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第2回

 ピシャリと冷たい水に顔を打たれて、セオドアは大きく目を開いた。


「気がついたか?」


 暮色蒼然とした空を背にして上から見下ろす、エセルの脳天気な顔が見える。

 その質問には答えずに上半身を起こすと、セオドアはまだ眠りに半分浸かっているような頭を振った。

 びちびちと飛び散る水滴が、あの行商路よりも格段に舗装のおちた、穴だらけの地面に落ちて吸いこまれていく。その様子をながめ、周囲を見渡して、ここが貯水池であると気付いた。


 意外にも、不規則だった呼吸がきれいにおさまって、あんなに酷かった圧迫感が消えていた。

 瘴気に侵された肺の焼けるような痛みも薄れ、頭の中も不思議としっかりしていて、セオドアは一瞬先のこと全てがたちの悪い悪夢だったのではないかと疑ったほどだ。


 だが、皮肉にも澄んだ記憶は明確に闇の爪痕つめあとをとどめており、いまだ鈍い指先は、無理やり生気を削ぎ取られたことによる、回復の遅れを知らせている。


「大丈夫か? どこかおかしいところでもあるか?」


 身を起こしたものの、指先を凝視したままじっと考え込んで動かないセオドアに、さらに心配が高まったか。エセルがそう声がけをしてきた。


「ああ、大丈夫だ。心配ない。

 それより、おまえにはここまで運んでくれた礼を言わないといけなかったな。

 すまなかった」


 それは、やはり言われた側がよくよく理解しようとしなくてはまっすぐ伝わらないほど、はたして含まれているのが善意の感情かどうかも読み取りの難しい声だったが、このとき、おそらく意識が他のことへ飛んでいたためもあっただろう、声よりも感情が素直に出た瞳によって、幸運にもそれは嫌味だとねじまげられず、エセルに伝わった。


「べつに……今死なれると、金がふいになるからな」

「ああ、そうだったな。

 それで……あれからどのくらいたった?」


 この空を見る限りでは、それほどたってはいないだろうと見当をつけながら訊く。


「数分」


 あのような出来事のあとだというのに、緊迫感というものがまるで感じられない、のんびりとした声でエセルが答えた。


「あんなことが起きたんじゃ、おまえもいつまでも寝てるわけにはいかないんだろうと思ってね」

「あの子たちは?」

「さあ? 竜心珠のかけらをばら撒いたら、ネズミみたいに散ってった。

 どこかその辺りにまだいるんじゃないか」


 ということは、少なくとも殺してはいないわけだ。

 なぜかほっとする。もう本当の心は死んでしまった、ただ動いているだけの、からっぽの体だというのに。


 あれは魅魎の仕業だ。


 教えこまれた知識がそう断定する。

 おそらく、この街は襲われたのだろう。しかも子どもたちの腐敗の進行度合いからみて、まだ日が浅い。

 子どもの死体にあんなものを……仮初めの命などという、汚らわしいまがいものを入れて、斥候として配備し、知らずにやってきた侵入者に闇に侵された食物をすすめる。食卓に運ぶ前の味つけとでもいったところか。

 一体今まであの手で何人の旅人の心臓を喰らってきたのか……なんと悪趣味な!


 この街の大人たちが街の規模と比較して少なく見えたのも道理だ。最初の魅魎の襲撃で大半が殺されてしまったのだろう。

 そうして魅魎のお目こぼしで生き残った大人たちは、あのおぞましい姿に変えられた子どもたちを、それでも街の子だからと目をつぶって暮らしているのだろうか?

 それとも、逆らえばわが身が危ないと思い、保身に走っているのか……。


 この街を襲った魅魎は、どれだけ悪趣味なんだ。


 悪態を、知る言葉の限りにつこうとして、やめる。

 しょせん価値観の違う相手に向けて毒舌を発揮したところで、その一切が無駄なのだ。自分が味合わせたい思いの半分も向こうは感じてはくれない。むしろ、小気味よくさえ思うに違いない。自分の持つ力への、賞賛のように。

 そのとき、目の前でエセルが手を振ってきた。


「おーい、見えてるかー?」


 ぴくりとも動かず黙考していたセオドアに、何かを感じたのだろう。

 それにしても根っから明るい男だと、セオドアは心の中で苦笑しつつ、「問題ない」と応じる。


「それで、どうするんだ?」

「逃げるしかないな」


 ふうっと息をついて立ち上がる。


「あれ? 退魔しないんだ」


 驚いた、と茶化すように大袈裟に目を丸めてみせるエセルにかちんときて。セオドアは立ち上がると腰に手をあてた。


「当たり前だ。私はまだ見習いだぞ」

「だから驚いたのさ。見習いはいつだって己の腕を過信してるものだよ。死ぬ気でやれば、できるかも知れないってすぐ熱くなるしね」

「あいにくと、私は死者に義理立てた正義感に縛られるつもりはない」


 エセルの軽口の中にこめられた、辛辣な皮肉に内心ではむっときながらも無表情でそう返す。

 退魔師の心得はいつの場合でも生者の命が死者より優先されることにある。自分の命もまた然り、だ。この所業には当然腹が立つし、許せないとも思うが、もう起きてしまって元には戻せない事のために生者である自分の命を投げ出すのは愚かなことだ。


