皇太子殿下の書記官という新しい地位を得た私──
「緊張するなよ」白凌が珍しく優しい声で言った。「形式的な儀式にすぎん」
「はい...でも」私は正直に答えた。「女官から皇太子直属の役人になるなんて、前例があるのでしょうか?」
「ない」白凌はきっぱりと言った。「だからこそ注目される」
それは心強い言葉とは言い難かった。注目されるほど、敵も増える。
政務殿に到着すると、さっそく視線を感じた。廊下には様々な官服を着た男性官僚たちが立ち、私と白凌を見て小声でひそひそと話している。
「あれが噂の女官か?」
「皇太子様の新しい書記官だとか...」
「女が政務殿に?茶番も甚だしい」
耳に入ってくる言葉は、あまり友好的ではない。
「気にするな」白凌は平然と言った。「彼らは変化を恐れている」
大広間に入ると、列をなして座る高官たちの姿があった。整然と並ぶ机に座った彼らは、まるで見世物でも見るかのように私を注視している。その中央に、一人の老人が厳かに座っていた。
「
「はぁ...」思わず緊張で息が漏れる。
太宰は髭の長い老人で、威厳ある様子だった。その目はあまり友好的ではなく、むしろ懐疑的だ。
「勇姫・・・」太宰が私の名を呼んだ。「皇太子殿下の書記官に任命されるという者か」
「はい」私は深々と頭を下げた。「
「聞くところによると、そなたは女官だったそうだな?」太宰の声には明らかな疑念が含まれていた。「どうして政務に携わる資格があると?」
緊張しながらも、背筋を伸ばす。
「陛下と皇太子殿下のご命令です」
太宰の表情が少し硬くなった。直接皇帝の命令を持ち出されては、反論できない。
「ふむ...」彼は深いしわのある額をさらに寄せた。「そなたの改革について聞いている。尚書房と物資管理を一変させたとか」
「はい、多くの方々のご協力のおかげで...」
「では」太宰が突然言った。「そなたの手法を説明してみよ」
「手法、ですか?」
「うむ」太宰は厳しい目で私を見据えた。「どうやって混乱した状況を整理したのか。我々にもわかるように説明するのだ」
これは予想外の展開だった。スプシの説明を?この中世のような世界の官僚たちに?
「それでは...」私は少し考え、できるだけわかりやすく説明することにした。「私は頭の中で表を作ります。縦と横の線が交差した枡目があり、そこに情報を整理して入れていくのです」
広間に違和感のある静けさが広がった。
「表?枡目?」太宰が眉を寄せた。「もっと具体的に」
「例えば物資管理では、縦軸に品目、横軸に場所と日時を設定し...」
説明を続けるほど、官僚たちの表情が奇妙になっていく。彼らは互いに視線を交わし、首を傾げ、中には明らかに嘲笑している者もいた。
「勇姫」太宰が私の説明を遮った。「そなたは頭の中に見えない表があると言うのか?」
「はい、その通りです」
広間にざわめきが広がる。
「狂気の沙汰だ!」
「頭の中の表?笑わせる」
「これで政務を任せるというのか?」
様々な声が聞こえてくる。太宰は手を上げて場を静めた。
「勇姫、その"表"を我々に見せることはできるか?」
「紙に描くことはできますが、完全な再現は難しいです。頭の中では三次元的で...」
「三次元?」太宰の声が大きくなった。「そなたは何を言っているのだ?」
状況は悪い方向に進んでいる。私の説明が理解されないばかりか、狂人扱いされているように感じる。
その時、白凌が一歩前に出た。
「太宰大人」彼は静かだが力強い声で言った。「勇姫の手法は確かに異例ですが、結果は明白です。尚書房の効率は30%向上し、物資の無駄は84%削減されました」
「数字だけでは...」
「さらに」白凌が続けた。「皇太子殿下の政務文書も完璧に整理され、陛下も満足されています」
「陛下が...」
太宰の反論が弱まる。結果を否定することはできない。
「太宰殿」別の官僚が口を開いた。「
「神算術?」
「はい」その官僚は真面目な顔で言った。「古の賢者が持っていたという、数を操る秘術です。頭の中に見えない表を作るというのは、まさにその特徴」
「ほう...」太宰の目に興味の色が浮かんだ。「勇姫、そなたは神算術を学んだのか?」
「いえ、私は...」
白凌が私の足を軽く踏んだ。沈黙の警告だ。
「勇姫は生まれ持った才能です」白凌が滑らかに言った。「異能の一種でしょう」
「異能か...」
太宰と官僚たちは急に私を別の目で見始めた。警戒と疑いの目は、好奇心と畏怖の混ざった視線に変わっていく。
「それならば理解できる」太宰は納得したように頷いた。「異能者が宮中に現れるのは百年に一度の祥瑞と言われる」
祥瑞?私が?
