玄碧の追放から一週間が経ち、私——
「ふぅ…」
清風院の窓から朝日を眺めながら、深いため息をつく。目の前には山積みの書類。紫煙閣の立て直しは想像以上に大変な仕事だった。
「勇姫さまー!」
いつものように小桃が元気よく部屋に飛び込んできた。
「おはよう、小桃」私は笑顔で迎える。「今日も元気ね」
「はい!だって大変なことになってるんですよ!」
「え?何かあったの?」思わず身構える。
「宮中中が噂してるんです!」小桃の目が星のように輝いていた。「"特使から補佐官へ"って!」
「補佐官?」首を傾げる。「どういうこと?」
「わかりません!」小桃は両手を振った。「でも、陛下の侍従が『勇姫様の新たな任命について』って話してたって!」
また何かあるのか。最近は毎日が波乱万丈で、心の準備が追いつかない。
「ま、噂は噂よ」肩をすくめた。「あまり気にしないことね」
小桃がなにか言い返そうとした時、扉が再び開いた。
「失礼します」
白凌の静かな声。彼の表情はいつも通り読みづらいが、どこか晴れやかさが感じられる。
「白凌さん、どうしたんですか?」
「殿下がお呼びです」彼は丁寧に言った。「急ぎのようです」
「瑞珂殿下が?」
「はい」白凌はわずかに頭を下げた。「そして陛下も同席されるとのこと」
小桃が「わっ!」と小さく声を上げる。彼女の噂は当たっていたようだ。
「わかりました」私は立ち上がった。「すぐに参ります」
◆◆◆
「や、やばい...」思わず前世の言葉が漏れる。
「大丈夫だ」白凌が小声で言った。「堂々としていれば」
深呼吸して、私は前に進んだ。
「勇姫、よく来た」皇帝の穏やかな声が部屋に響く。
「お召しいただき光栄です、陛下」私は深々と頭を下げた。
「今日は特別な会議だ」皇帝は微笑みながら言った。「宮中の新たな体制について話し合う」
新たな体制?私は瑞珂の方を見た。彼の表情には、何か大きな決断をしたような覚悟が見える。
「勇姫」皇帝が続けた。「そなたの宮中改革特使としての働きは、素晴らしいものだった」
「恐縮です...」緊張で声が小さくなる。
「わずか一週間で、玄碧の後の紫煙閣を立て直し、さらに文官長の汚職によって乱れた財政システムまで改善した」皇帝は満足げに言った。「これほどの手腕を持つ者は珍しい」
周囲の高官たちからもざわめきが起こる。中には明らかに不満そうな顔もあるが、多くは認める様子だ。
「そこで」皇帝の声が一段と厳かになった。「本日、新たな決断を下すことにした」
会議室の空気が引き締まる。
「瑞珂、そなたから発表せよ」
瑞珂が一歩前に出た。彼の凛とした姿は、皇太子としての威厳に満ちている。
「勇姫」彼は真剣な眼差しで私を見つめた。「そなたを私の正式な補佐官に任命したい」
「補佐...官?」思わず言葉を繰り返す。
「うむ」瑞珂は頷いた。「書記官ではなく、補佐官だ。宮中改革特使の役目も兼ねて」
「でも...」私は混乱していた。「補佐官といえば、高官の地位ですよね?私のような平民出身の女官が...」
「もはや女官ではない」皇帝が言った。「そなたは功績により、
「従四位!?」
周囲から驚きの声が上がる。従四位は相当な高位で、平民からの一足飛びの昇進は前代未聞だ。
「陛下...」私は膝が震えるのを感じた。「このような栄誉は...」
「受けるに値する」皇帝はきっぱりと言った。「宮中は能力によって評価されるべきだ。そなたはその証明となる」
瑞珂が再び口を開いた。
「勇姫、私はそなたの力を必要としている」彼の声には真摯さが込められていた。「これからの宮中を、共に変えていこう」
この状況があまりにも突然で、現実感がない。前世では普通の社畜だった私が、異世界の宮廷で高官に昇進するなど、誰が想像しただろう。
「お受けします」声が震えないよう努めながら答えた。「瑞珂殿下と宮中のために、全力を尽くします」
「よろしい」皇帝は満足げに頷いた。「では、これより儀式を行う」
◆◆◆
荘厳な授位の儀式が終わり、高官たちがそれぞれ祝辞を述べていった。形式的なものが多いが、霜蘭の言葉だけは心に響いた。
「勇姫」彼女は珍しく感情を込めて言った。「あなたの昇進は、単なる運ではない。自らの力で勝ち取ったものだ。誇りに思うといい」
「ありがとう、霜蘭」私は心から感謝した。
儀式が終わると、瑞珂が私を中庭へと誘った。春の陽光が穏やかに降り注ぐ美しい庭で、二人きりになる。
「疲れただろう?」瑞珂が優しく尋ねた。
「はい...」正直に答える。「すべてが夢のようです」
「夢ではない」瑞珂は微笑んだ。「そなたは確かな足跡を残してきた」
彼は池の縁に腰掛け、私にも同じようにするよう手招きした。通常なら皇太子と並んで座るなど考えられないが、今や私は補佐官。新しい立場に、まだ慣れない。
「勇姫」瑞珂が静かに言った。「実は今回の決断には、別の理由もある」
「別の理由?」
「うむ」彼の表情が真剣になる。「父上の体調が最近すぐれないのだ」
「え?」思わず息を呑む。「陛下が...?」
「まだ大事ではない」瑞珂は急いで付け加えた。「だが、いずれ私が皇位を継ぐ日が来る。その時のために...」
