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GAIDEN:外伝5~白凌が見つけた勇姫の恋愛考察スプシと瑞珂の反応

 紫霞宮しかきゅう勇姫ゆうきが転生して九ヶ月目の真冬のことだった。芙蓉ふよう帝国の都・玉京ぎょくけいは雪に覆われ、宮殿内でさえ冷えこむ季節。勇姫ゆうき瑞珂ずいか皇太子の関係は、補佐官就任の噂とともに、ひそかに宮中の話題となりつつあった。この日、勇姫は珍しく早く帰れることになり、文政局分室ぶんせいきょくぶんしつで最後の書類整理をしていた。漆黒に近い深い藍色の髪を結い上げ、青と銀を基調とした書記女官の制服は、真冬用の厚手のものに変わっていた。灰紫色の瞳には、仕事を終えた安堵の色が浮かんでいる。


 文政局分室は尚書房しょうしょぼうの東側に位置する二階建ての建物で、かつては紙の山だった部屋も、勇姫のスプシ改革のおかげで整然とした書架と整理棚が並ぶ効率的な空間に変わっていた。窓からは雪景色が見え、暖炉の火が部屋を程よく温めている。


「これで今日の仕事は終わりね」


 勇姫はそう呟くと、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。それは彼女が密かに書き記していた特別なスプシだった。表題には「瑞珂様との関係性分析」と書かれている。


「まさか自分の恋愛感情まで数値化するなんて...」


 彼女は小さく笑った。前世では冷静・合理主義だった勇姫だが、この世界で育んだ感情は、時に彼女自身をも驚かせるものだった。しかし、それでも分析せずにはいられないのが彼女の性分だった。


 スプシには「会話の内容」「視線の長さ」「心拍数の上昇」「一緒にいて楽しいか」などの項目が並び、それぞれに点数と日付が記されている。さらには「今後の展開予測」「障害となる要素」「解決策」まで詳細に記録されていた。


「冷静に考えると、やっぱり身分差が最大の問題ね...」


 勇姫が紙に向かって独り言を言っていると、突然、部屋の扉がノックもなく開いた。


「失礼します」


 静かな声と共に入ってきたのは、銀白の髪と鋼鉄色の瞳を持つ白凌びゃくりょう宦官長だった。黒を基調とした宦官服に身を包み、表情を読み取ることが難しい彼は、勇姫の机の前に立った。