「辞令を与えよう」太宰は大きな紙を広げ、私に向かって言った。「
「ありがとうございます」深々と頭を下げる。
「だが覚えておけ」太宰は厳しい目で私を見た。「異能であれ何であれ、宮中の秩序を乱すようなことがあれば、容赦はせぬ」
「はい、肝に銘じます」
◆◆◆
政務殿を出ると、私はようやく緊張から解放された。
「はぁ...なんとか終わりましたね」
「うむ」白凌は少し笑みを浮かべていた。「興味深い展開だったな」
「神算術って何ですか?」
「古代の数学者たちが使ったという計算法だ」白凌は説明した。「頭の中で複雑な計算ができるという話だが、実際に使える者はいない。ほとんど伝説だ」
「なのに、私がそれを使えると?」
「そう思われた方が都合がいい」白凌の目が鋭く光った。「宮中の者たちは、理解できないものを『異能』や『秘術』と呼ぶことで納得する。そのほうが受け入れやすいのだ」
なるほど。私のスプシ脳は、この世界では神秘的な能力として解釈される方が理にかなっているわけだ。
「とにかく、正式に書記官になれましたね」
「うむ」白凌は頷いた。「だが...噂は既に広がっている」
「噂?」
執務棟に向かう道すがら、廊下を行き交う人々が私を見て立ち止まり、ひそひそと話す姿が見えた。
「新しい書記官は神算術を使えるらしい」
「頭の中に見えない表があるとか...」
「皇太子様が異能者を抱えたというわけか」
白凌が小声で言った。
「今日の出来事で、そなたはさらに注目されることになった」
「それは...良いことですか?悪いことですか?」
「両方だ」白凌は冷静に答えた。「味方にとっては頼もしい存在、敵にとっては警戒すべき相手になった」
廊下の角を曲がると、突然人影にぶつかりそうになった。
「おや、これは勇姫殿か」
優雅な衣装をまとった男性が立っていた。四十代くらいだろうか、物腰の柔らかい、しかし目の鋭い人物だ。
「
宰相!?皇帝の右腕とも言える最高官僚だ。私も慌てて深々と頭を下げた。
「白凌、この者が噂の才女か」宰相は私を上から下まで見た。「興味深い」
「はい、勇姫は皇太子殿下の新しい書記官です」
「神算術が使えるという噂は本当かね?」宰相の目に好奇心が光る。
「私は...」言葉を選ぶ。「頭の中で情報を整理する方法を知っているだけです」
「謙虚だな」宰相は微笑んだ。「だが、どんな技でも結果が全てだ。皇太子の政務文書を整理したそうだな」
「はい」
「それだけでも十分な功績だ」宰相は意外な言葉をかけた。「私の執務室も、君のような才能が必要だ」
「え?」
「冗談だよ」宰相は軽く笑った。「皇太子様を怒らせるわけにはいかない」
そう言って、宰相は私たちの前を通り過ぎた。去り際に、彼は振り返って言った。
「勇姫殿、宮中は才能を持つ者を常に求めている。だが同時に、破壊する力も持っている。気をつけるがいい」
意味深な言葉を残して、宰相は歩き去った。
「宰相までもが私に興味を?」
「当然だ」白凌は冷静に言った。「彼は情報の価値をよく知る人物だ。そなたの能力は、情報を整理し価値を見出す。その才能を欲しがるのは自然なこと」
宮中での私の立場が、急速に変化していることを実感した。一介の女官から、皇太子の書記官へ。そして今や「異能を持つ才女」として、高官たちから注目される存在に。
「白凌さん」私は少し不安になって言った。「こんなに注目されると、玄碧様からの報復も...」
「その通りだ」白凌は厳しい表情になった。「だからこそ、油断するな。常に周囲に気を配り、食べ物や飲み物にも注意せよ」
「毒を...?」
「可能性は低いが、ゼロではない」白凌の声は静かだが重々しかった。「特に、これから会う人物には警戒が必要だ」
「これから?」
「うむ」白凌が頷いた。「皇太子の書記官として、まず面会すべき相手がいる。
◆◆◆
文官長の執務室に案内された私は、初めて会う人物に好奇心を抱いていた。文官長とは、皇帝直属の文官たちを統括する役職だ。つまり、官僚たちのトップと言っていい。
部屋に入ると、年配の男性が机に向かって座っていた。彼は髪に白いものが混じり、しわの刻まれた顔をしていたが、目は鋭く光っている。
「ようこそ、勇姫殿」文官長は穏やかな声で言った。「私は
「お目にかかれて光栄です」私は丁寧に頭を下げた。
