●ルビアの町
途中休憩を幾度か挟みつつ、結局太陽が沈みかけたころにようやくたどり着けたルビアの町は、セオドアにはどこかおかしく見えた。
どこが? と訊かれてもうまく説明のしようがない、漠然としたものなのだが、かといってそのまま捨て置くには釈然としないものがある。
所々に行商者の布が張られている、あまり舗装が行き届いているとはいえない石畳の上を、行き交う人とぶつかりそうになるのを避けて歩きながら、フードの下から周囲に目を配る。
「なにおのぼりさんみたいなことして……それとも幻聖宮の下町は、こんなじゃないのか?」
となりであきれたように言ってくるエセルの袖を引いて、人気のない路地へ入ると訊いてみた。
「何か、おかしいと思わないか?」
その出し抜けの質問に変な顔をしつつも、一応考えてくれた。そして何か思いついたような顔になり、その考えを確かめるようにぐるりと市を見回す。
「そうだな……しいて上げるとすれば、いつもと比べて女子どもの姿が見えないことかな?」
瞬間、頭の中でピシリと音がしたように、セオドアの中をいやな予感――それも悪寒に近いそれが走り抜ける。
「あとはせいぜい行商路にしては賑やかさが足りないってくらいかな。普通ならもっと交渉の声があちこちで上がっているもんだが。
だけど、もう市としては終わりの時間だし、特におかしすぎるってことでも――セオドア?」
そこまで言って、ようやくセオドアの様子がおかしいことに気付いたエセルの手が、その場に崩れかけたセオドアの体を支えるように回された。倒れまいと、その手に重心を預けながらセオドアは爪を立てる。
「どうした、セオドア」
「……ちょっとした、立ちくらみだ。気にするな」
そう言う自分の言葉が、まるで耳の中にピンと張った膜の向こうから聞こえる。
力の入らない足ではこれ以上立っていられずに、セオドアは壁に肩を預ける形でその場にずずずと座わりこんだ。
「一日水を口にしてなかったせいかな。
ここで待てるか?」
「ああ……」
すぐ戻る。そう言い残してまばらな人混みの中へ駆けこんで行く後ろ姿を見ながら、つくづくタフなやつだと感心した。
いくら砂漠を行くのに慣れているとはいえ、女で、しかも初めての自分を連れていたのだ。普段であれば半日かからないはずの行程は1日近くなり、しかも水がなかったときてはペースを崩されて当然なのに……見かけによらないものだ。
洗練された優男に見える外見から持った印象を、詫びる気持ちで塗り替える。
しかし、これは一体どうしたことか……。
心臓を中心に全身が強く圧迫されている感じがする。酷いプレッシャーで早まる動悸に呼吸が間に合わず、指先や足先が痺れて除々に力が抜けてゆくのに、妙に頭の芯だけが冴えていて……脱水症状というより、貧血――酸欠の症状に似ているようだ。
なぜ?
だがそれについて探ろうとも体の変調にほとんどの意識がいってしまって、ろくに思考がまとめられない。
目を閉じて雑踏に背を向け、とにかく少しでも鎮めようと膝を抱いてじっとうずくまっていたセオドアが、いつの間にか自分の上に人影ができていることに気付いたとき。小さな子どもの手らしいものが、彼女のマントの端を引っ張った。
「オ、ネエ、チャン」
片言の言葉で言う子どもの声に応じて、うっすらと目を開ける。
そこにいる少年の姿を見た瞬間、セオドアは全身を襲う苦しみも忘れてカッと強く目を見開いていた。
どす黒い肌をした、少年らしきものの顔がそこにあった。
――違う。黒く染まった
これが魅魎をよく知らない、ただの人であれば靄を見ることもできず、せいぜい勘のいい者であれば違和感を感じられる程度のものだろうが、セオドアに
有り得ない存在。生ある者が息づくこの世界において、このようなものの存在を認めることはできない!
