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第8回

 みしりと音をたてて背骨がきしんだ。


 駆け巡る、全身を千々に裂くような痛みに痺れた指がこぼしかけた短刀を、ぎゅっと握り直す。

 これを落とせば負けだ。


「おのれ……おのれ、たかが人の身の分際で、よくも……」


 声も、体も、震えていた。

 冰巳がそれ以上言葉を続けることを拒んだのは、セオドアへの怒りばかりではなさそうだった。


「もはや気遣うつもりはないぞ! 存分に苦しめ!

 命さえあれば、わが主はご満足してくださるのだから!」


 相手を力尽くで無力化し、屈服させ、恐怖の目で自分を見つめさせることに至上の喜びを見いだす。嘲りの声でそう高々と言い放つ冰巳の右手が虚空の闇へと伸びた瞬間。

 その一点において解放された力は、まるで周囲を真昼に変えでもするように燦然と輝き、そして次の刹那、その途方もない力は数千にも及ぶ鋭い氷片の矢となり、セオドアを襲った。


 避けるにはあまりに距離がなさ過ぎた――いや、避けるどころか、回避行動に移ることすらできない攻撃だった。


 しかしそのどれもが唯一顔に向かってこなかったのは、自らの怒りよりも辛うじて主の言葉を尊重したからだろう。

 だがそのほとんどを身に受けたセオドアの体は、いともたやすく背後へ弾け飛んだ。


「危ない!」


 頭から地へたたきつけられる寸前、宙に浮いた体を飛び出したエセルが抱きとめる。

 その身を切り刻んだ無数の矢の傷自体はどれも浅いものだったが、不浄の闇から受ける精神的打撃は凄まじい。今、セオドアは裸の魂を無理やり穢れた爪で削り取られたような、初めて浴びた息もできないほどの衝撃に、半ば放心していた。


「セオドア? おい、セオドア! しっかりしろ!」


 揺さぶるエセルの声が、遠くでしているように聞こえる。気を抜けば遠ざかりそうな声。

 しかしそここそが、今、全意識を向けるべき場所であるとセオドアは朦朧もうろうとした頭ながらも本能的に感じ取っていた。


「セオドア!」


 何度目かの呼び声に応じて、セオドアは彼の腕をつかむ指に力をこめた。

 なんとか身を起こす。

 短刀は……まだ手の中だ。


「退いてろ。危険だ」


 ぐい、とエセルの腕を押し退けるようにして立ち上がると、宙の冰巳を真っ向から見返した。

 先の攻撃で切れたらしく、口腔内に錆びた金属のような血の味が広がっていた。

 傷ついた体の中で沸き上がる、この力が何であるか知らない。けれど今、エセルを守り、この目前の敵を倒すためのものであるのなら、体中ー髪一筋にまでみなぎらせてもいい。


 先までのものとは少し違う、その力の操り方を、しかし彼女は教えられていなかった。


 指先一つ一つにまでこめられた熱い力が、とどめる術を知らないせいかどんどん溢れ出ていく。指先だけじゃない。全身から噴き出して……止められない!


 どうせ止められないのなら、その全てを正面の敵に叩きつけるまでだ。

 そう思い直すと、セオドアは体の強張りを取るために、一度目を伏せた。そうすると体内の熱っぽさとは反対に、意識が澄んでいくのが分かる。手を伸ばせば全てに触れられ、あらゆるものが見通せるような……距離や視界を遮る一切の物が、とるに足らなくさえ感じてくる。


 全て、一瞬の錯覚。


 閉じていた目を再び開いたとき。セオドアには、なぜか自分を見て驚愕に目をみはった冰巳の姿が映った。


「おまえ!」

 とても信じられないと、頑なに目の前の現実を拒絶しようとする、震えた声が聞こえる。

「そんな……」


 この、時間にも空間にもとらわれることのない、超越した力を持つ存在が一体何に恐怖するというのか。

 しかしそんな取るに足らない疑問に気を取られて、せっかくの機会を逃すわけにはいかなかった。


「消えろ!」


 吼える。

 その叫びすらも放出される力のように冰巳を圧倒し、そして次の瞬間、重なり合った2つの体は無数の小さな輝きに包まれていた。


「……ばかな……」


 弾かれ、そう呻いたのはセオドアのほうだった。


 宙の冰巳めがけて高く跳躍し、かざした短刀を素早く眉間へと振り下ろした。はずだった。

 なぜか放心しているようだった冰巳に、気迫のこもった鋭い一撃が到底避けられるはずがなく――実際、彼女は避けようともしていなかったのに。


 全身を襲った強い衝撃に気を失って落ちてくるセオドアの体を、落下位置まで走りこんだエセルが受けとめる。

 セオドアの周囲を囲むように一緒に降りそそいできた光がほおに触れた瞬間、走った鋭い痛みに驚き、エセルは目を細めた。


「なんだ?」


 思わずあてた指先に血がついている。


 足元に落ちた、キラキラと光るそれらが、冰巳が放っている光を乱反射して光る何かの欠片であると分かったとき、セオドアの右手に握られていたはずの短刀が、柄頭つかがしらまで砕けてしまっていることに気付いた。