「座りなさい」彼は机の前の椅子を指した。「白凌殿は外でお待ちください」
白凌は一瞬躊躇ったように見えたが、静かに部屋を出た。二人きりになり、少し緊張する。
「緊張する必要はありませんよ」鄧明はにこやかに言った。「ただの挨拶です」
「ありがとうございます」
「さて」鄧明はお茶を勧めながら話し始めた。「勇姫殿の噂は聞いております。"頭の中に表がある"とか」
またその話か。私は苦笑いを浮かべた。
「皆さん、不思議がるようですね」
「当然でしょう」鄧明は親しげに言った。「我々の理解を超えた能力ですからね」
お茶に手を伸ばしかけて、白凌の警告を思い出す。しかし、目の前でお茶が入れられたのを見たし、文官長自身も同じものを飲んでいる。大丈夫だろう。
一口飲んで、話を続ける。
「私の能力は、ただの整理術にすぎません」
「謙遜なさるな」鄧明は笑った。「皇太子殿下の政務を救った功績は大きい」
「ありがとうございます」
「私が気になるのは」鄧明の声が少し低くなった。「その能力を今後どう活かすのかということです」
「今後...ですか?」
「そう」鄧明は穏やかだが鋭い目で私を見た。「宮中には多くの派閥があります。皇太子派、皇弟派、宰相派、保守派...」
「私は皇太子殿下に仕えるだけです」きっぱりと答える。
「立派な心構えです」鄧明は頷いた。「だが、才能ある者は常に引っ張りだこになる。特に、情報を扱う才能は」
これは宰相と似たような話だ。私の能力が政治的に利用される可能性について警告しているのだろうか。
「私は...」
「勇姫殿」鄧明が遮った。「あなたはまだ宮中の深い闇を知らない。表の政治と裏の駆け引き、どちらも見ずして生き残ることはできない」
彼の言葉に、冷たいものを感じた。
「文官長様、私に何を求めておられるのでしょうか?」
鄧明はしばらく沈黙し、やがて微笑んだ。
「正直な方ですね。気に入りました」彼はお茶を飲みながら続けた。「今は何も求めていません。ただ、才能ある方に挨拶したかっただけです」
その言葉が本当かどうか、判断できない。
「ありがとうございます」とりあえず礼を言っておく。
「皇太子殿下の書記官として、これから多くの文書に触れることになるでしょう」鄧明は淡々と言った。「その中には、宮中の秘密も含まれている。どう扱うかは、あなた次第です」
「私は殿下に忠実です」再度強調する。
「それは結構」鄧明は立ち上がった。「今日はお互いを知るための挨拶でした。今後ともよろしくお願いします」
部屋を出ると、白凌が心配そうに待っていた。
「無事か?」
「はい...」
「何を話した?」
「宮中の派閥のことや、情報の扱い方について...」私は首を傾げた。「何か探りを入れられていたような...」
「当然だ」白凌はきっぱりと言った。「そなたは今や宮中政治の駒になった。文官長も、そなたの立場を把握したかったのだろう」
「駒...ですか」
「皇太子の駒だ」白凌は補足した。「そなたの立場は明確だが、それでも他派閥は引き抜こうとするだろう」
政治的な立ち位置の複雑さに、少し疲れを感じる。
「今日一日で、色々な人に会いましたね...」
「これからもっと増える」白凌は予告した。「"神算術を使う才女"として、多くの人があなたに接触してくるだろう」
◆◆◆
その予言は見事に的中した。翌日から、様々な官僚や宮中の高官たちが、何かと理由をつけて私に会いに来るようになった。
「勇姫殿、この書類の整理法を教えていただけないでしょうか?」
「神算術について、もう少し詳しく...」
「陛下の予算管理にも、そなたの才能が必要かもしれん」
中には明らかに探りを入れるだけの者、私の能力を試そうとする者、単純に好奇心から会いに来る者もいた。
ある日、瑞珂の執務室で仕事をしていると、彼が突然笑い出した。
「どうされました?」私が不思議そうに尋ねると、瑞珂はくすくすと笑いながら言った。
「勇姫の噂を聞いたのだ」
「噂...ですか?」
「うむ」瑞珂は楽しそうに続けた。「"神算術を操る謎の才女"、"頭の中に見えない表を持つ異能者"、"皇太子の秘密の軍師"...などなど」
「そんな...」思わず赤面する。
「面白いではないか」瑞珂の笑顔は明るかった。「宮中がこれほど一人の人物に注目するのは珍しい」
