●緑 地
長い水路を抜けて出た場所は、ルビアの街より西方に位置する緑地だった。砂漠に点在する緑地としては大きいほうだろう。
そこに、十数個の天幕が張られていた。
朱廻から聞いた限りでは、ここには街全体の需要を賄えるだけの水脈が通っているらしい。純度も申し分なく、飲料水として不足している他の町へとつながる水路も2つほどあるということだった。
「もっとも、今は救援を求めに行った者たちの手で内側から埋めてもらっていますが……」
自分の守護する地が魅魎の襲撃を受けたとき、たとえいかなる理由があろうと他の町に被害を増長させてはならないというのは退魔師の役目の1つである。
自分たちで対処しきれない場合、速やかに王都へ連絡を取ること。そして同時に他の町へとつながる、魅魎に利用されかねない可能性のある一切を断たねばならない。
自分が襲われたからといって、他の者たちにまでその危機を及ぼしてはいけないのだ。その際、混乱した頭のまま他の町へ逃げこもうとする者たちを鎮めて理性を取り戻させることができるかどうかも退魔師としての力量を問われることだ。その視点から見ると、この街の脱出を促した退魔師は相当の人徳者であると見てとれた。
湖を中心として、退魔法師によって円形に張られた守護結界内、幾つかの天幕から幕を透かしてほのかな灯が漏れている。さすがに外を俳徊する者の姿はなかったが、どの天幕も静かだ。
その内側では恐怖におびえ、身をすくませ、息を潜めているのだろうが、混乱して騒ぎ出す者はいない。見事だ。
「こちらです」
周囲に目を配る2人に、朱廻は前方の中型の天幕のひとつを指し示した。そして彼自身、気が
それは砂漠野営用の物らしく、深い深い藍色の地に保護呪の文様をちりばめているという、他の天幕と違う点やとりたてて目を引く飾りなどもない、地味で質素な物だった。
その天幕だけがなぜか灯はなく、動く人の気配すらない。
「私の
天幕に手をかけ、そう告げる朱廻の愁眉を寄せた苦悶の横顔に、己の操主である退魔師の傷の重さを気遣う苦しみを感じて、セオドアは半眼を閉じる。
と、その時、今まで素直に後ろをついてきていた足音がふと止まった。
「エセル?」
「やめた。
俺は外にいるよ。知りたいことは水路で聞いたし、それに、退魔に関して俺はまるっきりの部外者だ。
こういうのって、苦手でね」
頭の後ろで手を組むと、振り向いたセオドアと朱廻にあっさり言う。
「えっ? ですが――」
ストップ、と目を丸くした朱廻に制止の手のひらを見せると、
「俺は、席を外す。
あっちで水浴びでもしてるから、食事になったら教えてくれよな」
それだけで、まるで言い逃げでもするように湖のほうへ走って行ってしまった。
背を向けた一瞬、セオドアはその失礼な態度を止めようとするが、よくよく考えてみれば確かにエセルは初めから自分に巻きこまれただけの、ただの一般人である。未熟なばかりに街では彼に助けてもらいもしたが、本来彼は自分のような者が守るべき者なのだ。これ以上関われと言うことはできない。
そう思い直して、セオドアは伸ばした手を引き戻した。
「あ……では、どうぞ」
エセルの唐突さにとまどい、言葉を失っていた朱廻も、セオドアの自分を見る目に気を取り直して天幕をそっと引き開ける。
朱廻の肩越しに覗き見えた内側は、幕の重ねの効果で月明かりも遮断されていて暗く、そして傷ついた退魔師のために焚き込められているのだろう、沈痛作用のある薬草の刺激的な香りがツンと鼻をついてきた。
「操主……起きていらっしゃいますか?」
傷に響くのを気遣って、ささやくように訊きながら朱廻が進んだ先で、闇の塊が
ようやく闇に慣れたセオドアの目に、胸から腹部にかけて白い布を巻いた男の姿が映ったとき。その手が、枕元に立つ朱廻へ向けて伸ばされた。
「朱廻か……遅かったな。少し、まどろんでいたよ」
静かな声が聞こえた。低い、けれ よく抑揚のないくぐもった声で、それは性来落ち着きのある者の声というよりもむしろ、体に受けた深い傷によるものに思えた。
「………」
