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第43話

「皇帝陛下の容態が急変されました!」


朝日が差し込む清風院の部屋に、侍従の悲痛な叫び声が響き渡った。私——勇姫ゆうきは手に持っていた茶碗を取り落とし、目の前が真っ白になる感覚に襲われた。


「え…?」


それは、私が補佐官に任命されてから半年が過ぎた、春の終わりの朝のことだった。


◆◆◆


宮中が一気に喪に服した。廊下には黒い布が張られ、女官たちは装飾品を外し、静かに業務をこなしていた。誰もが悲しみに打ちひしがれながらも、次の皇帝の即位に向けた準備が粛々と進められていく。


「勇姫さま…」


小桃が赤く腫れた目で私の部屋を訪ねてきた。彼女は皇帝陛下を心から敬愛していた。


「小桃…」


言葉をかけようとして、私自身も涙がこみ上げてきた。皇帝陛下は私にとっても恩人だ。彼がいなければ、改革も成し遂げられなかった。


「殿下は…どうされてますか?」小桃が小さな声で尋ねた。


「ずっと天輝殿てんきでんで葬儀の準備をしておられるわ」私は静かに答えた。「まだお会いできていないの」


「そうですか…」


静かな沈黙が流れる。喪に服す七日間、宮中は通常業務を停止する。ただし、最低限の運営と、次の皇帝の即位準備だけは続けられる。


「私、瑞珂ずいか殿下のところへ行ってくるわ」私は決意を固めた。「この時こそ、補佐官として側にいるべきだもの」


「はい!」小桃が頷いた。「あたしは勇姫さまの指示を女官たちに伝えます」


◆◆◆


天輝殿てんきでんは厳粛な空気に包まれていた。普段の華やかさはどこへやら、黒と白の布で覆われた内部は荘厳な雰囲気を醸し出している。


「勇姫殿」


振り返ると、霜蘭が静かに近づいてきた。彼女も喪服姿だ。


「霜蘭さん…」


「殿下は内殿におられる」彼女が静かに言った。「あなたを待っておられる」


「本当?」驚いた私に、霜蘭は小さく頷いた。


「皇太子…いや、もうすぐ陛下となられる方の隣には、あなたが必要だ」


彼女の言葉に背筋が伸びる思いがした。そうだ、私はただの書記ではない。瑞珂の補佐官として、この重大な時に支えになるべき存在なのだ。


「ありがとう」


内殿へと進む。重い扉を開けると、そこには喪服姿の瑞珂が一人、窓際に佇んでいた。彼の背中には、これから背負う重責の重さが見えるようだった。


「瑞珂殿下…」


彼が振り返る。その顔には深い悲しみと、同時に強い決意が刻まれていた。


「勇姫、来てくれたか」


彼の声は疲れていたが、しっかりとしていた。


「はい。お力になれることがあれば…」


「うむ」瑞珂はゆっくりと頷いた。「そなたがここにいてくれるだけで、心強い」


心臓が高鳴るのを感じる。この重大な時期に、彼の側にいられることに感謝した。


「父上は…」瑞珂が窓の外を見つめながら言った。「最期まで宮中のことを案じておられた」


「そうでしょうね」


「特に、我らの改革についてだ」彼の声に力が戻ってきた。「『続けよ』と。それが父上の遺言だった」


「陛下…」私は思わず目を閉じた。最期まで改革を気にかけてくださっていたなんて。


「勇姫」瑞珂が真剣な眼差しで私を見つめた。「私の即位式は七日後だ。その準備を手伝ってほしい」


「もちろんです」私はきっぱりと答えた。「すべてお任せください」


「それと…」彼は少し言いよどんだ。「即位後、新たな制度を発表する。それについても、そなたの力が必要だ」


「新たな制度?」


