漆黒に近い深い藍色の髪をきちんと結い上げ、青と銀を基調とした書記女官の制服に身を包んだ勇姫の足取りは軽やかだった。灰紫色の瞳には、少しばかりの期待が宿っている。最近、彼女と瑞珂の関係は微妙に変化し始めていた。二人きりの時には「瑞珂さん」と名前で呼ぶようになり、時折、彼から思いがけない優しさを向けられることもある。
香炉廊は
勇姫が香炉廊の中ほどまで来たとき、不意に二人の男性の声が聞こえてきた。一つは間違いなく瑞珂の声。もう一つは
「まずいわ、声をかけるタイミングじゃないかも…」
勇姫は立ち止まり、別の道を行くべきか迷った。しかし、次に聞こえてきた会話に、彼女は思わず足を止めた。
「白凌、正直に答えてほしい。私の勇姫への気持ちは、宮中で噂になっているだろうか?」
瑞珂の声には珍しく緊張が滲んでいた。勇姫は息を呑んだ。「私の勇姫」という言葉が、彼女の耳に響く。
「殿下、ご心配には及びません。宮中の者たちは皆、目は持っていても口にはしません」
白凌特有の穏やかな低音が応える。銀白の髪と鋼鉄色の瞳を持つ宦官長は、黒を基調とした宦官服に身を包み、いつものように表情を読み取ることはできない。
「そうか...でも、噂になっていることは認めるんだな」
瑞珂の声にはかすかな諦めが混じっていた。勇姫はますます身動きが取れなくなった。立ち聞きするべきではないと分かっていながら、その場を離れることができない。
「殿下、もしお許しいただければ、一つ申し上げたいことがございます」
「なんだ?」
「勇姫様への思いは、決して恥じるべきものではありません」
白凌の言葉は静かだが力強かった。勇姫は思わず壁に寄りかかった。心臓が激しく鼓動している。
「白凌...」
「私は長年、この宮廷を見てきました。そして殿下が勇姫様と共にいる時の表情は、かつて見たことのないほど生き生きとしています」
瑞珂がため息をついた。
「それが分かっているから、余計に苦しいんだ」
「殿下?」
「皇太子である私と一介の女官では、あまりに身分が違いすぎる。父上も諸侯たちも、正妃としては認めないだろう」
勇姫の胸が痛んだ。彼女も同じことを考えていた。二人の立場の違いは、乗り越えられない壁のように思えた。
「ですが殿下、もし勇姫様が正妃でなく、別の立場で支えるとしたら?」
白凌の言葉に、勇姫も瑞珂も驚いたようだった。
「別の立場?」
「はい。例えば
瑞珂の足音が近づいた。彼は何か重要な決断をしたように聞こえる。
「そうか...それなら...」
勇姫は慌てて後ずさりした。このまま見つかれば、立ち聞きをしていたと誤解される。彼女は急いで別の通路へと向かおうとした。しかし遅かった。
「勇姫?」
栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ瑞珂が、角を曲がったところで勇姫と鉢合わせた。彼は淡い金色と白の装いで、皇太子の威厳を漂わせていたが、今はどこか慌てたような表情だ。
「殿下!」
勇姫は慌てて頭を下げた。背後では、白凌も静かに頭を垂れている。
「どうしたんだ?こんなところで」
瑞珂が尋ねた。勇姫は持っていた書類を差し出した。
「これをお届けに参りました。御書房に向かおうとしたところです」
「そうか...」
瑞珂は書類を受け取ったが、その目は勇姫の表情を探るように見つめていた。
「今の...聞いていたか?」
勇姫は一瞬、嘘をつこうかと迷ったが、正直に答えることにした。
「はい...少し...」
瑞珂の表情が硬くなった。白凌は二人に視線を送ると、静かに一礼した。
「私は失礼します。しばしのお時間をお取りください」
彼は足音も立てずに立ち去った。香炉廊には二人だけが残された。
「どのくらい聞いた?」
