目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第35話

青楓の警告から二週間が経った頃、宮中はようやく落ち着きを取り戻していた。私——勇姫ゆうきは、玄碧の陰謀を警戒しつつも、改革を着実に進めていた。


「ふぅ...」


清風院の部屋で一息つきながら、窓の外を眺める。春の陽光が、宮中の庭園を優しく照らしていた。


「勇姫さまー!」


小桃の声とともに、扉が勢いよく開いた。相変わらず彼女の登場は嵐のようだ。


「どうしたの、小桃?」私は微笑みながら振り向いた。


「大変です!白凌様が急いで来るように...!」小桃は息を切らしている。「殿下の執務室で、何か重大な発見があったって!」


「重大な発見?」


好奇心と不安が入り混じる。瑞珂殿下に何かあったのだろうか?


「わかったわ。すぐに行くわ」


急いで身支度を整え、瑞珂の執務室へと向かった。廊下を急ぐ私の足音が、静かな宮中に響く。


◆◆◆


執務室に到着すると、そこには緊張感に包まれた空気が満ちていた。瑞珂は机の前に立ち、何かの書類を見つめている。その横には白凌が、いつもより引き締まった表情で佇んでいた。


「殿下、参りました」私は息を整えながら言った。


「勇姫、来てくれたか」瑞珂が顔を上げる。彼の目には珍しく怒りの色が浮かんでいた。


「何かありましたか?」


「見てみろ」瑞珂は机の上の書類を指した。「白凌が発見した文書だ」


私は恐る恐る近づき、書類に目を通した。それは宮中の物資調達に関する記録だった。一見、何の変哲もない文書だったが...


「これは...」私は目を凝らした。「物資調達の価格が通常の三倍?」


「そうだ」白凌が静かに言った。「しかも、この取引を承認しているのは...」


彼の指が指す名前を見て、私は息を呑んだ。


鄧明とうめい...文官長?」


「うむ」瑞珂の声に怒りが滲む。「彼の直接の承認だ」


文官長は宮中官僚のトップ。その彼が関わる不審な取引とは...


「詳しく調べる必要がありますね」私は慎重に言った。


「そこでそなたの力が必要なのだ」瑞珂はきっぱりと言った。「過去の調達記録をすべて分析し、パターンを見つけ出してほしい」


「わかりました」私は決意を込めて頷いた。「スプシの力で解析します」


「頼んだぞ」瑞珂の表情が少し和らぐ。「この問題、父上にも報告せねばならん」


白凌が静かに口を開いた。「慎重に進めるべきでしょう。文官長の勢力は強大です」


「だからこそ、確かな証拠が必要だな」瑞珂は頷いた。


◆◆◆


その日から、私は文字通り寝食を忘れて調査に没頭した。白凌が密かに集めてくれた過去三年分の調達記録を、特製の分析シートに入力していく。


「ここにもおかしな点が...」


清風院の部屋は、今や書類の山に埋もれていた。壁には大きな表が貼られ、床には分類された文書の束が並んでいる。まるで前世の会社で決算時期に追い込まれていた頃のようだ。


「勇姫さま、お茶をお持ちしました」


小桃が心配そうな顔で入ってきた。


「ありがとう」私は目を上げずに言った。「そこに置いておいて」


「も、もう二日も寝てないんですよ?」小桃が恐る恐る言う。「少し休まれては...」


「だいじょうぶ」私は空虚な笑みを浮かべた。「社畜根性で乗り切るわ」


「しゃ...ちく?」小桃が首を傾げる。


「あ、いや...」思わず前世の言葉が出てしまった。「大丈夫という意味よ」


彼女は不安そうな顔で去っていった。彼女の心配はもっともだ。だが、今は休んでいる余裕はない。文官長という大物の不正を暴くには、完璧な証拠が必要なのだから。


◆◆◆


三日目の夜、ついに全体像が見えてきた。


「これは...」


思わず身を乗り出す。スプシの力で分析した結果、衝撃的なパターンが浮かび上がってきたのだ。


「急いで殿下に報告を...」


私は震える手で図表をまとめ、瑞珂の私室へと急いだ。この時間ならば、誰にも邪魔されずに会えるはずだ。


◆◆◆


「殿下、大変です!」


私の声に、読書をしていた瑞珂が顔を上げた。


「勇姫?こんな遅くに...」彼は私の興奮した様子に気づき、表情を引き締めた。「何かわかったのか?」


「はい、すべて解析できました」私は息を切らしながら言った。「文官長を中心とした癒着ゆちゃくのネットワークが明らかになりました」


「ほう...」瑞珂が身を乗り出す。「詳しく聞こう」


私は準備してきた図表を広げた。それは文官長を中心に、宮中の様々な役人と外部の商人たちを結んだ複雑なネットワーク図だった。


「まず、過去三年間の物資調達を分析すると、特定の品目だけ異常に高額になっています」私は説明を始めた。「特に儀式用の香料こうりょう絹織物きぬおりもの宝石ほうせき類です」