入り口にいる自分には聞き取れない、小さな声で朱廻が男の耳元に長くささやく。一度、男が驚いたような目をセオドアへ向けたところを見ると、街でのことを説明しているらしい。
2、3度訊き返し、再びセオドアへと向けられた男の視線は先よりもずっと優しく、ほほ笑みさえ浮かべて彼はセオドアへと包帯だらけの手を差しのべてきた。
「同志よ……どうぞここへ……」
促されるままに近寄って、あらためて見た彼の傷は、想像していたよりもさらに激しいものだった。
前髪に埋もれて気付かなかったが、頭部にも血のにじんだ包帯が厚く巻かれている。どうやら傷による熱も相当あるようだ。不規則な、浅い呼気をしながら朱廻の手を借りて身を起こすと、男は唯一生気を感じさせる視線でセオドアを見た。
「よくご無事で……私はルチア。ミスティア国王の命によってルビアの街に配属されていた、退魔剣師の1人です」
高熱に
見た目には三十代後半。十代で退魔師となり、魅魎と闘わねばならない上級退魔剣士や退魔剣師の寿命は、あって40そこそこといわれている。そのことから鑑みて、男は相当の手練れであると判断できた。
そんな退魔師を前に同じ退魔師と誤解されたままでいられるほど、セオドアは厚顔にはなれなかった。
「わたしは……」
思い出すことによってその都度感じていたあれやこれやがよみがえり、羞恥に言葉を詰まらせつつも、なんとか今までの出来事を語る。
エセルにしたときより簡潔にしたせいもあるが、ルチアも朱廻も一言も――
しかしその沈黙は終始優しく、問題の転移鏡の部分へ入っても、2人のセオドアを見つめる眼差しは変わらなかった。
何ひとつ正しい行いができなくて、流されるだけだった自分。それは、経験が浅いだとか未熟という言葉では到底免除しきれない。
罪過の重さにすっかり俯いてしまったセオドアの、ひざの上で握りしめていた手を、ルチアはそっと包んで開かせる。そうして面を上げたセオドアと目を合わせて、ゆっくりとルチアは口を開いた。
「怖かったでしょう。魔導杖も封魔具もなく、魅妖の街で魘魅に襲われるなど……怖かったでしょうね……」
その瞳から発せられている深みのある光は蒼駕を思い出させて、セオドアは言葉を失い、ただ首を横に振ることしかできなかった。
「そうですか……。
しかし申しわけないのですが、あなたを幻聖宮へ帰すことは、我々にはできないのです。
聞けばあなたは明日、幻聖宮にて感応式をされる予定とか……。フライアルのためにも、私も危険なこの地から逃してさしあげたいのですが、混乱した街の者たちをここまで誘導するのが精一杯で、館から転移鏡を持ち出すことはできなかったのです」
「そんなーそんなこと……いいんです。すべて私のせいで、むしろ、こんな事件を引き起こしてしまった私の方こそ、何と言って謝ればいいのか……」
それ以上、言葉を続けることはできなかった。
転移鏡を動かしたのは自分じゃないかも知れないが、それを魅魎に悪用される可能性を考えて、すぐさま届け出るべきだったのだ。
転移鏡の転移波は退魔法師たちの張った結界を通過して、街の中枢に配置された転移鏡へとつながる。その道を守護結界も張らずに通せば魅魎が利用しょうとするのは当然。
今さらながら己のいたらなさが身に染みる。
目尻の熱さを誤魔化すために、セオドアは強く唇を噛んだ。
分かっている。自分が泣いてすむことじゃない。落ちこんで、罪悪感でまぎらわしていいことではないのだ。まだ終わってないのだから。決して、元に戻すことはできないのだから。
せめて前を向かなくては。現状を打破してからミスティア国王の裁きを受けることが正しいはずだ。自分で自分を断罪できるなどと、思い上がりもはなはだしい。
目をそらさず、現実という真実をしっかり見つめなければ。
「街の方々は、ここにいらっしゃるだけなのですか?」
とにかく今は話を手早くすませてルチアへの負担を減らすことだ。
つまった喉を強引にこじ開け、努めて平静を装った言葉に、ルチアはとても……苦い物を口に含んだような辛い顔で、弱々しく答えた。