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第2回

●ルチア


 ――朱廻!


 自分の名を呼ぶルチアの『声』が、鋭い痛みとなって朱廻の心に突然響いた。

 そのただ事ではない、尋常ならざる響きにさながら心臓を爪でわしづかみにされたかのごとく息を飲む。

 まさかと天幕を顧みたと同時に、ルチアの天幕は目もくらまんばかりの光に包まれた。


操主そうしゅ……!」


 悲鳴のような声で呼んで、天幕に向かって駆けだす。

 ルチアを襲う痛みとあせりが、信じ難いほど強く朱廻へと届いていた。


 とても信じられなかった。どうして操主のこれほどの感情の乱れに、彼の魔断である自分が今まで気付けなかったのか。


 相対する魅魎への逆巻さかまく憎しみ。友を失った深い悲しみ。そして、己を焼きつくそうとする、激しい痛み。そういった強い感情全てが今のルチアの心を占めている。まるで、自分自身の思いのように、強く、強く響いてくる!


 まさか、気付かせまいとした?

 操主が、わざと自分に知らせまいとしたのか?

 なぜ!?

 こんなにも……感応し、彼の魔断としてつながっている一部から伝わってくる思いだけでさえ、自分の心は引き裂かれてしまいそうだというのに!!


「前を……前をあけてください。危険ですから、近寄らないで……!」


 一体この光と地響きは何事かと、ぞろぞろ天幕から出てきた者たちを避けつつ、すぐ後ろに続いていたエセルともども幕を跳ね上げて中へ入る。直後、2人は対流する強風となって自分たちを打ちすえようとする濃い悪意を真正面から受け、足を止めた。


「……操主!」


 天幕の中心で巻き上がる旋風の向こう側にルチアの姿を見つけた朱廻が、張りつめた声で叫ぶ。半壊した寝台にもたれかかったルチアは激しく咳きこんでおり、その口元は吐き出した血に赤く染まっていた。


 相当出血しているらしく、握りしめたシーツは血の海だ。全身で荒い息をするその姿に青冷め、すぐさま駆け寄ろうとした朱廻の足元に氷片が打ちこまれたのは、次の瞬間だった。


「おやおや。私にはあいさつなしかい? 礼儀のなっていない犬だね。せっかくおまえたちをこの場に招待してあげたんだ。一番のあいさつは、招待主である私に感謝として捧げるべきだと思うがねえ」


 含み笑いとともに、そんな、彼の真剣さを茶化す響きをした言葉が降ってくる。

 振り仰ぎ、そこにあるだろう魅魎の姿をにらみつけようとした目は、しかし彼女の姿を捉えた瞬間、先のルチアよりもはっきりと、驚愕に見開かれた。


「まさか、カナンさま……?」


 息を飲むほどの驚きと、そしてルチアの身に起きたこと全てをその一瞬で理解できた絶望で、呆然とその名をつぶやく。

 『カナン』と呼ばれた女は天高く吹き上がる白い風の渦の中心で、朱廻の見せた反応に大いに満足するようにその口元に毒花のごとき笑みを浮かべながら、不可視の椅子に腰掛けているように高く足を組んで彼らを見下ろしていた。

 とがらせた愛らしい口先から出た一息で、いまだ放心状態だった朱廻の体は後方へ軽く弾き飛ばされる。


「あ、おいっ!」


 すぐ後ろについていたエセルの手が、素早く肩を抱きとめた。


「急に呆けたりして、どうしたってんだ、一体」


 その問いに、朱廻は先の衝撃で切れた唇の端をぬぐいながら答えた。


「カナンさまです。街長のご息女で、操主の婚約者であらせられる……あの魘魅が、憑依している!」


 人の体に愚依し、その生気を糧として力を奮い、退魔師の戦意を鈍らせるのはよくあることだ。今までにも何度となく出会ってきたが、しかしこの時、何もここまで卑劣な手を使わなくとも……!


