でも、勇姫様!これはあなたの制度が機能している証拠ですよ!以前なら、こんな不一致に誰も気づかなかった」
「確かにそうね...」
私たちの会話を遠くから老香が聞いていた。彼女の表情が微妙に変わる。
その日の夕方、老香が私のもとに来た。
「勇姫...」彼女はいつになく真剣な表情をしていた。「今日の件についてだが...」
「はい?」
「その...」老香は言葉を選ぶようだった。「実は似たようなことは前々から起きていたのだ」
「え?」
「高級品が少しずつ減る。それを補うために余分に発注する。予算が膨らむ。そして誰かがその差額を...」老香は言葉を濁した。
「誰かが利益を得ているということですか?」
老香はただ黙ってうなずいただけだった。
「なぜ今までそれを...?」
「言えるわけがなかろう」老香の目に悔しさが浮かんだ。「証拠もなく、相手が誰かもわからぬのに」
「でも、今回は違う」私は静かに言った。「記録があるから、不一致が明確になった」
「そうだ...」老香の表情が変わった。「そなたの制度は、実は役に立つのかもしれん」
彼女のような強硬反対派からのこの言葉は、大きな進歩だった。
「協力してください、老香さん」私は真剣に頼んだ。「宮中の物資を守るために」
老香はしばらく考え込んでいたが、やがて決意を固めたように頷いた。
「わかった。この老婆に何ができるか、わからんがな」
◆◆◆
翌日、私は瑞珂の執務室に呼ばれた。
「勇姫、物資管理での問題を聞いた」瑞珂の表情は厳しかった。
「はい...高級絹織物の不一致が見つかりました」
「これは予想していたことだ」瑞珂は静かに言った。「宮中物資の横流しは長年の問題だった。だが...」
「だが?」
「証拠がなかった」瑞珂の目に決意が浮かぶ。「そなたの制度のおかげで、初めて具体的な数字が見えてきた」
「でも、犯人はまだ...」
「それは時間の問題だ」瑞珂はきっぱりと言った。「続けよ、勇姫。そなたの改革は確実に成果を上げている」
瑞珂の言葉に、勇気をもらった。
「はい!これからも頑張ります」
執務室を出ると、白凌が廊下で待っていた。
「話を聞いたぞ」彼は静かに言った。「物資の不一致が見つかったそうだな」
「はい...」
「用心するように」白凌の声は警告に満ちていた。「利権を脅かされた者は、黙ってはいないだろう」
「誰が関わっているのか、わかりますか?」
白凌は周りを警戒するように視線を巡らせ、ささやくように言った。
「玄碧様の侍女の一人が、紫煙閣への物資運搬に関わっている。それ以上は私にもわからん」
玄碧──その名前を聞くだけで緊張が走る。彼女は私の改革に最も反対している人物だ。
「気をつけます」
「良い」白凌は静かに頷いた。「だが、恐れる必要はない。殿下がついておられる」
その言葉に、少し安心した。
◆◆◆
その後も在庫管理の改革は着々と進んだ。物資移動係のシステムが定着し、記録の精度が向上していく。不一致の発見も続き、少しずつ問題のある流れが見えてきた。
ある日、私は最後の改革を提案した。「役割分担表」の導入だ。
「これは何ですか?」翡翠が興味深そうに尋ねた。
「物資管理に関わる全員の役割を明確にするものよ」私は表を指さした。「誰が何を担当し、誰に報告し、どのような権限を持つのか...すべてが一目でわかるようになっているの」
老香が眉をひそめた。
「また新しいシステムか...」
「でも、老香さん」私は笑顔で言った。「これなら責任の所在が明確になります。あなたの部下が勝手なことをしても、あなたのせいにはなりませんよ」
その言葉に、老香の表情が和らいだ。
「ふむ...それは悪くないな」
役割分担表の導入は比較的スムーズに進んだ。女官たちは自分の責任範囲が明確になることで、むしろ安心したようだ。
一ヶ月後、物資管理の改革の成果をまとめる時が来た。
「霜蘭さん、見てください」
私は最終報告書を差し出した。
「物資の紛失が84%減少、過剰発注が67%減少、探索時間が75%短縮...」霜蘭の目が見開かれていく。「これは驚異的な数字だな」
「はい」私は誇らしげに答えた。「さらに、不正な持ち出しと思われる事例が7件見つかりました」
霜蘭の表情が引き締まる。
「証拠は?」
「すべて記録してあります」私は別の書類を差し出した。「日付、時間、品目、数量、そして...関与した人物の目撃情報も」
「これは...
「はい」私も声を潜めた。「玄碧様の側近が関わっているようです」
霜蘭はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて静かに言った。
「勇姫、よく頑張った。これは皇太子殿下と陛下に直接報告すべきことだ」
「はい」
「だが、」霜蘭は真剣な顔で警告した。「これで玄碧様を敵に回すことになる。覚悟はできているな?」
私は深く息を吸い、そして吐いた。
「はい。真実を伝えることが私の役目です」
霜蘭は満足げに頷いた。
「そうだ。そなたには味方がいることを忘れるな」
その夜、私は清風院の部屋で、翌日の報告の準備をしていた。小桃がお茶を運んできた。
「勇姫さま、明日の報告、緊張しますか?」
「ええ、少しね」正直に答える。「特に玄碧様の件は...」
「大丈夫です!」小桃は力強く言った。「勇姫さまは正しいことをしているんですから!」
「ありがとう、小桃」彼女の純粋な応援に笑みがこぼれる。
「それに...」小桃が意味深な笑みを浮かべた。「皇太子様が味方ですもん♪」
「もう!またからかって!」思わず頬が熱くなる。
「だって本当ですよ~」小桃はくすくす笑った。「殿下、勇姫さまのこと『特別な才能の持ち主』って、いつも周りに言ってるんですよ~」
「そ、そんな...」
心の奥で、小さな喜びが広がるのを感じた。
翌日の報告に向けて、私は気持ちを引き締めた。在庫管理、物資移動、役割分担──これらをスプシで整理したことで、宮中の無駄と不正が明るみに出た。次は、それを正面から伝える番だ。
たとえ玄碧という強大な敵ができようとも、後には引けない。私には武器がある。脳内スプシという強力な武器が。
「さあ、明日も頑張ろう」