叫ぶほど強く訴える、内なる自分の声に頭痛と耳鳴りを感じながら、セオドアは顔をそむけた。
「オネエ、チャン。苦シイ、ノ?」
その先にいつの間にかいた少女がぎこちなく言って、いやらしい三日月の笑みを浮かべて笑いかけてくる。その唇はカラカラに渇いてひび割れており、開いた唇から覗き見える歯は、今にも取れそうなほど根元のぐらついた、黒っぽい黄色のものが数本あるだけだった。
胸からのどへせり上がってくる、熱を帯びた塊――嫌悪感に、セオドアはむせかえった。
ごほっごほっと咳こんだセオドアに、少女の後ろにいた少年が何かを差し出してくる。
「食ベル?」
先の2人同様、うす笑いを浮かべて近付いた顔は、もはや元が人間であるか判別つきかねるほど、両頬がグチャグチャに裂けてしまっている。
そのあまりの無惨さに見ておれず、目をつぶり、通りのほうへ再び顔をそむけたセオドアは、すっかり自分が少年たちに取り囲まれていることに気がついた。
助けを呼ぼうとして開いた口からは、しかし声は全く出てこない。頭痛はさらにひどくなり、今にも頭が割れそうだ。
恐怖にかられ、無理に押し出そうとしたせいでカラカラになった喉をこすってしまい、その痛みにセオドアは思わずのどへ手をあてた。
「ノド、
再び少女の声がする。
「食べナヨ。遠慮、シナクテイイ、カラ」
顔へ突きつけるように少年の手が果物らしき物を差し出してくる。が、それは闇の
こんな物を口にしたが最後、体内へと入りこんだ魅魎の毒に内側から侵蝕され、とても無事でいられるとは思えない。
「ネェ、食ベナヨ」
「オイシイ、ヨ」
「ホラ」
子どもたちは、聞くからに空々しい、上辺だけの言葉を口にしながらセオドアへとつめ寄ってくる。
せめて体が動けば……!
ぼたりと膝の上に落ちた果物は、まるで完熟したそれのように弾けて割れ、途端噴き出した闇の瘴気に肺が侵される。
「食、ベナキャ」
新たな果物を別の少年が差し出してくる。
何も語らない、無情な、爬虫類のごときおぞましい目をして。
――誰か!
動けないということがさらに恐怖に拍車をかけ、余裕を欠いた心の中で必死に助けを呼ぶ。
――誰か、助けて……!
「オイ、シイ、ヨ」
頬に押しつけられた果物からする、今にも呼吸困難に陥りそうな悪臭に身をよじったセオドアの髪先をかすめるようにして、何かがこの場へ飛来した。
少年が手のひらに乗せていた果物が、その何かに弾かれて姿を消し、少年の足元でぐしゃりと潰れる音がする。
「あいにくそのお姉ちゃんは、果物は嫌いだそうだ。他をあたれ」
半ば気を失いかけていたセオドアを一瞬で正気づかせるような声が通りのほうからした。
急いで上げた視界にエセルの姿が飛びこんでくる。軽く小石を真上へ投げ上げる手遊びをしているが、その面は、先の軽口からは想像できないほど真剣だ。
悪夢の中で助けを求めるように、そちらへ手を伸ばしかける。しかし、安堵でわずかに取り戻した理性は彼を巻きこむことはできないと判断し、その手をぎゅっと握りしめ、セオドアは反対に横に振った。
「……逃げろ、魅魎の仕業だ」
とも言ったつもりだった。
だが声が小さすぎて聞こえなかったのか、それともまるきり無視しているのか。エセルはずかずかとこちらへ歩み寄ると、子どもたちがまるで目に入ってすらいないように無造作に割って入り、具合を見るよう彼女の側へ膝をついた。
「おい、大丈夫か?」
のどを瘴気にやられて、うまく言葉が出せない。
覗き込むエセルにうなずこうとするが、額には汗が玉となってにじみ出ており、うなずきすら満足に返せない状態だ。腕もしびれて力が入らず、指先に感覚がない。
セオドアのその様子に、立てそうにないと判断するや、エセルは慣れた手付きでセオドアの体を抱き上げ、子どもたちへ視線を落とした。
「どけ。ガキには興味がない」
とてもセオドアを相手にしているときからは想像もつかないほど、感情の消えた冷淡な声だった。
「買ってもらいたいのならもっと新鮮な物を持ってくるんだな。
まったく、この街はろくな物をおいてない。いつものことだが、今回は特にだ」
そう言い捨てて、堂々と輪を抜けようとするエセルの服の端をつかもうとした少女の手が、触れる前にびくりと止まる。
エセルの腕の中で力なく目を閉じて彼に身を預けていたセオドアは、一瞬、息もできないほど熱い風のあおりを感じたように思えたが、それが何かを確かめようにもそのときにはもう、彼女の意識は抗い難い闇の中へと引きこまれていた。