「なるほど...」理解が浮かび上がる。「殿下の即位に向けた布石なのですね」
「そうだ」瑞珂は頷いた。「父上も、私も、そなたを信頼している。宮中改革を続け、新しい時代への礎を築いてほしい」
「私に、そんな大役が...」
「できる」瑞珂はきっぱりと言った。「そなたにしかできない」
水面に映る二人の姿が、春風でわずかに揺れる。瑞珂の真剣な表情に、責任の重さを実感する。
「勇姫」彼の声が柔らかくなる。「あの日、初めて会った時から感じていた。そなたは特別だと」
「特別...」思わず頬が熱くなる。
「うむ」瑞珂は水面を見つめながら続けた。「私は宮中で生まれ育ち、多くの人を見てきた。だが、そなたのような人物は初めてだ」
「それは...」
「遠慮はいらない」瑞珂が私の方を向いた。「そなたの価値を、自覚するのだ」
彼の真摯な眼差しに、言葉を失う。
「勇姫」瑞珂はゆっくりと手を伸ばし、私の手を取った。「君こそが、未来の礎だ」
その瞬間、時が止まったように感じた。皇太子の温かな手と、その言葉の重み。前世では想像もできなかった場面だ。
「殿下...」
「これからは、もっと近い存在として共に歩もう」瑞珂の声には決意が込められていた。「補佐官として、そして...」
言葉の続きは言わなかったが、その意味するところは伝わってきた。頬がさらに熱くなる。
「全力で支えます」私は真剣に答えた。「殿下のために、宮中のために」
瑞珂は満足げに頷き、やがて手を離した。だが、その温もりは私の心に残り続けた。
◆◆◆
清風院に戻ると、小桃が大きな目で待ち構えていた。
「勇姫さまぁ!」彼女は興奮気味に駆け寄ってきた。「本当に補佐官になったんですね!?」
「ええ」私は微笑んだ。「従四位の位までいただいたわ」
「うわぁ!すごいです!」小桃は飛び跳ねるように喜んだ。「勇姫さまは本当にすごいんです!あたし、最初から信じてました!」
彼女の無邪気な喜びに、心が温かくなる。
「ところで」小桃が急に声を潜めた。「殿下と何をお話されたんですか?二人きりで中庭に行かれたって噂で...」
「もう噂になってるの?」思わず苦笑する。「別に...公務の話よ」
「えー?」小桃は不満げに頬を膨らませた。「それだけじゃないですよね?殿下、勇姫さまのこと特別扱いしてますもん!」
「そんなことないわよ」ごまかそうとするが、頬が熱いのを感じる。
「あるある!」小桃はくすくす笑った。「殿下の目、いつも勇姫さまを追いかけてますよ〜」
「もう、からかわないで!」
小桃との和やかな会話の一方で、心の中は複雑な思いが渦巻いていた。補佐官という重責。瑞珂の信頼。そして、芽生え始めた感情。
その夜、窓から月を眺めながら、私は思いを馳せた。
「未来の礎...か」
社畜時代、誰かに「あなたが礎だ」なんて言われたことはなかった。いつもコピー機の前で佇む、取り替え可能な歯車でしかなかった。
だが今、一人の人間として認められ、重要な役割を任された。それは、かつての私が夢見ることさえしなかった現実。
「記録し続けよう」
私は月に誓うように呟いた。この世界で与えられた使命を全うするために。瑞珂の言葉を胸に刻みながら。
◆◆◆
翌日、新しい執務室に案内された。以前の小さな部屋とは比べものにならない広さと豪華さに、一瞬たじろいでしまう。
「こちらが勇姫様の執務室です」案内役の侍従が深々と頭を下げる。
「あ、ありがとう...」
しばらくして、瑞珂が訪ねてきた。
「居心地はどうだ?」彼は微笑みながら尋ねた。
「まだ慣れません」正直に答える。「前世...いえ、以前はもっと狭い部屋で働いていたので」
「そうか」瑞珂は優しく笑った。「だが、この地位にふさわしい場所だ。誇りを持つがいい」
「はい」
「それで」瑞珂の表情が少し引き締まった。「最初の仕事だが...」
「なんでしょう?」
「玄碧が去った後の紫煙閣の改革は一段落したが」瑞珂は言った。「次は宮中全体の財政改革だ」
「財政改革...」
「うむ」彼は頷いた。「文官長の汚職はまだ氷山の一角かもしれない。宮中のすべての財政を透明化する必要がある」
大きな仕事だ。しかし、スプシの力があれば不可能ではない。
「承知しました」私は決意を込めて言った。「スプシの力を全開にして取り組みます」
「頼もしい」瑞珂の目が温かさで満ちていた。「そなたの『頭の中の表』が、宮中を救う」
「殿下」私は勇気を出して尋ねた。「なぜ私をここまで信頼してくださるのですか?」
瑞珂はしばらく黙って私を見つめ、やがて静かに答えた。
「最初は、そなたの能力に惹かれた」彼は正直に言った。「だが今は違う」
「違う?」
「うむ」瑞珂の目に真摯な光が灯る。「そなたという人間そのものを、信じているのだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「私も」言葉が自然と口から溢れた。「殿下を信じています」
二人の間に流れる静かな空気。言葉以上のものが、そこには確かに存在していた。
「さあ」瑞珂が穏やかに言った。「共に歩もう。新しい宮中を創るために」
「はい!」
窓から差し込む陽光が、新しい時代の幕開けを告げているようだった。