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第4回

◆幻聖宮・前夜


「テディ。テディ」


 朝。セオドアは自分を呼ぶ優しい声で目を覚ました。

 閉じたまぶたの上からでも快晴と分かる朝の強い光にくらまないよう用心しながら目を開ける。枕元に立つ男がいた。


「……蒼駕そうが


 寝起きのくぐもった声で名を呼ぶ。男の顔は、窓を背にしているため陰ってしまっていたが、それが蒼駕であることは間違いなかった。

 自分のことを「テディ」と呼ぶのは彼しかいない。


「おはよう、テディ」


 セオドアが目を開けて自分を見たことで、蒼駕は彼女の寝台から身を離す。そしてカーテンを全開にして部屋を朝の光で満たし、窓も開いた。

 新鮮な澄みきった空気が風とともに入ってきて、セオドアの前髪を震わせる。


「どうかしたのかい? テディ」

 身を起こしたものの、ぼんやり自分を見ているだけでそれ以上動こうとしないセオドアに、蒼駕が戻ってくる。


 別に、酷い低血圧というわけではない。

 蒼駕が自分の部屋にいて、しかも自分を起こしたのだという現実を認識して、硬直していたのだ。


「テディ、ちゃんと起きてるかい?」


 優しい手が、そっと額に触れかけたとき。ようやくセオドアの中で思考が現実へ追いついた。


「お、起きてますっ」


 触れる寸前、急いで反対側から寝台を抜け出して、あわてて上着をはおる。


「何か、あったんですか? あなたがわたしを起こしに来てくださるなんて……」


 あせって出した声が、緊張のせいで上ずっているのがセオドアにも分かる。


 ずっと寝顔を見られていたのだ。しかも蒼駕が入ってきた気配も感じずに、その甘やかな声で起こされるまで無防備に眠っていたとは、なんたる不覚。


 しかし……寝顔を、見られていた……! そのことと、そして今、こんな寝起きで、何もかもがぐしゃぐしゃの姿をした自分を見られていることが、たとえようもなく気恥ずかしくて、セオドアは振り返ることさえできなかった。


 そんな気持ちを知ってか知らずか、当の蒼駕も近寄ってこようとはしなかった。服を出して寝台の端へ置くと、さっさと部屋から出ていってしまう。


「今日はそれを着なさい。それから、時間があればわたしの部屋へ来てくれないかな。

 もちろん、あればでいいからね」


 その言葉にこくこくとうなずいたときにはもう、蒼駕の気配は消えてしまっていた。

 遠去かる足音もなく、つい先までこの部屋にいたことさえも錯覚に感じさせるそのみごとさには、さすがとしか言いようがない。


 さすが現存する最強の魔断剣の1人、青颯牙せいそうがの蒼駕、と。


 蒼駕に対するいつもにましての尊敬と、それに比べての自己嫌悪とが入り混じった、複雑な思いにふさがれた胸のまま、もそもそと着替え始める。寝着を脱ぎおとし、寝台の上に置かれた着替えを手にとって、そこで初めて気がついた。


 蒼駕の出してくれている衣装はセオドアの瞳の色に一番近い翠の上下で、上衣には同色の糸で魅魎よけの保護呪が模様として飾り刺繍された、いわば退魔師としての盛装衣せいそういだったのだ。


 これを身につけることの意味するところは2つ。


 所属している国や街の領主など、上位の者の前に立ち、その依頼をじきじきに受けるとき。もう一つは、この幻聖宮を出てどこかの国へ配属される、出立式しゅったつしきのときだ。


 しかしセオドアはまだ魔断との感応式かんのうしきもしていない身だ。当然ながら、まだどこにも所属していないし、配属されるはずがない。では、どうしてこんな服を蒼駕は出していったのだろう?


 蒼駕に限って出し間違うなどということがあるはずがなかった。それに、これはもうずっと目につかない、引き出しの奥底のほうへ追い払うようにしまいこんでいたのだ。


 2年前、自身の魔導杖まどうしすら見極めることができず、結果、同期たちの中で唯一自分だけが感応式に参加することができなかったみじめさを思いだしたくなくて、それ以来触れてもいなかった。

 せっかくの蒼駕からの贈り物だったというのに。



 これを着た姿をあの人に見せることができなかったことに、どれだけ悔しい思いをしたか……。


 その本人が出していったのだから、間違いなく今日はこれを着ろということだろう。

 でも、何故?


 迷いながらもとにかく着る。最後にご丁寧にも、幻聖宮の退魔師であることを表す、赤味がかった黄色の聖布まで出されていると気付いたときには、目の前がくらくらせずにいられなかった。


 まったく、今日は一体何の日だというのか。祝日ではなかったと思うが……。

 言われたからというわけではないが、これはぜひとも蒼駕の元へ行かなくてはならないな。


 そう考え、白金色はくきんしょくの髪をいつものように右横で三つ編みに編みそろえながら部屋を出る。





 この一歩が、退魔師としての自分の『これから』を決める始まりとなる重大なものであることを、このときの彼女はまだ知らなかった。


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