文政局分室は
「これで今日の仕事は終わりね」
勇姫はそう呟くと、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。それは彼女が密かに書き記していた特別なスプシだった。表題には「瑞珂様との関係性分析」と書かれている。
「まさか自分の恋愛感情まで数値化するなんて...」
彼女は小さく笑った。前世では冷静・合理主義だった勇姫だが、この世界で育んだ感情は、時に彼女自身をも驚かせるものだった。しかし、それでも分析せずにはいられないのが彼女の性分だった。
スプシには「会話の内容」「視線の長さ」「心拍数の上昇」「一緒にいて楽しいか」などの項目が並び、それぞれに点数と日付が記されている。さらには「今後の展開予測」「障害となる要素」「解決策」まで詳細に記録されていた。
「冷静に考えると、やっぱり身分差が最大の問題ね...」
勇姫が紙に向かって独り言を言っていると、突然、部屋の扉がノックもなく開いた。
「失礼します」
静かな声と共に入ってきたのは、銀白の髪と鋼鉄色の瞳を持つ
「白凌さん!?」
勇姫は驚いて、慌ててスプシを隠そうとした。しかし、遅かった。
「それは...何ですか?」
白凌の鋭い目は、既に紙の内容を捉えていた。勇姫の顔が見る見る赤くなっていく。
「こ、これは...その...」
言い訳の言葉が見つからない。白凌は小さく首を傾げた。
「殿下との関係を...分析されているのですか?」
勇姫は観念して頷いた。
「はい...恥ずかしいですが、私、感情を整理しないと落ち着かなくて...」
予想に反して、白凌の表情には批判の色はなかった。むしろ、好奇心のようなものが浮かんでいる。
「興味深い方法ですね。前世の知識を活かしておられる」
彼は一歩近づき、勇姫の許可を得るように視線を送った。彼女が小さく頷くと、白凌は紙を手に取り、内容に目を通し始めた。
「これは...非常に緻密な分析ですね」
勇姫は恥ずかしさのあまり、顔を両手で覆いたい気分だった。
「お笑いになりますよね。こんな感情まで数値化するなんて...」
「いいえ、むしろ感心します」
白凌の言葉に、勇姫は驚いて顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。人間の感情は複雑で捉えどころがないもの。それを理解しようとする姿勢は立派です」
白凌は紙を丁寧に置きながら、続けた。
「ただ...一つ気になる点があります」
「何でしょうか?」
「このスプシは、勇姫様の感情分析のみです。殿下のお気持ちについては?」
勇姫は少し考え込んだ。
「そうですね...瑞珂さん...殿下の気持ちは、推測でしか書けませんでした」
白凌はわずかに微笑んだ。
「では、一つ提案があります」
「提案?」
「この分析を殿下にお見せしてはいかがでしょう?」
勇姫は驚愕して声を上げた。
「え!?と、とんでもない!こんな恥ずかしいものを殿下に見せるなんて...」
「しかし、これこそが勇姫様の思考の証。殿下は喜ばれるのではないでしょうか」
白凌の提案に、勇姫は激しく首を振った。
「絶対に無理です!こんなの見せたら、私、死んでしまいます...」
彼女の絶望的な表情に、白凌は静かに頷いた。
「分かりました。それでは...」
彼は勇姫にスプシを返そうとした。しかしその時、再び扉が開いた。
「やあ、勇姫。今日は早く仕事が終わったそうだから、一緒に...」
栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ
「それは何だ?」
場の雰囲気が一変する。勇姫は血の気が引くのを感じた。白凌は一礼すると、沈黙のまま立っていた。
「あの...それは...」
勇姫が言葉に詰まると、瑞珂は白凌に近づき、紙を見た。
「これは...僕と勇姫の...?」
彼の目が見る見る大きくなっていく。
「殿下!それは誤解です!私が...」
勇姫は必死に説明しようとしたが、瑞珂は既にスプシの内容に見入っていた。彼の表情が次第に変化していく—驚きから、興味へ、そして...喜びへ?
「勇姫...これは本当に君が作ったのか?」
瑞珂の声は思いのほか穏やかだった。勇姫は小さく頷いた。
「はい...恥ずかしい趣味で申し訳ありません...」
「いや、これは素晴らしい」
瑞珂の言葉に、勇姫も白凌も驚いた。
「素晴らしいですか?」
「ああ。君の思考方法が形になっている。これこそ君らしさだと思う」
瑞珂は紙を優しく見つめながら言った。
「ただ、一つ修正した方がいい点がある」
「修正...ですか?」
「ここの『殿下の感情・推測値』の部分だ。随分と低く見積もっているね」
瑞珂は笑みを浮かべた。勇姫の顔が真っ赤になる。
「い、いえ、それは...」
「正確な数値を入れるなら、もっと上だよ。少なくとも80点は加えるべきだ」
瑞珂の冗談めいた言葉に、勇姫は言葉を失った。白凌は静かに咳払いをした。
「では、私はこれで失礼します」
彼は一礼すると、部屋を後にした。扉が閉まる前、勇姫は彼の口元に小さな微笑みが浮かんでいることに気づいた。
「計画通りだったのね...」
勇姫は白凌の策略に気づいて呆れたが、怒る気にはなれなかった。
「勇姫」
瑞珂が彼女の名を呼んだ。彼は机に近づき、スプシを置いた。
「君の分析力には感心するよ。だが、感情というのは時に分析を超えるものだ」
彼は勇姫の手を取った。
「例えば、今の僕の気持ちは数値では表せない」
瑞珂の瞳には温かな光が宿っていた。勇姫は恥ずかしさの中にも、幸せを感じていた。
「瑞珂さん...私も同じです」
二人は見つめ合い、静かに微笑み合った。
「それにしても、白凌のやつ...」
瑞珂が呟くと、勇姫はくすりと笑った。
「見透かされていたのかもしれませんね」
「彼は宮中で一番の観察眼の持ち主だからな」
窓の外では雪が静かに降り続いていた。勇姫の「恋愛考察スプシ」は、思いがけず二人の関係を前進させるきっかけとなったのだった。
そして
「計画通り...」
白凌は小さく呟くと、紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。宮廷の歴史が、また一ページ新たに刻まれたことを、彼は静かに祝福していた。