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第7回

 そのとき、一陣の風が身を切るような冷気と白光を伴って空より落ちてきた気がした。


 怒涛の一瞬。視界が白闇に包まれると同時に裂けた空間の悲鳴のような亀裂音が鼓膜を突き抜けるように強く響くが、それほどの音をたてた何かが当たったような地揺れは一切こない。


「女退魔師! 我に従え!」


 袋小路へと追いこみ、2人を囲っていた功労者たちまで容赦なく壁や地へとたたきつけた暴風とともに、そんな言葉が高々と上がった。


 夜の暗闇はやがて白闇を飲みこむ。そして白闇を伴って飛来した、まるで凝縮した闇のような濃い負の力は瞬時に人の形をとる。

 夜の闇に散る射干玉ぬばたまの髪。一切の光を拒絶した純粋な闇の瞳が、まっすぐセオドアを冷眼視していた。


 その全身から噴き出される負の力が強烈な存在感となって威圧してくる。見据えられただけで息が苦しい。


 殺意さながらのたたきつけるような凄まじい力に圧倒され、知らず、セオドアは後退あとずさっていた。


「わが主がおまえをお呼びだ。素直に従えば良し、逆らうというのであれば要らぬ痛い目をみることになるぞ」


 両腕を胸で組み、悠然と構えて現れた漆黒の魅魎はそう告げる。


「なあ。こいつがこの街を襲った魅魎か?」


 やはり相当鈍いのか、それとも魅魎の本当の怖さを知らなさすぎるのか。この魅魎が現れた瞬間からびりびりと全身に受ける、しびれるような圧迫感と重圧感をものともせず、この場にまるで不似合いの声でエセルが横から訊いてくる。


 かといってこの状況下では声を荒立ててそれをとがめることもできず、セオドアはゆるゆると首を振って見せた。


「違う……」


 その視線、彼女の感覚の全ては、前方の魅魎に釘づけになっている。

 己の力で姿形をも自由に作り替える魅魎らしく、ただならぬ美貌を持ちながら、これだけの事を短期で成した魅妖にしては感じられる力が小さい。


 とすれば、おそらく魘魅えんみ


 セオドアは絶望的にその言葉を浮かび上がらせた。


 魅妖など、強力な魅魎が己の力の一部を移した傀儡物くぐつぶつに人格を与えて作り出した、配下の者だ。

 つまり、どのように強大な力の持ち主であろうとも、それは主である魅魎の力の一端でしかない。


 これだけの力にあふれた者が、魘魅だって?


 「私はまだ誕生して二百年ほどしか経ていない、眷属の内ではまだ不肖の身。抗えば、せっかくのわが主の招待の席に五体無事でつける保証はないぞ」


 触れるまでもなく、近付いただけで凍りつきそうな冷気を四肢にまとわせた魘魅・冰巳ひみが、毒々しい嗤いを赤い口元にたたえて言う。

 その言葉にエセルが自分の背にセオドアを庇おうとする動きを見て――その姿を見止めた瞬間。冰巳の目はさも嬉しそうに輝いた。


「ほう、これはなんと美しい……身を包む輝きも強い。さぞや極上の生気をしているのだろう、おまえ。

 これだけのものを私などにくださるとは、わが君、いくら感謝しても足りぬ」


 その夢見心地につぶやかれた言葉が、エセルに対して発せられているのは疑いようがなかった。


 どうやらわずかな延命の招待は、自分だけに出ているらしい。

 素直に従い機を伺うというわけにはいかなさそうだ。


 そうさとったセオドアの手が、冰巳から死角となっている腰元からゆっくりと短刀を抜きにかかる。


 相手が本物の魅魎であるのならその身を断つことになんら迷いはない。ただ問題は、あれだけの不浄を断つだけの力がこの短刀に備わっているかどうかだ。


「おまえはさがっていろ」


 時を経るにつれ、肥大していくだけの不安を全て断ち切るように短刀を一気に鞘から抜くと、肩を押しのけて前へ出た。


「セオドア!」


 憮然ぶぜんとした声でエセルが責めてくる。それを敢えて無視することで思考の中から切り捨て、セオドアは全神経を前方の魘魅へと集中させた。


 手の短刀を見ても、冰巳に動じる気配はない。

 当然だ。たとえどのような力を帯びていようと、魅魎を萎縮させる剣はただひとつ。

 その命を輪廻の鎖からも断ち切って完全に消滅させることができる、魔断のみだ。


 それを十二分に知りながらも、セオドアには魅魎の申し出に応じる気はなかった。

 ここで自分が退けば、確実にエセルはこの魘魅に喰われる。これが魅妖みようなど、己自身の内より沸き出る力を持つ者であれば、まだ美を好む性質に期待できるが、魘魅は外部から取り込んだ生気でしか延命したり力を強めたりできない。


 いわば、魅魎としてはまがい物だ。強い生気を保有する心臓を何より好む。


 そういったところでは本物よりも厄介な存在。しかもあの言葉の様子だと、まず間違いなくエセルはこの場で喰われる。それが分かっていながら、見逃せるか!


「どうやら力ずくが好きそうだ」


 立ちのぼる戦意により、セオドアの決意を感じ取って冰巳が言う。


「あいにくと、融通のきかないたちでね」


 何気なさを装いつつ、慎重に答える。


「ならばそんなクズでなく、魔断を抜け、退魔師。我を倒さねばこの場を抜けることはかなわんぞ」


 あればとっくに抜いている!

 魔断どころか、自分は魔導杖すらない未熟者なのだ!


 今さらのように劣等感を刺激してくる悔しさに、歯噛みする。


 大体、魔導杖を身につけていない退魔剣師がどこにいるというのだ? なぜこの魘魅はそれを察してくれないのか……それとも精神的な嫌がらせか。

 しかし、だからといってわざわざ己の不利となるそれを知らせてやることはない。


「必要ない!」


 与えられた不快感ごとたたきつけるようにして返すと、セオドアは小さく息を吸い、止めて、直線的に走りこんだ。

 その間に素早く自分の内にこもっている力を引き出し、腕から手、手から指先へと伝っていくイメージで、その延長である短刀内へとみなぎらせてゆく。

 高まっていく力は、訓練どおり、碧翠色を帯びた光のイメージで統一された。

 短刀自身、幻聖宮の導きで力を受け入れて伝わらせる〈道〉を開かれていることもあって、反発もなくスムーズに端々まで満ちていく。

 内に高まる熱い気を握りしめた手のひらに感じながら、セオドアは冰巳が連続して放つ攻撃の白光の矢をギリギリで避けつつ、間合へと飛びこみざま全力で突きこむ。


 けれども、それは髪一筋の差で宙を突いたにすぎなかった。


 びゅるるとつむじ風のような音を残して、冰巳の体は空を転移したのだ。

 忽然こつぜんと視界から消えた冰巳に、しかしセオドアは驚きもせず、すぐさま右へと目を走らせた。


 初めての実戦に緊張した、力の過剰な発動にますます輝きを増した瞳が、普段であれば見ることのできない大量の気の歪みを感知する。

 流動する力。


「そこかっ!」


 しなやかに、そしてすみやかにセオドアの体は地を離れ、そちらの壁へと刃を突き立てる。が、それは決定打にはなり得ず、わずかに二の腕をかすめただけにとどまり、次の瞬間、セオドアの体は凄まじい勢いで膨れ上がった強風を近距離からまともに受け、したたかに向かいの壁へと肩を打ちつけた。

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