「うむ」瑞珂の目が光った。「父上の遺志を継ぎ、宮中をさらに透明で公正な場所にするための制度だ。そなたのスプシの理念をもとに」


その言葉に胸が熱くなった。皇帝の遺志と、瑞珂の信頼。それに応えるためにも、全力を尽くさねばならない。


「わかりました。最善を尽くします」


◆◆◆


即位式の準備は慌ただしく進んだ。私は瑞珂の指示のもと、各部署との調整や、新制度の準備を並行して進めた。小桃や霜蘭も力を貸してくれ、白凌は警備の指揮を執っていた。


そして七日後、天輝殿てんきでんの大広間に宮中のすべての高官と貴族が集まった。厳かな音楽が流れる中、瑞珂が登場。彼は皇帝の正装に身を包み、威厳に満ちた姿で玉座へと向かう。


私は最前列で見守っていた。誓いの言葉、宝剣の授与、そして玉璽ぎょくじの伝達。一つ一つの儀式が厳かに執り行われていく。


「これより、瑞珂ずいか皇帝の御世が始まる」


大臣の宣言と共に、会場から大きな拍手が湧き起こった。瑞珂――いや、今からは陛下と呼ぶべき彼は、威厳に満ちた表情で玉座に座した。


「臣民諸君」


新皇帝の声が広間に響き渡る。


「本日より、新たな時代が始まる。先帝の遺志を継ぎ、宮中と帝国の繁栄のために全力を尽くす所存だ」


厳かな言葉に、会場は静まり返っていた。


「そして今、最初の勅令を発する」


彼の言葉に、一同が息を呑んだ。即位式での勅令は、新皇帝の統治方針を示す重要なものだ。


「宮中改革を加速させるため、新たに『透明院とうめいいん』を設置する」


会場にざわめきが広がる。


「この透明院は、宮中のすべての財政と人事を監督し、不正を防ぎ、公正な運営を保証する機関となる」瑞珂陛下の声は力強かった。「そして、この長官には、宮中改革の立役者である勇姫ゆうきを任命する」


「え?」


思わず声が漏れた。事前に何も聞いていなかったからだ。


「勇姫、前へ」


呼ばれて我に返り、震える足で前に進み出る。瑞珂陛下の前に跪く。


「勇姫」彼の声には公の場では見せない温かさが混じっていた。「そなたのスプシの力で、宮中を変えてきた。これからも、透明院の長として、改革を導いてほしい」


「はっ…」言葉が震える。「身に余る光栄です」


彼は公の場にもかかわらず、わずかに微笑んだ。


「そして、透明院の設立と共に、『宮務開示令きゅうむかいじれい』を施行する。宮中のすべての業務と財務は、透明院を通じて記録され、定期的に公開されるものとする」


会場から驚きの声が上がる。これは宮中史上初の試みだった。不正を防ぎ、透明性を確保するための画期的な制度。


「これにより、先帝が始められた改革を継承し、より公正で効率的な宮中を実現する」瑞珂陛下の声に確固たる決意が込められていた。「すべては帝国の繁栄のために」


私は頭を下げたまま、涙をこらえるのに必死だった。こんな日が来るなんて。前世では誰からも認められなかった私のスキルが、この世界では国を変える力になるなんて。


「陛下、ありがとうございます」心からの感謝を込めて言った。「全力で務めさせていただきます」


◆◆◆


即位式の後、私は新設された透明院の執務室に案内された。驚くほど広い部屋には、すでに十数名のスタッフが配置されていた。


「勇姫様、よろしくお願いいたします!」


彼らは一斉に頭を下げる。選りすぐりの人材たちだ。


「こちらこそ」私は笑顔で応えた。「一緒に宮中を変えていきましょう」


執務室の奥には、瑞珂陛下が用意してくれたという特別な部屋があった。そこには見たこともないほど大きな机と、壁一面の書棚。さらには、私のスプシを形にするための特製の表が準備されていた。