瑞珂の声は緊張していた。勇姫は恥ずかしさと申し訳なさで顔を赤らめた。
「殿下の...私への思いについて...」
勇姫の言葉に、瑞珂は深いため息をついた。
「全部聞いていたんだな...」
彼は窓の外の雪景色を見つめた。落ち着きを取り戻そうとしているようだ。
「殿下、申し訳ありません。立ち聞きするつもりはなかったのですが...」
「謝らなくていい」
瑞珂は振り返り、勇姫の目をまっすぐ見つめた。
「むしろ好都合だ。こうして言うべきか、ずっと迷っていたから」
彼は一歩、勇姫に近づいた。
「勇姫、僕は君を大切に思っている。それは皇太子としてではなく、一人の男として」
勇姫の心臓が跳ねた。頬が熱くなる。
「殿下...」
「ここだけで良いから、僕の名前を呼んでくれ」
瑞珂の声には切実さがあった。勇姫は小さく息を吸い込み、口にした。
「瑞珂さん...私も...あなたを...」
言葉に詰まる勇姫に、瑞珂は優しく微笑んだ。
「言わなくていい。君の目が全てを語っている」
彼は勇姫の手を取った。暖かい手に包まれて、彼女は震えた。
「でも、このままではいけないと思っていました。身分が違いすぎて...」
「そうだな。だから僕は考えていた」
瑞珂は真剣な表情で言った。
「白凌の言うとおり、君が僕の補佐官として仕えれば...正妃ではなくとも、共に歩む道がある」
勇姫は驚いて目を見開いた。
「補佐官...ですか?」
「ああ。君のスプシの力と知恵で国を共に導いてほしい。それが僕の望みだ」
瑞珂は勇姫の手をさらに強く握った。
「もちろん、それは建前だ。本当は...」
彼は言葉を切った。香炉からの白檀の香りが、二人を包み込んでいる。
「本当は?」
勇姫が小さな声で促した。瑞珂は彼女の顔を優しく見つめながら続けた。
「本当は君を愛している。ずっと側にいてほしい」
素直な告白に、勇姫の目に涙が浮かんだ。
「私も...瑞珂さんを好ましく思っています。こんな身分違いの恋だとは思いませんでしたが...」
瑞珂は嬉しそうに微笑んだ。
「だからこそ、正式な形で君を側に置きたい。今はまだ皇太子に過ぎない僕だが、いずれ皇帝になった時...君を最初の女性補佐官として任命したい」
瑞珂は続けた。
「それは表向きの話。本当は...僕の伴侶として共に生きてほしい」
「本当に...?」
「ああ。もちろん簡単な道ではない。多くの反対や障害もあるだろう。でも、君と...乗り越えたい」
瑞珂の目には強い決意が宿っていた。勇姫も覚悟を決め頷いた。
「分かりました、信じますよ。私はあなたの志を支え、共に歩みます」
瑞珂は勇姫の手を引き、香炉廊の奥へと歩き始めた。
「今日から少しずつ準備を始めよう。まずは、君の役職を正式に『文政補佐』に昇格させる」
勇姫は瑞珂と並んで歩きながら、不思議な感覚に包まれていた。前世では考えられなかった展開だ。効率化と改革のために来たつもりが、いつの間にか皇太子の心を射止め、国の未来を共に築くパートナーになろうとしている。
「瑞珂...好きよ。愛しているわ。そして、これは夢ではないですよね?」
勇姫が恥ずかしそうに尋ねると、瑞珂は彼女の額に軽くキスをした。
「夢ではない。僕たちの新しい現実だ」
二人は雪の舞う窓の外を見つめた。香炉の白檀の香りが、二人の新たな誓いを祝福するかのように漂っていた。
そして廊下の陰では、白凌が満足そうに微笑んでいた。彼は何か書きものをしている。おそらく、この歴史的瞬間を記録しているのだろう。正史には絶対載せないぞ。
「これで宮廷も、少しは変わるかもしれないな」
彼は静かに呟き、二人を見守りながら立ち去っていった。
香炉廊での偶然の出会いは、思いがけず二人の未来を決定づける告白の場となったのだった。