「白凌さん!?」


 勇姫は驚いて、慌ててスプシを隠そうとした。しかし、遅かった。


「それは...何ですか?」


 白凌の鋭い目は、既に紙の内容を捉えていた。勇姫の顔が見る見る赤くなっていく。


「こ、これは...その...」


 言い訳の言葉が見つからない。白凌は小さく首を傾げた。


「殿下との関係を...分析されているのですか?」


 勇姫は観念して頷いた。


「はい...恥ずかしいですが、私、感情を整理しないと落ち着かなくて...」


 予想に反して、白凌の表情には批判の色はなかった。むしろ、好奇心のようなものが浮かんでいる。


「興味深い方法ですね。前世の知識を活かしておられる」


 彼は一歩近づき、勇姫の許可を得るように視線を送った。彼女が小さく頷くと、白凌は紙を手に取り、内容に目を通し始めた。


「これは...非常に緻密な分析ですね」


 勇姫は恥ずかしさのあまり、顔を両手で覆いたい気分だった。


「お笑いになりますよね。こんな感情まで数値化するなんて...」


「いいえ、むしろ感心します」


 白凌の言葉に、勇姫は驚いて顔を上げた。


「本当ですか?」


「はい。人間の感情は複雑で捉えどころがないもの。それを理解しようとする姿勢は立派です」


 白凌は紙を丁寧に置きながら、続けた。


「ただ...一つ気になる点があります」


「何でしょうか?」


「このスプシは、勇姫様の感情分析のみです。殿下のお気持ちについては?」


 勇姫は少し考え込んだ。


「そうですね...瑞珂さん...殿下の気持ちは、推測でしか書けませんでした」


 白凌はわずかに微笑んだ。


「では、一つ提案があります」


「提案?」


「この分析を殿下にお見せしてはいかがでしょう?」


 勇姫は驚愕して声を上げた。


「え!?と、とんでもない!こんな恥ずかしいものを殿下に見せるなんて...」


「しかし、これこそが勇姫様の思考の証。殿下は喜ばれるのではないでしょうか」


 白凌の提案に、勇姫は激しく首を振った。


「絶対に無理です!こんなの見せたら、私、死んでしまいます...」


 彼女の絶望的な表情に、白凌は静かに頷いた。


「分かりました。それでは...」


 彼は勇姫にスプシを返そうとした。しかしその時、再び扉が開いた。


「やあ、勇姫。今日は早く仕事が終わったそうだから、一緒に...」


 栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ瑞珂ずいか皇太子が現れた。彼は紺の簡素な常服姿で、宮殿内を私的に歩いているようだった。そして、その視線は白凌の手に持たれたスプシに釘付けになった。


「それは何だ?」


 場の雰囲気が一変する。勇姫は血の気が引くのを感じた。白凌は一礼すると、沈黙のまま立っていた。


「あの...それは...」


 勇姫が言葉に詰まると、瑞珂は白凌に近づき、紙を見た。


「これは...僕と勇姫の...?」


 彼の目が見る見る大きくなっていく。


「殿下!それは誤解です!私が...」


 勇姫は必死に説明しようとしたが、瑞珂は既にスプシの内容に見入っていた。彼の表情が次第に変化していく—驚きから、興味へ、そして...喜びへ?


「勇姫...これは本当に君が作ったのか?」


 瑞珂の声は思いのほか穏やかだった。勇姫は小さく頷いた。


「はい...恥ずかしい趣味で申し訳ありません...」


「いや、これは素晴らしい」


 瑞珂の言葉に、勇姫も白凌も驚いた。


「素晴らしいですか?」


「ああ。君の思考方法が形になっている。これこそ君らしさだと思う」


 瑞珂は紙を優しく見つめながら言った。


「ただ、一つ修正した方がいい点がある」


「修正...ですか?」


「ここの『殿下の感情・推測値』の部分だ。随分と低く見積もっているね」


 瑞珂は笑みを浮かべた。勇姫の顔が真っ赤になる。


「い、いえ、それは...」


「正確な数値を入れるなら、もっと上だよ。少なくとも80点は加えるべきだ」


 瑞珂の冗談めいた言葉に、勇姫は言葉を失った。白凌は静かに咳払いをした。


「では、私はこれで失礼します」


 彼は一礼すると、部屋を後にした。扉が閉まる前、勇姫は彼の口元に小さな微笑みが浮かんでいることに気づいた。


「計画通りだったのね...」


 勇姫は白凌の策略に気づいて呆れたが、怒る気にはなれなかった。


「勇姫」


 瑞珂が彼女の名を呼んだ。彼は机に近づき、スプシを置いた。


「君の分析力には感心するよ。だが、感情というのは時に分析を超えるものだ」


 彼は勇姫の手を取った。


「例えば、今の僕の気持ちは数値では表せない」


 瑞珂の瞳には温かな光が宿っていた。勇姫は恥ずかしさの中にも、幸せを感じていた。


「瑞珂さん...私も同じです」


 二人は見つめ合い、静かに微笑み合った。


「それにしても、白凌のやつ...」


 瑞珂が呟くと、勇姫はくすりと笑った。


「見透かされていたのかもしれませんね」


「彼は宮中で一番の観察眼の持ち主だからな」


 窓の外では雪が静かに降り続いていた。勇姫の「恋愛考察スプシ」は、思いがけず二人の関係を前進させるきっかけとなったのだった。


 そして文政局分室ぶんせいきょくぶんしつの外では、白凌が満足げに歩いていた。彼の手には一枚の紙。それは彼自身が作成した「勇姫様と殿下の関係促進計画」と題されたスプシだった。そこには今日の出来事が、既に予定として記されていた。


「計画通り...」


 白凌は小さく呟くと、紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。宮廷の歴史が、また一ページ新たに刻まれたことを、彼は静かに祝福していた。


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