 全身が燃えるような怒りにかられ、ぎりりと歯を食いしばって立とうとする朱廻の腹部に、突然現実の痛みが小さく走る。冰巳の手より、うまく死角をついて放たれた何かがわざと皮1枚を裂いていったのだと直感したとき、あんなにも可憐な面を一体どうやればここまでおとしめられるのか、見るからにいやらしい、信じられないほどいびつに歪めて、冰巳はあからさまに嘲笑した。


「そうあわてずともちゃんと喰らってあげるよ。力のほとんどを依存する退魔師が衰えた今のおまえなどに、私の遊び相手だってつとまらないことぐらい、おまえだって承知しているだろう?

 賢い飼い犬は、常に己のというものをわきまえているべきだ。おまえはあとさ。こいつがこれから召喚する魎鬼どもに食い尽くされるさまを、そこでじっくり見物してるがいい」


 自身の優位さを存分に満喫し、己の吐く言葉によってますます陶酔しながら高々と冷罵する冰巳。

 その挟に小さなオレンジ色の炎が燃え上がったのは、その直後だった。


「なにっ?」


 冰巳の体の周囲で吹いている風によって、炎は瞬く間に掻き消されたために、果たしてそれが本物の炎であったのか、それともたわいのないただの幻影でしかなかったのかも定かでなくなる。しかし、彼女の顔に貼りついていた、醜い自惚うぬぼれの嗤いを消すには十分な炎だった。


「いいかげんにしろよ、おまえ」


 低い声がした。

 それは朱廻のものでもルチアのものでもなく、いつになく怒気をはらんだエセルの声だった。


 エセルと朱廻――甘さというものが全く失われた4つの紅玉の目が、静かに虚空の冰巳を見据えている。

 わずかに……周囲を取り巻き、ずっと体の自由を奪っていた濃い瘴気が薄れて、心臓まで凍りつきそうなほどの冷気が突如消えたことに気付いて、ルチアも寝台から面を上げた。


「たかが使い走りの分際で、思い上がりもはなはだしい。おまえの誇っているその力だって、魅妖からもらい受けただけのものなんだろうが。

 他人の体にとり憑いて、依存しているだけの寄生虫のくせに、あんまり大きな口をたたくなよ。聞いているこっちのほうが恥ずかしくなるじゃないか」


 なんの感情も読み取れない口調で、エセルは辛辣な台詞を淡々とつぶやく。

 よくよく聞けばあるいはなんらかの響きが感じられただろうが、2人のただならぬ気配を察知した冰巳はそれどころではなかった。


「……くっ」


 どこから出ているか知れない、エセルの得体の知れない余裕に身を固くし、ひるんだときだ。

 冰巳は、こちらに近付くもう1つの気配を感知して、新たに息を飲んだ。


 天幕が白閃に飲まれて消失した瞬間、結界で包まれたこの閉鎖空間に、招かれもせずに一体どうやって……!


 できるわけがない、とうろたえかけた胸を必死に静めようとする冰巳の努力を嘲笑あざわらうように、その者は見えない障壁などものともせず、突き破って現れた。


 これだけの療気の渦の中へ飛びこんでも、なおその力を燦然と輝かせる者を、恐る恐る振り返る。


「おまえ……おまえは……!」


 その姿に、冰巳は驚き、そして凝然となった。

 己の街を陵辱され、ようやくここまで逃れて来た者たちのただ一つのより所までいともたやすく汚し、滅茶苦茶にしてくれたこの魘魅に対する怒りにかられ、臆することなく立つ少女の碧翠色の両眼に。


 そしてそれは、このときのルチアにとっては見逃せない――冰巳には致命的な、隙だった。



「来い! 赤朧牙せきろうが!」



 渾身の力で立ち上がり、魔導杖を手にルチアが叫ぶ。瞬間、朱廻の体は内から発する光に包まれて、エセルの添えていた手元からその姿を消すと同時に、ルチアの手にはほのかに赤く染まった刀身をした、みごとな抜き身の長剣がおさまっていた。

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