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第5回

セオドアを庇う声が、彼女のすぐ近くで起きた。


「エセル、やめろ」

 彼らの言葉は当然のものだ。こんな自分なんかを庇って、おまえまでが非難されることはないと、セオドアはやめさせようとしたのだが、そんな弱い制止など全く耳に入らないと言わんばかりに無視してエセルは悠然と続けた。


「本当にそういった気持ちだけで言っているんならまだ少しはマシだが、女の子相手に八つ当たりは見苦しい。どちらにしても、自分の価値を下げるだけだ」


 さも不快そうに目を細める。


「八つ当たりだと!? 俺たちが今こんな目にあってるのは全部この女のせいなのは事実なんだぞ! この女が来なけりゃ、俺たちはこんな目に合わずにすんだんだ!」

「そうだそうだ!」

「それに、んなこと言うおまえだって同罪だろうが! その疫病神のお仲間のくせに、文句をつけてくるたあどういう了見だ!」


 エセルの、まるで強い意志だけでできているように輝く紅い瞳と、間近で見たその圧倒されそうな美貌につい、気圧されながらも負けじと強く言い捨てる男との間合をつめると、ぐい、と胸倉を掴み寄せ、エセルはいきなり平手を張った。


「エセル!?」

「頭の悪さもここまでくると始末に負えないな。俺の言った言葉の意味が、本当に理解できていないのか?

 起きたことに文句つけるより先に、そのとき自分が何をしたかを考えてみろって言ってるんだよ」


 そう言うと、ほかの者たちのほうへ突き放す。

 男は鮮やかに染まったほおに手をあててパクパクと口を動かしたが、驚きのせいかまだ声は出てこないようだ。


「いいか? べつに今回の件だけじゃなく、問題っていうのは起きたこと自体は大したことじゃないんだ。問題の起きない場所っていう存在のほうがおかしいんだからな。

 対策の不完全さを悔いこそすれ、起きたことそのものを重くみる必要はない。それを引き起こした当人以外には。

 本当の問題は、そのとき個人個人がどうであったかだ。

 おまえたちは最良を尽くしたか? 自分にできる事、出せる力を出し切って今ここにいるのか?

 そうでないのなら、おまえたちに今の彼女を責める権利はない。彼女はいつだって自分のできる精いっぱいのことをしようとしている。相手が魅魎で到底かなわないからと、ただ自分が助かることだけ考えて逃げたおまえたちよりずっとマシだ」


 これも内容としては結構問題のある言葉だったが、泰然と構えて言うエセルに誰も反論を返せなかった。


 分かっている。理屈では彼らも分かっているのだ。

 自分よりも弱く、いざというときには全力で守ろうとしていたはずの者を置いてきたのは自分。助けなかったのは自分なのだ。

 ただ、感情に勝る理性などあるわけがなかった。


「……彼女たちはどうなるんだ?」


 苦々しい声で、別の男が言う。


「そうだな……まあいいとこ暇つぶしの相手か、餌じゃないかな? このままだったら」


 先までの頼もしさはどこへやら。やはり一つ感情が長続きしないたちなのか、軽々にそんなことを返すエセルに、予想がついていたものの止めが間に合わなかった手でセオドアは顔を覆う。


「やっぱり助けに行くべきだ!」


 再び騒然とした人々の中から結論のようにその言葉が出てくる。

 やはり任せてはおけないと、エセルの肩を押し退けてセオドアが彼らの前へ出た。


「やめろと言ったはずだ。それとも街の者でもなく、この災いを持ちこんだわたしの言葉などきけないと言うのなら、ずっと街を守ってきたおまえたちの退魔師の言葉をきけ。

 彼がここまでおまえたちを導き、そして今また己の命賭けて守ったのだから」


 その言葉に、一斉にその場の視線が朱廻から止血を受けているルチアへと注がれる。

 ルチアはいまだ不規則な息を少しでも整えるように大きく息をすると、その一息に力をこめて言った。


「もう少し待ってほしい。あと少しで退魔師たちが到着する。王都より選抜され、派遣されてくる者たちだから、きっと、あの魅妖を退魔してくれる……」


 そう語るルチアの目が、先にもまして鈍い影を落としているのに、ふとセオドアは気がついた。


 夜ということもあり、他の者たち――こういったことには感づきやすいエセルと、腕の傷を見ている朱廻は除く――は、さすがにルチアの言葉には決心を揺らされたようで、ぼそぼそと隣同士で話し合っており、どうやら気付いてないらしい。

