黒檀色の髪を美しく結い上げ、深緑と金糸の正妃候補服に身を包んだ玄碧は、25歳とは思えぬ威厳を漂わせていた。普段は冷たさを湛えた青碧色の瞳が、今は何か深い感情を宿している。漆黒に近い深い藍色の髪をした勇姫は、青と銀を基調とした書記女官の制服に身を包み、立ち止まるべきか通り過ぎるべきか迷っていた。
香炉廊は後宮の中でも特に装飾が豪華な通路で、壁には精緻な彫刻が施され、所々に香炉が置かれて芳しい香りが漂っている。雨の音と香りが混じり合う静かな空間で、二人は偶然にも向かい合うことになった。
「...
玄碧は勇姫に気づくと、素早く巻物を袖に隠した。しかし、その動作は不自然で、普段の完璧な立ち振る舞いとは違っていた。
「お邪魔してしまったようですね。失礼します」
勇姫が立ち去ろうとすると、意外にも玄碧が声をかけた。
「待ちなさい」
その声には、いつもの冷たさがなかった。勇姫は驚いて振り返った。
「少しよろしいかしら」
これは命令ではなく、明らかに頼み事だった。勇姫は不思議に思いながらも、頷いた。
「もちろん」
玄碧は周囲を見回すと、近くの小さな
「あなたを呼び止めたのは、これを見てほしいからよ」
彼女は袖から先ほどの巻物を取り出した。細心の注意を払って広げると、そこには一つの紋章が描かれていた。
「これは...家紋ですか?」
勇姫が尋ねると、玄碧はゆっくりと頷いた。
「そう、
紋章は松に鳳凰が舞い降りる図案で、緑と金色で美しく彩色されていた。
「なぜ私に?」
勇姫の問いに、玄碧は窓の外を見つめながら答えた。
「あなたは私のことを単なる改革の敵だと思っているでしょう?」
勇姫は言葉に詰まった。確かに、彼女は玄碧を単なる保守的な妨害者だと見なしていた。
「正直に言えば...」
「正直で結構よ。私もあなたのことを目障りに思っていたのだから」
玄碧の口元に、珍しく苦笑が浮かんだ。
「でも、今日はそのことを話したいわけではないの。この家紋に込められた玄家の歴史と責任について、知ってほしいの」
玄碧は巻物を丁寧に広げ直した。
「松は不変と
彼女の声には、珍しく情熱が込められていた。
「玄家は十五代にわたり、芙蓉帝国の儀礼と伝統を守ってきた家系なの。表面的には単なる格式や形式に見えるかもしれないけれど、それらは長い歴史の中で培われた知恵の結晶なのよ」
勇姫は静かに聞き入った。今まで見たことのない玄碧の一面だった。
「二年前、私の弟が
玄碧の声が少し震えた。
「弟さんが?」
「ええ。賄賂の疑いをかけられて...彼は無実だったのだけれど、証明する手段がなかった」
玄碧の青碧色の瞳に悲しみが浮かんだ。
「それ以来、私は玄家の名誉を守るために、どんな犠牲も払ってきたわ。伝統を守ることが、家名を守ることだと信じて」
勇姫は玄碧の言葉に、彼女の行動の背景が見えてきた気がした。
「だからあなたは改革に反対しているのですね」
「単純にそうとも言えないわ」
玄碧は巻物の端を優しく撫でた。
「私が守りたいのは、形だけの伝統ではないの。この紋章が示すような、理想を守り続ける忍耐と覚悟よ」
彼女は突然、勇姫をまっすぐに見つめた。
「あなたの改革は、確かに合理的で効率的だわ。でも、そこに失われるものはないの?長い時間をかけて育まれた価値観や、人々のつながりは?」
勇姫は考え込んだ。彼女のスプシ改革は確かに効率を重視していたが、人間関係や伝統について深く考えたことはなかった。
「私が心配しているのは、あまりに急速な変化が混乱を招くということ。そして、その混乱の中で、守るべき大切なものまで捨てられてしまうかもしれないということよ」
玄碧の言葉には、反感ではなく、真摯な懸念が込められていた。
「あなたは...本当に伝統を守りたいのですね」
勇姫が言うと、玄碧は小さく頷いた。
「正確には、伝統の中に込められた知恵と価値をね。形だけではないのよ」
玄碧は巻物を丁寧に巻き始めた。
「知っているかしら?この宮殿の儀式や慣習の多くは、実は災害や疫病から人々を守るための知恵が込められているのよ。例えば、季節ごとの香の使い分けは、実は防虫や殺菌の効果があるの」
勇姫は驚いた。そんな実用的な側面があるとは思っていなかった。
「つまり...形式には意味があるということですね」
「そういうこと。だからこそ、私は軽々しく変えることに反対しているの」
玄碧は巻物を袖にしまい、立ち上がった。
「あなたのスプシは確かに素晴らしい。でも、ただ効率だけを追求するのではなく、なぜその形式があるのか、その理由も同時に記録してほしいの」
勇姫は玄碧の言葉に、新たな視点を得た気がした。
「理解しました。私も考え直してみます」
彼女が答えると、玄碧は珍しく微笑んだ。
「それだけで十分よ。あなたは聞く耳を持っている。それだけでも、多くの人より優れているわ」
雨はいつの間にか上がり、東屋の窓から差し込む光が二人を照らしていた。
「実は...弟の無実を証明する方法を探しているの」
玄碧が突然打ち明けた。
「もし、あなたのスプシの力で過去の記録を整理できれば...何か手がかりが見つかるかもしれない」
勇姫は驚いたが、すぐに頷いた。
「お手伝いします。どんな記録があるのか、教えてください」
「本当に?」
玄碧の目に驚きの色が浮かんだ。
「はい。真実を明らかにすることは、私の信条でもあります」
勇姫の言葉に、玄碧は深く頭を下げた。
「ありがとう...こんな風に言う日が来るとは思わなかったわ」
東屋を出る前に、玄碧は振り返って言った。
「あなたの改革に全面的に賛成するわけではないけれど...対話の余地はあるようね」
勇姫は微笑んで頷いた。
「スプシの本質は、単なる効率化ではなく、"見える化"です。隠れていた価値も、見えるようにしたい」
玄碧は意外そうな表情を見せた後、静かに言った。
「では、今度は私の書庫で会いましょう。弟の記録を全て見せるわ」
二人は香炉廊で別れた。勇姫は玄碧が去っていく姿を見送りながら、スプシの新たな使い方を考えていた。効率だけでなく、伝統の価値も"見える化"する方法を。
これまで敵対していた二人が、思いがけず理解し合う一歩を踏み出した雨上がりの午後だった。
だが、「今度」は来なかった。文官長が失脚し、そのあおりをくらって玄碧も領地に戻る事になったのだ。引き金をひいたのは、もちろん勇姫自身である。
後味の悪い結果とはなったが、玄碧の家紋に込められた「変わらぬ忍耐で理想を守る」という精神は、形を変えながらも、これからも