この日、二人は宮殿から少し離れた
月見の庭は
「もう一年が経ったのね…」
勇姫は池に映る桜を見つめながら呟いた。
「ああ。君が来てくれてから、宮中はすっかり変わった」
瑞珂は穏やかな笑みを浮かべている。
「私の転生から一年…前世では、こんな日が来るなんて想像もしていなかったわ」
勇姫の灰紫色の瞳には、感慨深い思いが浮かんでいた。彼女は小さなため息をついた。
「でも、時には不安になることもあるの。この先、私たちの改革は本当に成功するのかしら」
瑞珂は勇姫の手を優しく握った。
「その不安こそが、僕たちを正しい道に導いてくれる。盲目的な自信より、健全な懸念の方が大切だ」
「瑞珂さん…」
勇姫は彼の言葉に静かに頷いた。
「そうですね。前世の私は、ただ目の前の仕事をこなすだけで、大きな変化を望むこともできませんでした。でも今は違う。私たちには、本当の意味で何かを変える力がある」
瑞珂は笑顔で空を見上げた。
「そういえば、君は僕の父が崩御した後の計画を纏めておいてくれたんだったな」
「はい。即位式の準備から初期政策まで、全て
勇姫はそう言いながらも、少し表情を曇らせた。
「でも…瑞珂さんが皇帝になられたら、私たちの関係も変わってしまうのでしょうか?」
瑞珂は驚いたように彼女を見つめた。
「どうしてそう思う?」
「皇帝には後宮が必要です。政治的な
言葉を詰まらせる勇姫に、瑞珂は優しく微笑んだ。
「確かに形式上は、そういった制度との
彼は勇姫の頬に触れた。
「それに、君は単なる女官ではなく、補佐官だ。これからも政策立案の場で力を発揮してほしい」
勇姫の目に、わずかな涙が浮かんだ。
「ありがとうございます。私も、できる限りのことをします」
彼女はポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、彼女特有の美しい表——スプシが描かれていた。
「これは?」
「私たちの改革計画の全容です。十年間で実現すべき政策を項目別に整理しました」
瑞珂は感心したように紙を見つめた。そこには「教育制度改革」「農地整備」「税制見直し」「医療施設拡充」など、具体的な政策が時系列で整理されている。
「さすがだね。僕が考えていたことを、こんなにも明確にまとめてくれるなんて」
「これからの芙蓉帝国が、より良い国になるために必要なことを考えました」
勇姫は真剣な表情で続けた。
「特に力を入れたいのは教育です。瑞珂さんがおっしゃっていた『図書館構想』を中心に、知識をより多くの人に開放する仕組みを作りたいんです」
瑞珂は頷いた。
「そう、知は力だ。それを独占するのではなく、皆で分かち合うことで国は強くなる」
彼は計画表の先の方を指さした。
「これは何だい?『スプシ学校』とは?」
勇姫の顔が少し赤くなった。
「あの...私の考えた仮の名称ですが、計算や記録の方法を教える学校です。前世の知識を活かして、より多くの人が『見える化』の技術を身につけられるように」
「素晴らしい発想だ」
瑞珂は心から感心したように言った。
「君の前世の知恵と、この世界の伝統が融合すれば、新たな文化が生まれるだろう」
二人は桜の下で、未来の構想に思いを馳せた。突然、後ろから声がかかった。
「ここにいらしたのですね」
振り返ると、銀白の髪と鋼鉄色の瞳を持つ
「白凌、何か用か?」
瑞珂が尋ねた。白凌は一礼した。
「陛下がお呼びです。次の儀式について」
「わかった。すぐに行こう」
瑞珂は立ち上がり、勇姫に微笑みかけた。
「少し待っていてくれるかい?すぐに戻るから」
「はい、ここで待っています」
瑞珂が去った後、白凌は勇姫の傍らに立った。
「計画は順調のようですね」
「はい。瑞珂さんと未来について話し合うことができました」
勇姫はそう答えながらも、少し不安そうな表情を浮かべた。白凌はそれを見逃さなかった。
「何かお悩みですか?」
「実は...私は"転生者"です。この世界の人間ではないという事実が、時々心に引っかかるんです」
勇姫は空を見上げた。
「前世の記憶と今の記録。両方を持つ私が、本当にこの国の未来に携わっていいのでしょうか」
白凌は珍しく、穏やかな表情を見せた。
「記録と記憶は、未来を築くための礎です。勇姫様の二つの世界の経験こそが、芙蓉帝国に新しい風をもたらしている」
彼の言葉に、勇姫は驚いて目を見開いた。
「白凌さん...」
「私は長年、宮廷の記録者として歴史を見てきました。そして今、歴史が変わろうとしているのを感じています」
白凌は勇姫のスプシに目を落とした。
「これからの道は平坦ではないでしょう。しかし、殿下と勇姫様が共に歩めば、必ず素晴らしい未来が開けるはずです」
勇姫は深く頷いた。その時、瑞珂が戻ってきた。
「お待たせ。父上は相変わらず儀式にうるさくてね」
彼は苦笑しながら、再び勇姫の隣に座った。白凌は静かに一礼すると、その場を後にした。
「さて、話の続きをしよう」
瑞珂は勇姫の手を取った。
「僕が考える理想の国は、全ての人が『楽になる権利』を持つ国だ。苦しんで耐えることが美徳だという古い考えを捨て、皆が少しずつ楽に生きられる社会にしたい」
勇姫は瑞珂の言葉に、心から共感した。
「私も同じです。前世の日本でも、非効率な仕事に苦しむ人があまりにも多かった。効率化は単なる合理性ではなく、人の幸せのためにあるべきなんです」
瑞珂は微笑んだ。
「君と出会えたことは、僕にとって最大の幸運だった」
彼は勇姫の手を優しく握り締めた。
「これからも共に、未来を創っていこう」
「はい、瑞珂さん」
二人の頭上では桜の花びらが舞い、その一枚が二人の間に舞い降りた。勇姫はそれを手のひらに受け止めた。
「前世では考えられなかった幸せ...」
彼女はそっと呟いた。瑞珂は彼女の耳元で囁いた。
「これからもっと素晴らしい未来を、二人で築いていこう」
桜の木の下、記録と記憶を超えて、二人は固く手を取り合った。彼らの描く未来図は、この世界に新しい風を吹き込むことだろう。
そして遠くから、白凌が二人を見守っていた。彼の手には一冊の日誌。その表紙には「芙蓉帝国変革記」と記されていた。彼は静かに微笑み、新しいページを開いた。歴史の証人として、今日という特別な日を記録するために。