 短刀は、粉々に砕け散っていた。

 粉末状にまでなった細かな破片には、いまだ宙を漂っているものもある。


 一体何が起きたというのか……しかし今のこの状況下では、それを考えているゆとりはなさそうだ。


「きさま……!」


 憎悪の煮えたぎった熱い声で、冰巳が顔を覆っていた手を外す。割れた額から黒い闇の血がどくどくと流れ出しており、白い頬を伝って地に落ちたそれは、まるで沐巳の熱い怒りをそのまま伝えてでもいるように、落ちた先から蒸発していく。


「許さん!」


 屈辱に憤激し、さながら野の獣のように咆哮する。

 だが、先の折りにもなんらひるむことのなかったエセルである。やはりその姿にもまるで気圧された様子はなく、むしろ無視するように目を覚まさないセオドアの身を軽々と抱き上げるや背を向けて、まっすぐ妖鬼たちのほうへと歩きだした。


 どうやら突っ切るつもりらしい。


「待てっ!」

「いやだね」


 冰巳のヒステリックな声に重ねて素っ気なく返すエセルの不遜な態度に、冰巳の手の中の力が再び増す。


「おや? こいつを殺してもいいのか?」


 手の内にこめられた力を見透かしたような言葉に、ぐっと思い止どまったのも束の間。しょせん本質が傍若無人の魅魎である冰巳の怒りがおさまるはずがなかった。


「ええい! ともに死ぬがいい!」


 激怒した声が上がり、指先ひとつに力がこめられる。

 肩越しに振り返ったエセルの紅鋼玉の瞳に、先の数倍もの力がこめられた凍気の矢が映った刹那。筆舌に尽くせない、凄まじい紅蓮の炎が2人の間を別つように高く噴き上がった。


「なにっ?」


 何の前触れもなく、突如として目の前に燃え上がった炎の柱に冰巳が目を見張る。


 幻覚ではない。確かに存在する、肌を焦がすほどに猛り狂った豪火にひるんだ彼女の前を、続くようにして鋭く切り裂く光がかすめた。

 ぱさりと冰巳の闇色をした髪が一房、闇に散る。そうして現れたときと同様一瞬で跡形もなく消失した炎の跡に降り立ったのは、エセルと同じ、赤の双眸を持つ赤銅色の髪の男だった。


「おまえ……おまえは――」


 突然現れた男を見て、冰巳は明らかに狼狽ろうばいしていた。


「去れ、魘魅えんみ。この方によって力の半ば以上を封じられた今のおまえに、私の火炎はきつかろう」


 男は抜き身の長剣の、わずかに反った切っ先を宙空の冰巳へと向けてそう言い放つ。

 その言葉が真実ではないと疑う余地は、冰巳の凍りついた表情を見れば、誰ももつことはできなかったろう。


 屈辱に、ぎりりと唇を噛みしめる、その口端を伝って、割れた額から黒い血がしたたる。


「たとえこの姿でも、今のおまえの依り代を灰にするだけの炎は導ける。

 さあ! 選ぶがいい!

 なおも我を通し、その死期を早めるか、それとも即座にこの場から立ち去るか!」


 険しい言葉が、強い光彩を放つ瞳とともに冰巳へと向けられた。

 冰巳は激しい憎悪に燃えた目で、まるで射抜くようにして男を見ると、次の刹那、その姿を闇へと散らせた。



「覚えおくがいい! 小生意気な虫けらどもめ! この冰巳が必ずやその生気を喰らい、四肢は生きながらにして卑しい妖鬼どもの餌としてくれるわ!」



 虚空から怒気を含んだ呪声が聞こえてくる。しかしそんな負け惜しみの捨て台詞を一々気にかけるほど、男に冰巳を恐れている様子はなかった。


 冰巳の撤退により解かれた結界から、待ち兼ねたように人の皮をまとった妖鬼がなだれこんでくる。

 男は無言のまま、ついてこいとエセルに目で合図を送ると、道を切り開くと言うように、抜き身の長剣を手にその中へ駆けこんで行ったのだった。

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