「これは…」


感動で言葉を失う。すべてが完璧に整えられていた。


「勇姫様」


振り返ると、小桃が嬉しそうに駆け込んでくる。


「見ましたか?廊下に掲示された新しい勅令ちょくれい!勇姫さまの名前が大きく書かれてますよ!」


「ええ…まだ実感がわかないわ」正直な気持ちを告げる。


「あたし、本当に嬉しいです!」小桃の目は輝いていた。「勇姫さまが宮中を変えるって信じてました!」


彼女の無邪気な喜びに、心が温かくなる。


「あ、それと!」小桃が思い出したように言った。「陛下がお呼びです。今晩、私室でお待ちだそうです」


「陛下が?」胸がときめく。


「はい!」小桃がにやりと笑う。「特別な晩餐だそうですよ〜」


「も、もう!からかわないで!」


頬が熱くなるのを感じながら、私は新しい執務室を見回した。ここから新たな改革が始まる。透明院の長として、そして瑞珂陛下の補佐官として、私の新しい挑戦が幕を開ける。


◆◆◆


その夜、陛下の私室を訪れると、彼は公務を終えたばかりのようだった。皇帝の正装から少し砕けた服装に着替えていたが、それでも威厳は失われていない。


「勇姫、来てくれたか」彼は温かい笑みを浮かべた。「座るがよい」


「はい、陛下」


「ここでは、陛下などと堅苦しく呼ばなくていい」彼は少し照れたように言った。「二人きりの時は、以前のように」


「でも…」


「それが、私の望みだ」彼はきっぱりと言った。


「わかりました…瑞珂殿下」


「うむ、それでいい」彼は満足げに頷いた。「さて、今日の即位式はどうだった?」


「素晴らしかったです」心からそう感じていた。「陛下の威厳に、みなが感銘を受けていました」


「そうか」瑞珂は少し照れくさそうに微笑んだ。「実は緊張で足が震えていたんだが」


「え?」思わず笑みがこぼれる。「全然わかりませんでしたよ」


「それは良かった」彼も笑った。「父上のようにはいかないが…精一杯務めるつもりだ」


「殿下なら大丈夫です」私は真剣に言った。「みなさんも信頼していますし、私も全力でサポートします」


「ありがとう」瑞珂の目が柔らかくなる。「そなたがいてくれるから、私は前に進める」


その言葉に胸が熱くなった。


「それにしても、透明院の長官就任は驚きました」正直な気持ちを伝える。「事前に何も聞いていなかったので」


「サプライズだ」瑞珂はくすりと笑った。「そなたの表情が見たかったのさ」


「もう!」思わず抗議する声が出た。「あんな大勢の前で…」


「だが、誰もが納得していた」彼は真剣な表情になった。「そなた以外に、この役を任せられる者はいない」


「本当に…務まるでしょうか」不安もあった。「今までとは桁違いの責任です」


「心配するな」瑞珂は静かに言った。「私が、そばにいる」


それだけで、心が落ち着くのを感じた。


「さあ、今日の晩餐を楽しもう」瑞珂は話題を変えた。「即位の日の特別な料理だ」


侍従たちが運んでくる料理は、どれも豪華で美しかった。二人きりの晩餐は、公式の宮中行事とは違う、穏やかで温かな時間。会話は仕事のことから、思い出話、そして未来の夢へと自然に流れていく。


「勇姫」食事が終わりに近づき、瑞珂が静かに言った。「ひとつ、個人的なお願いがある」


「何でしょう?」


「明日から、皇帝としての公務が本格的に始まる」彼の目には真摯な光があった。「きっと大変な日々になるだろう。だが…」


「だが?」


「たまには、こうして二人で話す時間が欲しい」彼は少し恥ずかしそうに言った。「皇帝と補佐官ではなく、瑞珂と勇姫として」


その言葉に、私の心臓が跳ねた。


「はい」声が少し震える。「私も…そう願います」


瑞珂の顔に優しい笑みが広がる。窓から見える月が、私たちを静かに照らしていた。


「明日からは、新しい時代の始まりだ」彼は決意を込めて言った。「共に歩もう」


「はい、瑞珂殿下」


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