「ふむ...」瑞珂が図に見入る。


「これらの品目は、すべて文官長の直接承認を経た取引です」私は続けた。「しかも、調達先はすべてこの三つの商会に集中しています」


指し示した商会名を見て、瑞珂の目が鋭くなった。


江南商会こうなんしょうかい雲峰商会うんぽうしょうかい翠玉商会すいぎょくしょうかい...」彼はつぶやいた。「どこかで聞いたような...」


「そして驚くべきことに」私は図の別の部分を指した。「これらの商会の出資者リストに、文官長の親族の名前が見つかりました」


「何!?」瑞珂が思わず声を上げる。


「はい。文官長のおい従兄弟いとこが、それぞれ雲峰商会と翠玉商会の筆頭出資者なのです」


「これは...完全な利益相反りえきそうはんだな」瑞珂の声に怒りが滲む。


「さらに」私は別の表を広げた。「この三年間で、これらの取引による過剰支払いの総額は...」


「約三十万りょう!?」瑞珂が思わず立ち上がった。「これほどの額を...」


「はい」私は静かに言った。「宮中の年間物資調達費の約二割に相当します」


瑞珂は重々しく椅子に座り直した。彼の表情には複雑な感情が交錯していた。


「勇姫、よくぞここまで調べ上げた」彼の声には感謝と驚きが混じっていた。「そなたの"頭の中の表"の真価だな」


「いえ...」私は少し照れくさそうに言った。「単に数字を追いかけただけです」


「謙遜する必要はない」瑞珂はきっぱりと言った。「これだけの証拠を集めるのは並大抵のことではない」


「では、どうしますか?」私は真剣に尋ねた。


瑞珂はしばらく考え込み、やがて決意を固めたように言った。


「明日、父上に報告する」


「そんなに急いで?」思わず声が上ずる。「もう少し証拠を固めてからでは...」


「いや」瑞珂の目に鋭い光が宿る。「これ以上待てば、証拠が消される恐れがある。文官長も気づいているかもしれん」


そう言われれば確かにその通りだ。この三日間、私が調査していることは、おそらく宮中の一部には漏れているだろう。


「わかりました」私は頷いた。「準備します」


◆◆◆


翌朝、私たちは皇帝の御前ごぜんに呼ばれた。思った以上に早く事が運ぶことに、少し不安を覚える。


天輝殿てんきでんの謁見室に入ると、皇帝陛下は厳かな表情で玉座に座っていた。その横には宰相の姿も。そして...私の心臓が跳ねた。文官長の鄧明もいたのだ。


「瑞珂、勇姫」皇帝の声が部屋に響く。「昨夜、重大な報告があったと聞いた」


「はい、父上」瑞珂が一歩前に出る。「宮中物資調達における不正の証拠を掴みました」


文官長の表情が一瞬、強張ったように見えた。


「ほう...」皇帝の眉が上がる。「どのような不正だ?」


「詳細は勇姫から」瑞珂は私に目配せをした。


緊張で足が震えるのを抑えながら、私は準備してきた図表を広げ始めた。


「陛下」私は精一杯落ち着いた声を出した。「過去三年間の物資調達記録を分析した結果、特定の取引において著しい価格の乖離かいりが見られました」


図表を一つずつ説明していく。調達価格の異常な高騰、特定の商会への集中、そして文官長との関連性...。


話を進めるうちに、室内の空気が徐々に変わっていくのを感じた。皇帝の表情は次第に厳しさを増し、文官長の顔からは血の気が引いていった。


「つまり」私は結論を述べた。「これらの取引により、宮中は三年間で約三十万両の過剰な支出を強いられたことになります」


図表を示し終わると、一瞬の沈黙が室内を支配した。


「鄧明」皇帝が文官長に向き直った。「これについて何か言うことはあるか?」


文官長は必死に平静を装っていたが、額に浮かぶ汗が彼の動揺を物語っていた。


「陛下」彼は震える声を抑えながら言った。「これは誤解です。確かに私の親族が関わる商会との取引はありましたが、それは彼らの品質が優れていたからであり...」


「品質が三倍の価格に値するというのか?」皇帝の声が鋭くなった。


「そ、それは...」文官長が言葉に詰まる。


「さらに、これらの取引の承認がすべて直々に行われているようだが?」皇帝は容赦なく追及した。


「それは...手続きの都合上...」


「嘘を言うな!」皇帝の一喝が室内に響き渡った。「勇姫の図表は明確だ。これは組織的な不正である」


文官長の顔が青ざめた。


「陛下、お許しを...」彼は膝をついた。「確かに一部不適切な処理はあったかもしれませんが...」


「宰相」皇帝は横の宰相に目を向けた。「そなたはこのことを知っていたか?」


宰相も明らかに動揺していた。「いえ、陛下...私は...」


「興味深いな」皇帝の視線が鋭くなる。「宮中の財政を監督する宰相が、これほどの不正に気づかなかったとは」


