「おそらくは……。
漣の襲撃を受けたとき、かねてからの計画どおり、仲間の退魔師たちが迎撃に入るのと同時に私と剣士のレジェールとで街の者たちを避難させていたのですが、魅妖・漣の力はわれわれの想像を遥かに上回っており、内側からとはいえ、法師たちの結界をたった一撃で破るや妖鬼・魎鬼を召喚したのです。
その巨大な力を前に、口惜しくも力及ばず、街の者の大半は……」
もしや街中に取り残された者がいはしないかと、朱廻に確認に行ってもらったのですが……。
その言葉に至って、ルチアは声に出してつぶやけないようだった。
あの街で魅妖の手にかかり、おぞましい妖鬼に身も心も
これからも、何人も、何人も……。
まるで、蜘蛛の巣だ。
張り巡らされた妖鬼たちの網の中心には、大元の魅妖がいるに違いない。
セオドアでさえ、その様を想像しただけで冷たい汗が背を伝っていくような感覚に陥るのだ。それを防げなかったルチアの心をおおっている悲しみなど、到底計り知れるはずのないことだった。
「王都との連絡を、取られているとお聞きしましたが……」
恐怖と嫌悪感に総毛立った肌を鎮めるように、無意識に両の二の腕に手をあてる。その問いにも、ルチアの声音は芳しくならなかった。
「それが……。レジェールが、連絡を取りに向かってくれているのですが、ここはミスティア国でもかなりの辺境地で、しかもこの周辺の町への転移鏡はルビアに配置されていたのですよ……。
それが使えない今、一番近い町から移動用動物のイマラを用いたとしても2日。転移鏡を使用した退魔師たちの到着は、どんなに急いでもさらに5日後になります」
併せて7日。その間に事情を知らず、あの街を訪れる旅人や商人は何人……何十人になるか……。
両膝を抱き寄せ、湖を渡ってくる冷たい向かい風を額に受けながら、セオドアはその言葉ばかり何度も何度も繰り返していた。
封魔具だ。あのとき、ちゃんと持って出てくればよかった。机の上に置いてきてしまった、エメルディの、あの封魔具さえあれば……。
――いや、なくてよかったのだ。あればきっと、今ごろ自分はあの水路をたどり、街の魅妖の元へ向かって走っているに違いない。何の力もない今でさえ、こうして押しとどめているのがやっとなのだから。
それに、力の一端でしかない魘魅でさえ、あれほどの力を持つ魅妖だ。封魔具があったとしても、この街に配属されていた封師にもできなかったことが、はたして自分などにできるかどうか……。
今の自分にできるのは、こうして動かず、何もせず。これ以上の負担をルチアにかけないでいることだけ……。
つくづく己の力不足が歯がゆくて、腹が立つ。
我慢も限界近く、絶対にだれも来ないと分かっているのなら、このまま泣いてしまいたい。そんな悔しさで立てた膝に顔を
「セーオードアッ」
必要以上に明るいエセルの、自分の名を呼ぶ声がしたと思った瞬間、冷たい水の塊がまともに顔にぶつかってくる。
「……どういうことだ? これは」
真上にある、開いたままのエセルの手のひらから彼が何をしたのかさとってから、そう言葉が出せたのは、ずいぶんと間をおいてからだった。
エセルはどうやら本当に水浴びしていたらしく、まだ半乾きの濡れた髪から水滴をぽたぽた落としながら、悪びれたふうもなくにこにこ笑ってそこに立っている。
「あれ? 怒った?」
「……あきれた」
水浸しになった頭を振りながら、ぼそりと返す。
何を考えているんだ? こいつは。いい歳して、こんなガキくさいことをして。
「全然食事に呼んでくれないからまだ話してるのかと思ったら、こんな所にいたんだ。
気持ちいいだろ? この湖、月光にも底まで澄んで見えて、なかなかきれいだぞ」
とか言いながら横に座る。
汗と砂埃を落とせたのがよほど気持ちよかったのか、初めて見る上機嫌の顔で、ほおを撫でる程度の夜風にも目を細めている。
気にくわない。
これがくだらないやっかみだとは分かっているが、何もこんな、人が気を損ねているときにわざわざやってきて、こんなことしなくてもいいじゃないか。
つい、とがめるような目つきになってしまう。