 ただ、公平を期して言えば、これはエセルに限らずとも誰もが冷たい仕打ちと思うであろうことだからわざわざ腹を立てるほどでもない。ないのだが……この男の口から出ると、妙に反抗心がもたげるというか、つい反応してしまう。


「そもそも、封魔具さえ持っていない今のわたしでは、退魔など夢のまた夢だ」


 それに、おそらくこの街を襲った魅魎は、自分なんかがかなう相手じゃない。

 ましてやここにはエセルがいる。

 魅魎の攻撃からまず一般人を護るのが退魔師の務めだ。この街への処置はミスティア国が考え、即刻手練れた退魔師たちが派遣されることになる。そこに自分の出番はない。


「太陽が完全に落ちる前にここを出よう」


 夜と昼とで魅魎の力が変わるわけではないが、知覚のほとんどを目に頼っている人間のほうはそうもいかない。

 闇色の強まった空を仰ぎながら、実行のむずかしさに眉を寄せる。


「そう素直に行かせてもらえたら、だけどな」


 立ち上がり、ばたばたと服についた土埃を払うエセルの返答に、はっと周囲を見回す。

 近付きつつある悪意の塊のような気配を感じ取ったときにはもう、貯水池を中心として放射状にある4つの細道全てから、子どもたちがぞろぞろと姿を現していた。


 まるで、この街の子ども全員がここに集結しようとしているように、あとからあとから現れる。


「こんな……」


 自分の口からもれた呻き声にも気付かずに、信じられないと目をみはってその周囲を見渡す。

 1人1人の放つ瘴気は小さいが、これだけ集まるとさながら1個の巨大な魔物と変わらない。

 その数と異様さに圧倒されているうちに、気付けば2人は池の縁に半円状に囲まれてしまっていた。




 だが今は自分を驚愕させた衝撃に浸っているときでも、数を前に萎縮しているときでもなさそうだった。

 先の者たちにはなかった殺気を今度ははっきりと感じ取り、腰の短刀を鞘抜きするや構えをとる。


 一応これは幻聖宮の能力者たちによって内側に〈道〉が開かれた、いわば下級退魔剣士の持つ破魔の剣と同種の物だが、しょせんは護身刀。これだけの数にこんな物がどこまでもつか……。


 それに、彼らは魅魎じゃない。

 無残に殺され、魂は食われ、中に入っているのはおぞましい化け物だとしても、この体は、子どもたちのものなのだ。


 ズタズタに切り裂かれた幼い体……。どんなに恐ろしく、痛かっただろうか。

 死してまでもああして利用され続けるなど、酷すぎる。


 これ以上傷つけるのは無力な死者への冒涜の気がして胸がしめつけられた。だが、だからといってエセルを同じめにあわせるわけにもいかない。


「相手にしなくていい。道を作るから、おまえは逃げろ」


 エセルにのみ聞こえる声でつぶやく。


「ばか。女1人残して逃げられるか」

「わたしは退魔師だ」

「落ちこぼれの見習いだと言ったくせに」


 ああ言えばこう言う。

 ぶつぶつと逆らってくるエセルに舌打ちをする。

 いまだかつてセオドアは、言葉でひとに勝てたためしがないのだ。


 ――ええい、面倒だ。


 説得に努力するという尽力を、今までの経験からきたその一言で投げ捨てると、セオドアは無言でまっすぐ人壁の薄いところへ向けて切りこんで行こうとする。

 「待て」と、その肩をつかみ止めたエセルの手を振り払おうとした、そのときだった。


 まるでこの状況には不似合いの、緊張感のまるでない笑顔でいるエセルのもう片方の手が、翠色した壊れかけの珠を持っていることに気付く。


「エセル?」

「壊れ物でも、まだ使えるうちは活用しないとね」


 これまた軽い口調でそう言って、手の中のそれを思い切りよく正面の子どもたちの足元へ叩きつけた。

 瞬間、珠は粉々に砕け散り、それにより解放された巨大な力は瞬時にして自らの意志で魔を討つように、黄金色した猛き炎獄の豪火と化して視界一面に広がった。


「行くそ!」

「あ、ああ……」


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