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第36話

文官長の失脚から三日後、宮中は大嵐の後のように静まり返っていた。一方で、私——勇姫ゆうきの周りでは、数々の噂が渦巻いていた。


「"スプシの魔女"だって!」


朝食を運んできた小桃が、興奮気味に告げる。


「何それ?」コメを口に運びながら尋ねた。


「勇姫さまの新しい渾名あだなですよ!」小桃は目を輝かせた。「"頭の中の表で悪人を見抜く魔女"って!」


「魔女は余計よね…」思わず苦笑してしまう。


「でもすごいじゃないですか!」小桃は両手を振りながら続けた。「文官長という大物を一夜で倒してしまうなんて!宮中中が震え上がってますよ!」


確かに、これまでの改革とは次元が違う。業務効率化は歓迎されても、利権に手を突っ込めば敵も増える。でも、後には引けない。


「ところで」私は話題を変えた。「紫煙閣の様子はどう?」


小桃の表情が一瞬曇る。


「それが…」彼女は声を潜めた。「玄碧様、ここ三日ほど姿を見せていないんです」


「姿を見せていない?」


「はい」小桃は小さく頷いた。「部屋に閉じこもって、側近以外の出入りを禁じているらしくて…」


その情報に、私は眉をひそめた。玄碧は文官長と親しかった。その失脚で次の手を考えているのだろうか?


