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GAIDEN:外伝6~記録と記憶を超えて、二人が見つめる未来図

 紫霞宮しかきゅう勇姫ゆうきが転生して一年が経った春の日のことだった。芙蓉ふよう帝国の都・玉京ぎょくけいは桜が満開を迎え、宮殿の庭園も華やかな色彩に包まれていた。勇姫の"スプシ改革"は今やすっかり定着し、宮中の業務効率は驚くほど向上していた。そして何より、彼女と瑞珂ずいか皇太子の関係は、「政務補佐官」という公的な立場と、私的な深い絆という二つの形で、しっかりと根付いていた。


 この日、二人は宮殿から少し離れた月見の庭つきみのにわにいた。満開の桜の下、静かな池の畔で、彼らは未来について語り合っていた。漆黒に近い深い藍色の髪を美しく結い上げた勇姫は、いつもの青と銀を基調とした書記女官の制服ではなく、特別に仕立てられた淡い青色の補佐官服ほさかんふくに身を包んでいた。栗色の髪と墨茶色の瞳を持つ瑞珂も、公式の装いではなく、紺の上質な私服姿で、リラックスした表情を浮かべている。


 月見の庭は紫霞宮しかきゅうの北側に位置する静かな庭園で、石の小道が蛇行し、池には春の光を反射する水面が広がっている。周囲には桜の木々が咲き誇り、その下に置かれた石のベンチに二人は腰掛けていた。