「恥ずかしいです...」
「恥じる必要はない」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたの才能は本物だ。人々がどう解釈しようと、結果が全てを証明している」
その言葉に、少し勇気をもらえた。
「それに」瑞珂が続けた。「この"謎の才女"という評判は、我々の改革にも役立つだろう」
「どういうことですか?」
「人は神秘的なものを恐れる」瑞珂は意外な洞察を述べた。「そなたの改革案が"神算術に基づく"と思われれば、反対しづらくなる」
なるほど。私の能力が理解不能だからこそ、改革への抵抗が薄れるという皮肉な効果。
「それを利用するというわけですね」
「正確には、誤解を正さないだけだ」瑞珂は賢そうに微笑んだ。「宮中政治は時に、誤解をそのままにしておくことが最善となる」
瑞珂の政治的センスに感心する。彼は見かけによらず、駆け引きが上手い。
「では、この"神算術の才女"を演じましょうか」私も少し楽しくなってきた。
「演じる必要はない」瑞珂は真剣な眼差しで言った。「そなたはそのままでいい。ただ、その能力を最大限に活かせばいい」
「はい!」
その日から、私は"謎の才女"という評判を気にしないよう心がけた。官僚たちが私の説明を理解できなくても、結果が出れば良いのだ。
時に、わざと少し神秘的な言い回しを使ってみることもあった。
「この表は三次元の構造になっていて、時間軸で見ると将来の傾向が見えるのです」
「情報の流れには目に見えないパターンがあり、それを頭の中で可視化すると...」
言葉で説明できないことを曖昧に表現すると、相手はかえって納得するのが面白かった。
小桃は私の新たな評判に大喜びだった。
「勇姫さま!宮中の女官たちの間でも大評判ですよ!」彼女は目をキラキラさせて報告してくれる。「皆『勇姫様に会ってみたい』って!」
「そう...」少し照れくさい。
「神算術が使えるなんて、すごいじゃないですか!」
「小桃...あれはただのスプレッドシートよ」
「スプシがどんなものか、勇姫さまからすごく聞きました!」小桃は熱心に言った。「でも他の人には理解できないんですよ。だから神秘的に見えるんです!」
彼女の素直な反応に笑みがこぼれる。確かに、スプシが存在しない世界では、スプシの概念自体が異質なのだろう。
数週間が過ぎると、私の評判はさらに広がっていった。今や宮中の誰もが「神算術の才女」として私を知るようになり、道を歩けば好奇心に満ちた視線を感じるようになった。
瑞珂の予想通り、この評判は改革にも役立った。私が作成した新しい文書管理システムや情報伝達方法は、「神算術に基づく」という理由だけで受け入れられるようになった。反対するにしても、「理解できないから」という理由では弱いのだ。
ある日、瑞珂が嬉しそうな表情で執務室に入ってきた。
「勇姫、良い知らせだ」
「何でしょう?」
「父上が、そなたの神算術に興味を持たれたそうだ」瑞珂は楽しそうに言った。「宮中の財政管理にも活用したいとのこと」
「陛下が...!」
これは大きな進展だ。皇帝が直接私の能力を認めてくれたことで、改革はさらに加速するだろう。
「感謝の言葉もありがたいが...」瑞珂は首を傾げた。「どうして笑っているんだ?」
「いえ...」思わず漏れた笑みを隠せない。「前世...いえ、以前の私は、ただの事務員で...それが今や『神算術の才女』として皇帝に認められるなんて...」
人生の皮肉に、可笑しくてたまらなかった。スプシがこんな形で評価される日が来るとは。
「そなたは特別だ」瑞珂は真剣な表情で言った。「どこからその才能が来たのかは知らぬが、宮中を変える力を持っている」
「ありがとうございます、殿下」
だんだんと、この「謎の才女」という役割が心地よくなってきた。理解されなくても、結果を出し続ければ良い。
私はスプシという武器を携え、これからも宮中の改革を進めていく。たとえ「神算術」と誤解されようとも、それもまた、改革のための道具になる。
「明日からは、宮中財政の改革に取り掛かりましょう」私は決意を新たにした。
瑞珂は満足げに頷いた。「我が書記官は、まさに"神算術の才女"だな」