自分の方が、よっぽどガキか。
そう思い直し、先のエセルのいたずらのせいでびっしょりと濡れた髪を夜風にさらすため、横三つ編みにしていた紐を引きほどく。髪を指で
満月とはほど遠い月明かりにさえきらめく紅鋼玉石の瞳は、やはり見る者を魅了せずにはいられない輝きを内側から放っている。
水路の際、朱廻の赤い瞳を同じものであると単純に認識してしまったが、こうして見ると全くの別物であることが分かった。
朱廻の瞳はこれほどの深みをもってはいない。これほど透明度が高く、いきいきとした生気にあふれた瞳は見たことがない。
まるで射抜くように強く、映るもの全てを瞬時に焦がしてしまいそうなほどに熱い眼差しは、幻聖宮にいる魔断刀たちにさえなかった……。
はっと何かに気付いたようにその瞳が自分の姿を映したとき。セオドアはようやく自分が見とれていたことに気付いて、あわてて目をそらした。
いたたまれず、身を離そうとする手を素早く取られ、強引に引き寄せられた。ほおや目尻に、エセルのひんやりした冷たい指が触れてくる。
「おまえ、泣いてたのか?」
「泣くものかっ」
払いのける。あせったため、かなり荒い仕草になってしまったが、かといって謝る気にもなれないで、つい、そっぽを向いてしまう。
「泣いてどうにかなるなんてことはないし、第一どうしてわたしが泣かなくちゃいけない?」
「ふうん」
思わず口にしてしまった突っ張った言葉に、さも理解しているような相槌をつきながらもエセルの自分を見る顔はしっかりと意味あり気な、声のない笑いを浮かべているのが分かる。
「何が言いたい」
「べーつに」
とか言って、にやにや笑ってくる姿に瞬間、セオドアは、こいつは何もかも見通してしまっているんだと直感した。
天幕にいたわけじゃない。おそらくその何もかもが確証のない、勝手な想像なのだろうけれど、悔しいがきっとそれは現実という的の中心を大きく射ているのに違いない。
「それで、出ていくのはやめにしたのか?」
平然とこんなことまで訊いてくる。
意地の悪いやつ。
「状況が状況だからな。転移鏡が使えない今、どうせ明日までに幻聖宮に戻るなんて不可能だし……それに、何もできないからといって、この事件を引き起こした張本人のわたしが一人逃げるなんて真似はできないさ」
第一、すんなりと逃がしてくれるほど魅妖は甘くない。
このオアシスだっておそらくまだ魅妖の手の内だろう。
街とは2つほど大きな砂丘を挟んでいることでまず気付かれることはないと、魅魎を詳しく知らない街の者たちを安心させているらしいが、実際は魅妖のほうが興味を持っていないというだけだ。
ルチアも頷いていた。天幕の灯や保護呪はあくまで不安に押しつぶされそうな皆の心を落ち着かせるためのもので、実際には目くらまし程度にも役には立っていないだろうと。
なんといっても相手は街1つを一夜で落とした、絶大な力を持つ魅妖だ。やろうと思えばこんな、深手を負った退魔剣師の張った柔な結界などたやすく破れるに違いない。なのにしないということは、まだ何かを企てているということか。
一体どこまで
「おまえ、まさか退魔しようなんて考えてるんじゃないだろうな?」
立てた膝に顔をうずめたまま、考えにふけるセオドアの姿になんらかを感じてか、不意にエセルが訊いてきた。
「まさか」
いつもこの勘のよさには驚かされる。それともこの切羽つまったとき、セオドアのほうが顔に出やすくなっているのか……。
とにかく鼻にかかったような、くもった声のままでそう即答したが、これ以上読まれるのを拒んで顔を上げることはしなかった。
「そりゃあこういうとき、本当なら血気盛んになって「死んでもいい! 今すぐ乗りこんでいって、やつを倒してやる!」ぐらい言わないといけないとは思う。だけど、それでわたしに何ができる?
魔導杖も封魔具も、破魔の剣すら砕いてしまった今のわたしは、知識があるだけの単なる足手まといだ……」
知識がなければ――せめて、退魔師としての心得がここまで染みついていなければ、無謀だと分かっていても向かって行っていただろうに。