「もう一年が経ったのね…」


 勇姫は池に映る桜を見つめながら呟いた。


「ああ。君が来てくれてから、宮中はすっかり変わった」


 瑞珂は穏やかな笑みを浮かべている。


「私の転生から一年…前世では、こんな日が来るなんて想像もしていなかったわ」


 勇姫の灰紫色の瞳には、感慨深い思いが浮かんでいた。彼女は小さなため息をついた。


「でも、時には不安になることもあるの。この先、私たちの改革は本当に成功するのかしら」


 瑞珂は勇姫の手を優しく握った。


「その不安こそが、僕たちを正しい道に導いてくれる。盲目的な自信より、健全な懸念の方が大切だ」


「瑞珂さん…」


 勇姫は彼の言葉に静かに頷いた。


「そうですね。前世の私は、ただ目の前の仕事をこなすだけで、大きな変化を望むこともできませんでした。でも今は違う。私たちには、本当の意味で何かを変える力がある」


 瑞珂は笑顔で空を見上げた。


「そういえば、君は僕の父が崩御した後の計画を纏めておいてくれたんだったな」


「はい。即位式の準備から初期政策まで、全て整理せいりしてあります」


 勇姫はそう言いながらも、少し表情を曇らせた。


「でも…瑞珂さんが皇帝になられたら、私たちの関係も変わってしまうのでしょうか?」


 瑞珂は驚いたように彼女を見つめた。


「どうしてそう思う?」


「皇帝には後宮が必要です。政治的な婚姻こんいんも避けられない。私は…」


 言葉を詰まらせる勇姫に、瑞珂は優しく微笑んだ。


「確かに形式上は、そういった制度との妥協だきょうも必要だろう。だが、僕の心が誰のものかは変わらない」


 彼は勇姫の頬に触れた。


「それに、君は単なる女官ではなく、補佐官だ。これからも政策立案の場で力を発揮してほしい」


 勇姫の目に、わずかな涙が浮かんだ。


「ありがとうございます。私も、できる限りのことをします」


 彼女はポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、彼女特有の美しい表——スプシが描かれていた。


「これは?」


「私たちの改革計画の全容です。十年間で実現すべき政策を項目別に整理しました」


 瑞珂は感心したように紙を見つめた。そこには「教育制度改革」「農地整備」「税制見直し」「医療施設拡充」など、具体的な政策が時系列で整理されている。


「さすがだね。僕が考えていたことを、こんなにも明確にまとめてくれるなんて」


「これからの芙蓉帝国が、より良い国になるために必要なことを考えました」


 勇姫は真剣な表情で続けた。


「特に力を入れたいのは教育です。瑞珂さんがおっしゃっていた『図書館構想』を中心に、知識をより多くの人に開放する仕組みを作りたいんです」


 瑞珂は頷いた。


「そう、知は力だ。それを独占するのではなく、皆で分かち合うことで国は強くなる」


 彼は計画表の先の方を指さした。


「これは何だい?『スプシ学校』とは?」


 勇姫の顔が少し赤くなった。


「あの...私の考えた仮の名称ですが、計算や記録の方法を教える学校です。前世の知識を活かして、より多くの人が『見える化』の技術を身につけられるように」


「素晴らしい発想だ」


 瑞珂は心から感心したように言った。


「君の前世の知恵と、この世界の伝統が融合すれば、新たな文化が生まれるだろう」


 二人は桜の下で、未来の構想に思いを馳せた。突然、後ろから声がかかった。


「ここにいらしたのですね」


 振り返ると、銀白の髪と鋼鉄色の瞳を持つ白凌びゃくりょう宦官長が立っていた。黒を基調とした宦官服に身を包み、いつもの通り表情からは何も読み取れない。


「白凌、何か用か?」


 瑞珂が尋ねた。白凌は一礼した。


「陛下がお呼びです。次の儀式について」


「わかった。すぐに行こう」


 瑞珂は立ち上がり、勇姫に微笑みかけた。


「少し待っていてくれるかい?すぐに戻るから」


「はい、ここで待っています」


 瑞珂が去った後、白凌は勇姫の傍らに立った。


「計画は順調のようですね」


「はい。瑞珂さんと未来について話し合うことができました」


 勇姫はそう答えながらも、少し不安そうな表情を浮かべた。白凌はそれを見逃さなかった。


「何かお悩みですか?」


「実は...私は"転生者"です。この世界の人間ではないという事実が、時々心に引っかかるんです」


 勇姫は空を見上げた。


「前世の記憶と今の記録。両方を持つ私が、本当にこの国の未来に携わっていいのでしょうか」


 白凌は珍しく、穏やかな表情を見せた。


「記録と記憶は、未来を築くための礎です。勇姫様の二つの世界の経験こそが、芙蓉帝国に新しい風をもたらしている」


 彼の言葉に、勇姫は驚いて目を見開いた。


「白凌さん...」


「私は長年、宮廷の記録者として歴史を見てきました。そして今、歴史が変わろうとしているのを感じています」


 白凌は勇姫のスプシに目を落とした。


「これからの道は平坦ではないでしょう。しかし、殿下と勇姫様が共に歩めば、必ず素晴らしい未来が開けるはずです」


 勇姫は深く頷いた。その時、瑞珂が戻ってきた。


「お待たせ。父上は相変わらず儀式にうるさくてね」


 彼は苦笑しながら、再び勇姫の隣に座った。白凌は静かに一礼すると、その場を後にした。


「さて、話の続きをしよう」


 瑞珂は勇姫の手を取った。


「僕が考える理想の国は、全ての人が『楽になる権利』を持つ国だ。苦しんで耐えることが美徳だという古い考えを捨て、皆が少しずつ楽に生きられる社会にしたい」


 勇姫は瑞珂の言葉に、心から共感した。


「私も同じです。前世の日本でも、非効率な仕事に苦しむ人があまりにも多かった。効率化は単なる合理性ではなく、人の幸せのためにあるべきなんです」


 瑞珂は微笑んだ。


「君と出会えたことは、僕にとって最大の幸運だった」


 彼は勇姫の手を優しく握り締めた。


「これからも共に、未来を創っていこう」


「はい、瑞珂さん」


 二人の頭上では桜の花びらが舞い、その一枚が二人の間に舞い降りた。勇姫はそれを手のひらに受け止めた。


「前世では考えられなかった幸せ...」


 彼女はそっと呟いた。瑞珂は彼女の耳元で囁いた。


「これからもっと素晴らしい未来を、二人で築いていこう」


 桜の木の下、記録と記憶を超えて、二人は固く手を取り合った。彼らの描く未来図は、この世界に新しい風を吹き込むことだろう。


 そして遠くから、白凌が二人を見守っていた。彼の手には一冊の日誌。その表紙には「芙蓉帝国変革記」と記されていた。彼は静かに微笑み、新しいページを開いた。歴史の証人として、今日という特別な日を記録するために。


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