「注意が必要ね…」


「私、もっと情報を集めてきます!」小桃が意気込む。


「ありがとう。でも、あまり目立たないようにね」


「はいっ!」


彼女が去った後、私はしばらく考え込んだ。玄碧にとって、文官長は強力な後ろ盾だったはず。その彼が失脚したことで、次なる一手に出てくるのではないか。


◆◆◆


その予感は、正午前に的中した。


「勇姫」


執務室で書類を整理していると、霜蘭が息を切らして入ってきた。彼女のいつもの冷静さが崩れている。


「どうしたの?」私は立ち上がった。


「玄碧が動いた」霜蘭の声に緊張が滲む。「陛下に謁見を求め、今この瞬間にも天輝殿で会っているはずだ」


「陛下と!?」私の心臓が跳ねる。「何のために?」


「それが…」霜蘭の表情が暗くなる。「あなたの追放を嘆願するためだという噂だ」


「追放…」思わず血の気が引いた。


「確証はない」霜蘭は慌てて付け加えた。「だが、瑞珂殿下も既に天輝殿に向かわれた」


状況の深刻さが伝わってくる。


「私も行かなくては」私は決意を固めた。


「無謀だ」霜蘭が制止しようとする。「召されていないのに…」


「でも、このまま運命を待つよりはマシよ」私はきっぱりと言った。「下手に出るつもりはないわ」


霜蘭はしばらく私を見つめ、やがて小さく頷いた。


「わかった」彼女の目に決意の色が浮かぶ。「私も同行しよう」


◆◆◆


天輝殿てんきでんに向かう途中、白凌と鉢合わせた。


「勇姫、霜蘭」彼の表情は厳しかった。「どこへ行くつもりだ?」


「天輝殿へ」私は迷わず答えた。「玄碧様の動きを聞いて」


「やはり…」白凌はため息をついた。「勇姫、今の玄碧は危険だ。文官長を失った彼女は、すべてをあなたのせいだと考えている」


「わかっています」私は静かに言った。「だからこそ、正面から向き合いたい」


白凌はしばらく沈黙し、やがて決断したように言った。


「ならば、私も同行しよう」


三人そろって天輝殿へ急ぐ。廊下を早足で進む私たちの足音が、静まり返った宮中に響く。


◆◆◆


天輝殿に到着すると、衛兵が私たちを止めた。


「召されていない者の入室は許されません」


「瑞珂殿下はいらっしゃいますか?」私が尋ねる。


「殿下なら、今、陛下と玄碧様と共に中におられます」


やはり。


「殿下への緊急の報告があります」白凌が落ち着いた声で言った。「お取り次ぎ願えませんか?」


衛兵が迷う様子を見せたその時、扉が開き、若い侍従じじゅうが顔を出した。


「勇姫様ですか?陛下がお呼びです」


思いもよらない展開に、私たちは顔を見合わせた。


「私だけ?」


「はい」侍従は頷いた。「勇姫様だけです」


霜蘭と白凌に小さく頷き、私は一人で謁見の間に足を踏み入れた。


◆◆◆


室内は張り詰めた空気に満ちていた。玉座に座る皇帝陛下、その傍らに立つ瑞珂、そして左側に優雅に侍する玄碧。彼女の美しい顔には、わずかな驚きと敵意が浮かんでいた。


「勇姫、来たか」皇帝の声が静かに響く。


「はい、陛下」私は深々と頭を下げた。「お召しいただき光栄です」


「召したのは私ではない」皇帝は意外な言葉を告げた。「瑞珂の提案だ」


視線を向けると、瑞珂が小さく頷いた。彼の眼差しには「心配するな」というメッセージが込められていた。


「玄碧」皇帝が言った。「先ほどの話を、勇姫の前でもう一度言ってみよ」


玄碧はわずかに表情を引き締め、上品な仕草で一礼した。


「はい、陛下」彼女の声は蜜のように甘かった。「私は、勇姫という女官が宮中に与えている悪影響について申し上げておりました」


「悪影響?」思わず声が漏れる。


「そう」玄碧の目が冷たく光った。「そなたの改革と称する専横せんおうは、宮中の伝統を破壊し、混乱を招いている」


「それは違います」私は冷静に反論した。「改革による効率化で、多くの女官たちの労働環境は改善されています」


「表面的な数字だけを見せて」玄碧の声に棘が混じる。「文官長のような忠実な臣下を陥れるとは」


「忠実?」私は思わず笑みを浮かべた。「宮中の財産を私物化していたのに?」


「黙りなさい!」玄碧の声が鋭く響いた。「そなたのような賤民せんみん出身が、何を知るというのか!」


「玄碧!」瑞珂の声が厳しく響く。「言葉を慎め」


「いいえ、殿下」私は静かに言った。「続けてもらいましょう。玄碧様の本心をお聞きしたいです」


意図的に彼女の怒りを買う作戦だ。感情的になった相手は、往々にして本音を漏らすものだから。


「本心だと?」玄碧の美しい顔が歪んだ。「そなたのような異分子が、千年続いた宮中の秩序を壊すのを黙って見ているわけにはいかない。それだけだ」


「千年の秩序?」私は穏やかな口調を保った。「文官長のような汚職も、その秩序の一部なのですか?」


「ぐっ...」玄碧の言葉が詰まる。


「陛下」私は皇帝に向き直った。「私が追放されれば、腐敗は元に戻り、改革も水泡に帰します。それが文官長の望みなのです」


「放とうな!」玄碧が立ち上がった。「文官長は宮中の秩序を守ろうとしているだけだ!」


「秩序?それとも特権?」私は彼女の目をまっすぐ見つめた。「玄碧様、あなたが守りたいのは何ですか?宮中、それとも自分の既得権益きとくけんえき?」


「勇姫」皇帝が静かに言った。「玄碧が何を守ろうとしているのか、具体的に説明できるか?」


ここが勝負どころだ。私は深呼吸して、言葉を選んだ。


「玄碧様は、文官長からの利益供与を受けていました」私は淡々と事実を述べた。


「何!?」玄碧の顔から血の気が引いた。「そんな証拠は...」


「ここに」私は準備してきた書類を取り出し、恭しく皇帝に差し出した。「過去二年間の紫煙閣の物資調達記録です。文官長の場合と同様のパターンが見られます」


皇帝が書類に目を通す間、室内は水を打ったように静まり返った。


「玄碧」皇帝の声が重々しく響いた。「これは事実か?」