宰相が言い訳しようとしたが、皇帝は手を上げて制した。


「瑞珂」皇帝が息子に向き直った。「この調査に着手したのは賢明だった。よくやった」


「ありがとうございます、父上」瑞珂は恭しく頭を下げた。


「そして勇姫」皇帝が私に視線を向けた。「そなたの能力は本当に驚くべきものだ。宮中をこれほど詳細に分析できる者は他にいない」


「恐縮です...」緊張で声が小さくなる。


「鄧明」皇帝の声が再び厳しくなった。「そなたは今日から文官長の職を解かれる。調査が完了するまで、自邸で待機せよ」


「陛下!」文官長が叫ぶように言った。「どうか一度だけお情けを...」


「沈黙せよ」皇帝の一言で、彼の声は途切れた。「宮中の財を私物化した罪は重い。命があるだけ感謝するがよい」


文官長は震えながら、頭を床に擦りつけるように下げた。


「退出を許す」皇帝が言うと、彼は衛兵に囲まれて部屋を後にした。


部屋に残されたのは、皇帝と宰相、瑞珂と私だけだった。


「宰相」皇帝が再び口を開いた。「そなたの責任も問われるべきだが、今は宮中の混乱を避けたい。だが、今後は厳しく監視することになるだろう」


「は、はい...」宰相も震える声で答えた。


「瑞珂、勇姫」皇帝が私たちに向き直った。「この件の全容解明を願う。宮中の腐敗ふはいは根深いかもしれん」


「承知しました、父上」瑞珂が答えた。「勇姫の力を借りて、徹底的に調査します」


「うむ、頼む」皇帝は疲れたような表情で頷いた。「宮中の浄化は急務だ」


◆◆◆


謁見室を後にした私たちは、しばらく無言で廊下を歩いた。あまりに事態が急展開したことに、頭の整理がつかない。


「勇姫」瑞珂がようやく口を開いた。「よくやった」


「いえ...」私は少し動揺していた。「あんなに大事になるとは思いませんでした」


「当然だろう」瑞珂は真剣な面持ちで言った。「宮中最高位の官僚の不正を暴いたのだから」


「でも...」私は不安を隠せなかった。「これで文官長派の人たちが、私を敵視するでしょう」


「恐れるな」瑞珂は静かに言った。「そなたには私がついている。それに...」


「それに?」


「そなたの"武器"があるではないか」瑞珂の目に少し笑みが浮かんだ。「あの図表を見た者は、誰も反論できなかった。数字は嘘をつかないのだ」


確かにその通りだ。前世ではスプシで作った資料を上司に揉み消されることも多かったが、この世界では違う。スプシの力は、真実を照らし出す光となっているのだ。


「ああ」瑞珂が続けた。「文官長の一件で、宮中はさらに大きく動く。次の改革の機会だ」


「新たな改革...」


「うむ」瑞珂は力強く頷いた。「宮中の財政管理システム全体を見直す。そなたの力が必要だ」


その言葉に、新たな使命感が湧いてくるのを感じた。文官長のような腐敗官僚の影を追い払い、より透明で公正な宮中を作るための改革。


「承知しました」私は決意を込めて答えた。「スプシの全力を尽くします」


瑞珂は満足げに頷き、私たちは次なる改革への道を歩み始めた。


◆◆◆


その夜、清風院の部屋に戻った私の前に、霜蘭が現れた。


「勇姫」彼女の目は尊敬の色を湛えていた。「文官長の一件、聞いたぞ」


「もう知っているの?」私は驚いた。


「宮中は噂の速さでは天下一だ」霜蘭は小さく笑った。「特に大物の失脚ともなれば...」


「そうね...」私も苦笑した。


「驚いたよ」霜蘭の声には本心からの感嘆が込められていた。「文官長のような大物を、たった一つの図表で打ち倒すとは」


「図表の力よ」私は正直に答えた。「数字が語ってくれたんです」


「いや」霜蘭は首を振った。「数字を語らせたのはそなただ。その才能は...神がかっている」


神がかり...私のスプシ脳が、この世界ではそう見えるのだろう。皮肉なものだ。


「これからどうする?」霜蘭が尋ねた。


「瑞珂殿下と共に、財政改革を進める予定です」私は答えた。「もっと透明な制度にしなければ」


「そうか」霜蘭は真剣な表情になった。「だが気をつけろ。文官長一派の逆襲があるかもしれん」


「わかっています」私も頷いた。「でも、もう後には引けません」


「ああ」霜蘭は私の肩を軽く叩いた。「そなたなら、きっとやり遂げるだろう」


部屋を後にする霜蘭を見送りながら、私は考えた。スプシという武器一つで、ここまで来られた。これからも記録し続け、この宮中の闇を照らしていこう。


前世の社畜時代には、こんな風に自分の仕事が人々の役に立つとは思ってもみなかった。人生とは本当に不思議なものだ。


「明日からも、記録し続けよう」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?