 しかもどうやらそれは彼の全身をさいなむ闇の傷よりももっと激しく、さながら直接心を傷つけられてでもいるようで、じっと、自分を見ているセオドアにも気付かない様子で一心に思い沈んでいる。


 あの退魔師が? これだけの災厄を招いてしまった自分などを快く受け入れ、むしろ気遣うほどの度量を持ち、そしてこれほどの大怪我を負いながらも魘魅を相手取った屈強の手練れが、一体何にそれほど心を痛めるのか。

 とても気になり、尋ねようとしたセオドアだったが、不意にルチアの体がぐらりと横に傾いだ。


「操主!」

「剣師どのっ!」


 急ぎ支えた朱廻の手により地に伏せることにはならなかったが、大量の失血のためかすっかり血の気               ろうの失せた、まるで最初から青白い蝋で作られていたのだと言われても頷きそうなほど白くなった肌色のルチアは、自分を心配する者たちの声に答えることも、重い目を開けて、不安を消すように見返してやることすらできずに意識を遠ざけていった。



◆◆◆



 同時刻。

 遠く、街へと続く冷たい水路のいずこかを、身を立たせる力のなか半ば以上を横の壁に頼りながら、冰巳はよろよろと進んでいた。


「こんな……こんな、馬鹿な……」


 虚ろな声でつぶやく。


 なぜ、この私が?

 どうしてあんな輩を相手に、この冰巳ともあろう者が敗走せねばならないのだ?


 その堪え難い屈辱に唇を噛みしめ、信じられない事実をもう1度確かめるよう、背中の傷へと指を這わせる。

 襟足から背骨を渡り、左の腰元までぱっくりと口を開けている。


 ただの器であるこの体を傷つけただけというのなら、この程度であればいつものようにすぐ直せるのだが、さすが長い年月を生きた魔断剣、あの一瞬で瞬時に彼女のしろのありかを見抜き、深く傷つけていた。


 切っ先が触れ、欠けたのは少しだけだったが、入ったひびにぴしぴしと割れが進んで、欠片がこぼれている。


 このままでは、自分は確実に消滅してしまうだろう。

 そのとても信じ難い事実が、ますます彼女の心を傷つける。


 いや、あれは不意をつかれたからだ。そうでなかったらあんな安っぽい手などにかかるものか。

 あのようなやつら、今ごろ皆殺しにしていたわ! 自らの敗北に恐怖し、勝ちを焦って姑息な手段を用いたことを恥じろ! れ者め!


 心の中で強くなじりながら、ますます朱廻への憎しみをつのらせていく。しかし魘魅として致命的な傷を受けたのは、彼女が信じられなくとも曲げようのない事実だった。


 力が、破損した所から除々に失われてゆく。宿るべき器が壊れ、主・漣から与えられた、己の命ともいうべき力が留まりきれず、端から漏れてゆく……。


 もはや彼女には、空間と空間の狭間の間隙を通ることすらできなかった。


 ここまでは何とか翔べたが、これ以上あの極寒に耐える力はこの脆くなった器にはない。そんなことをすればますます割れは酷くなり、館へ戻れた瞬間、完全に破砕するのは目に見えている。


 この器はもう駄目だ。新しい依り代をいただかねば。


「わがきみ。漣さま。どうかお助けください……」


 冰巳はよろめき、壁にすがりついて、結露した滴の垂れてくる天井を仰ぎ、自らを通じて事の一部始終を見ていたはずの主に向かって哀れを誘う声で懇願する。


 しかしいくら待とうとも、漣からの言葉も、ましてや深く傷ついた自分への迎えも、来る様子はなかった。

 代わりに、今の彼女の姿を憫笑びんしょうするような、小さな嘲り声が届く。


 空耳のようで、そのくせ耳につくそれは、まるで自分を見捨て、そこで死ねとでも言っているように聞こえてならなかった。

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