「陛下...」玄碧の声が震えていた。「これは...誤解です。確かに、私の侍女の親族の商会と取引はありましたが...」


「そして価格は?」皇帝の声が鋭くなる。


「それは...品質に見合った...」


「同じ言い訳か」皇帝が書類をテーブルに置いた。「市場価格の二倍以上の支払い、しかも定期的に。これを偶然と言うつもりか?」


玄碧は言葉を失ったように立ち尽くしていた。


「勇姫」皇帝が私に目を向けた。「よくぞ調べ上げた。そなたの能力は、宮中にとって大きな財産だ」


「恐縮です...」頭を下げる。


「陛下!」玄碧が必死に声を上げた。「確かに一部不適切な処理はあったかもしれませんが、それは側近たちの独断であり、私は...」


「責任転嫁か」皇帝の声が冷たくなった。「紫煙閣の主である以上、そなたの責任だ」


玄碧は膝から崩れ落ちそうになりながらも、最後の抵抗を試みた。


「陛下...」彼女の声に哀願が混じる。「この勇姫という女官は、宮中の秩序にとって危険な存在です。彼女の改革は...」


「もう十分だ」皇帝は厳しく言った。「私が見る限り、勇姫の改革こそが真の秩序をもたらしている。透明性と公正さ、それが宮中に必要なものだ」


「しかし...」


「玄碧」皇帝の声は最終決断のようだった。「そなたは今日から紫煙閣の主の座を退く。領地に戻り、静かに暮らすがよい」


「何...」玄碧の顔が青ざめた。「追放...ですか?」


「追放ではない」皇帝は言った。「反省の機会だ。感謝するがよい」


「陛下...!」


「退出してよい」


絶対的な命令の前に、玄碧はもはや抵抗する術を持たなかった。彼女はよろめきながら立ち上がり、最後に私に憎悪の眼差しを向けてから、部屋を後にした。


部屋に残されたのは、皇帝と瑞珂、そして私だけ。


「勇姫」皇帝が穏やかな声で言った。「そなたの警戒心と行動力には感服する。だが、一つ気になることがある」


「何でしょうか?」


「なぜ玄碧の調査を行っていたのだ?」皇帝の鋭い目が私を見つめる。「何か予感でもあったのか?」


「はい」私は正直に答えた。「文官長の時に見つけた不正のパターンが、紫煙閣の記録にも見られたので...」


「先見の明があったわけだな」皇帝は微笑んだ。「宮中には、そなたのような目が必要だ」


「恐縮です...」再び頭を下げる。


「瑞珂」皇帝が息子に向き直った。「勇姫を良く選んだな」


「はい、父上」瑞珂は少し誇らしげに答えた。「彼女は私の最良の協力者です」


「そうであろう」皇帝は頷いた。「紫煙閣の新しい主については、後日決める。それまでは、勇姫に暫定的な監督を任せよう」


「え!?」思わず声が上がる。


「恐れることはない」皇帝は優しく言った。「そなたなら、混乱を最小限に抑えられるだろう」


「しかし...私はただの書記官で...」


「書記官ではない」皇帝が言った。「今日からそなたは宮中改革特使だ。権限を与える」


「特使...」思いがけない昇進に、言葉を失う。


「父上、ありがとうございます」瑞珂が恭しく頭を下げた。


「勇姫」皇帝が続けた。「宮中の闇を照らすそなたの光は、貴重だ。これからも務めを果たしてくれることを期待する」


「はい、陛下!」私は強く頷いた。「全力で務めます」


◆◆◆


謁見の間を出ると、霜蘭と白凌が心配そうに待っていた。


「どうだった?」霜蘭が小声で尋ねた。


「玄碧様は...領地に戻ることになりました」私は静かに告げた。


「領地に!?」二人の表情が驚きに変わる。


「そして私は...宮中改革特使に任命されました」


「特使だと!?」霜蘭の目が丸くなった。「それは...皇帝直属の地位だぞ!」


「驚くべきことだ」白凌も珍しく感嘆の声を上げた。「宮中の序列が大きく変わる」


「まだ実感がわかないわ...」正直な気持ちを吐露した。


「勇姫」振り返ると、瑞珂が静かに近づいてきた。「よくやった」


「瑞珂殿下...」私は深々と頭を下げた。「ご支援に感謝します」


「いや」瑞珂は微笑んだ。「すべてはそなたの力だ。玄碧との直接対決に勝利したのはそなただ」


「でも...」


「これで宮中の改革は本格的に進む」瑞珂の声には喜びが混じっていた。「そなたの特使としての初仕事は、紫煙閣の立て直しだ」


「はい」私は決意を込めて言った。「責任を全うします」


◆◆◆


その夜、清風院に戻ると、小桃が涙目で飛びついてきた。


「勇姫さまぁ!」彼女は半泣きだった。「ほんとですか!?玄碧様が追放されて、勇姫さまが特使になったって!」


「噂の速さには驚くわね...」思わず苦笑してしまう。


「宮中中が大騒ぎですよ!」小桃は興奮して言った。「『スプシの魔女、玄碧を倒す』って!」


「もう、その変な呼び方やめてよ...」照れくさくなる。


「でも凄いじゃないですか!」小桃の目は星のように輝いていた。「あたし、最初から勇姫さまが凄いって思ってましたもん!」


彼女の無邪気な喜びに、心が和む。しかし、内心では複雑な感情も渦巻いていた。玄碧を追い出したことで、確かに改革は進むだろう。だが、強大な敵を作ったことも事実だ。


「勇姫さま?」小桃が心配そうに覗き込んできた。「どうかしました?」


「ううん、何でもないわ」私は微笑んだ。「少し疲れただけ」


「お休みになってくださいね」小桃が優しく言った。「明日からもっと忙しくなりますよ!」


「そうね...」深いため息をつく。「明日から、本当の戦いが始まるわ」


窓から見える満月に祈るような気持ちで呟いた。玄碧との直接対決に勝利したのは、ほんの通過点に過ぎない。これからが本番だ。宮中の闇を照らし出し、真の改革を成し遂げるための長い道のりが、私を待っている。


「さあ、記録し続けよう...」


複雑な想いの中、私は静かに決意を固めた。


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